第194話 満月と囚われのアトラス
「礼なんかいいさ。大したことはしてない。」
ジャックはそう言ったが、フェイリーは首を横に振った。
「いえ、困っているところを助けてくださいました。何かお礼を・・・そうだ、この店で一番おいしいミートパイをごちそうさせてください!」
フェイリーは何度も頭を下げながら厨房の方へ走って行った。
リーフに少し似ている少女の後姿を見ながら、ジャックは崖の下の町での出来事を思い出していた。
記憶を失ったリーフと、夫婦として過ごし、愛し合った数日間・・・。
卑怯なことをしてしまったという自責の念もあるが、幾度となく肌を重ね合った甘美な記憶が心を占める。
(もう一度この手に・・・)
と思ってしまうのは強いお酒のせいなのか。
しかしリーフの幸せだけを願った今、その想いはもう決してかなうことはないだろう。
「はい、どうぞ!」
明るい声とともに美味しそうな匂いが漂ってきた。
ジャックの目の前にアツアツのミートパイが置かれている。
フェイリーはジャックの前のイスにちょこんと座り、じっとジャックの顔を覗き込んだ。
「召し上がって下さい!美味しいですよ!」
屈託のない明るい笑顔。ジャックもつられて少し笑みがこぼれた。
「じゃあ、遠慮なく頂くかな」
ジャックはただ想っていた。目の前にいて微笑んでいるのがリーフだったらどんなに幸せだろうか、と。
ダグラスが炎の大剣で、隠れ塔の最後の扉を壊した。
リーフはダグラスの後ろで小さなランプを持ち震えあがっている。
「こ・・・この中にアトラスさんが・・・」
何百年も生き、隠された塔に幽閉された恐ろしい怪物とは、一体どんな姿をしているんだろう。
扉が開いても数秒、リーフは目を開けられなかった。
「久しぶりだね、ダグラス」
穏やかな声が六角形の暗い地下室に響く。
(あれ??思ってたのと違う・・・)
リーフは恐る恐る目を開けた。
目の前には、にこやかに微笑んでベッドに腰かける紫色の髪の男。
(この人が、アトラスさん?)
リーフは息をのんだ。
「久しぶりだな、アトラス。ん?もう鎖は外してあるのか。」
長年アトラスを繋いでいた鎖は綺麗に外され石の床に落ちている。
「しかし、国の連中もアホウばかりだな。そんなもんでお前をつなぎ留めてきたと思ってる。」
ダグラスはさびた鎖を一瞥した。
「そんなこと言わないで。それは、そう見えても数百人の僧侶が念を封じ込めて作った鎖なんだよ。
彼らの努力に敬意を表して、とりあえず繋がれたことにしてたんだから」
「ま、おしゃべりは後だ。さあ行くぞアトラス」
「まあ、そんなに慌てなくてもいいんじゃない?ボクがこの地下で過ごした年月を考えれば些細な時間だよ、ダグラス。
まずはそちらの可愛いお嬢さんを紹介してくれないと。」
アトラスは伸びきった前髪をかき上げた。
「あっ・・・」
リーフが思わず声を出してしまうほど美しい水色の瞳。
「紹介しろだと?お前にはわかってるんだろアトラス?お前はずっとこの世の知識を、優れた能力を死体の脳みそから吸収してんだからな。
囚われの吸血鬼アトラス」
リーフはバッとダグラスの方を振り返った。
「し・・・死体の脳みそって・・・・」
「最近は初めての人に何も説明しないのが流行っているのかい?」
アトラスは硬直するリーフを見て面白そうに笑う。
「面倒くさくてね、それに百聞は一見に如かずっていうからな」
ダグラスは、アトラスの横に座った。
「アトラスは我がツルギの国の王家のご先祖様なんだ。」
一瞬悩むリーフ
「ご先祖様・・・?」
「遥か昔、まだツルギの国が国として成り立っていなかった混沌の時代、彼の地に一人の男が現れた。
その男は知恵があり、力があり、勇気があった。すぐに野蛮で私欲の塊だった人間をまとめ上げた、それがこのアトラスだ。
そしてアトラスは1人の少女を娶り、王家を築いた。ツルギの国の始まりだ。」
「その王様が、どうして何百年もこの塔に閉じ込められているの・・・?」
アトラスは肩をすくめて困った顔をした。何百歳か分からないほどなのに、そんなしぐさは20歳そこそこの茶目っ気がある青年に見える。
リーフは、恐怖は感じていたもののアトラスに嫌な感情は持たなかった。
「その話は長くなるからね、また今度・・・。さあ、ダグラス、ボクを外に連れて行ってくれるかい?
久しぶりに満月の光を浴びたいんだ。」
アトラスとともに塔を出る。
辺りは思ったより明るかった。
それは巨大な満月が空一杯に広がっていた為だった。
まばゆいばっかりの月光が暗かった森を煌々と照らし出している。
「こんなにお月さまって近くにあったっけ・・・」
リーフは、クレーターまで見えそうな月を、魅入られるようにうっとりと眺めた。
「いいね、最高の満月だ。ところでダグラス、ボクちょっと水浴びしたいんだけど、いいかな。」
「そうだな。夜でもグレンの国は暑すぎる。近くに川があったはずだ。リーフ、一緒に行って手伝ってやれ。」
「え・・・どうしてボクが・・・」
「綺麗にしてやれよ。お前、アトラスに抱かれることになるんだぜ?赤のドラゴンの欠片の保持者だからな」
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