第22話 Boy's Side(8)

「行ってらっしゃい」

 日曜の朝、小さく手を振る母さんに見送られて、ぼくと父さんは家を出た。父さんの運転する自動車くるまに乗って、都内のテニスコートまで行くのだ。

「母さんも来ればいいのに」

「疲れているらしいから、ひとりでゆっくりさせてやろう。父さんも寂しいけどな。帰りにお土産を買っておこう」

 頷き返しながら、ぼくがあんなことをしたせいで疲れているのかな、と思って、なんとなく気がとがめた。しばらく車窓から街の風景を眺める。曇り空を貫くように街路樹がまっすぐに立っている。

「今日は誰が来るんだっけ?」

「えーと。山脇やまわきだろ、西方にしかただろ、大沢おおさわだろ、それから」

 みんな父さんの友達で、ぼくも可愛がってもらっている。

「須崎のおじさんは来ないの?」

 父さんが助手席のぼくをにらみつけてきた後で大声をあげた。

「来るわけないだろ。あんなことがあったばかりなのに」

「やっぱり?」

「そりゃそうだ」

 赤信号。休みの日なのに早い時間からたくさんの小学生が目の前を横切っていく。

「なんだ。サラちゃんに会いたいのか?」

「サラじゃなくて、おじさんに用があるんだよ。こないだのことを謝りたいんだ」

「そんな必要はない」

 父さんが低い声で断ち切るように言う。

「でも、ぼくはおじさんに殴られてもしかたのないことを」

「生意気を言うんじゃない」

 狭い車内で怒鳴られて固まってしまう。そこで青信号になって、自動車くるまが再び走り出す。

「大声を出して悪かったな」

 父さんの顔に後悔の念がにじんでいるのを見て、自分がよくないことを言ったのがようやくわかった。まだ心臓がバクバク言っている。

「ううん」

「父さんが今怒ったのはおまえのためじゃなくて、圭司、須崎のためなんだ」

「おじさんの?」

「ああ。あいつはサラちゃんを愛しているからな。おまえに謝りに来られると、それこそ本当に殴っちまうかもしれない。でも、そうするとあいつは余計に苦しむことになる。子供に痛い思いをさせてしまった、ってな」

 いつだったか、誕生日に須崎のおじさんに電子辞書を貰ったのを思い出した。今でもそれはよく使っていて、おじさんはぼくのことを見てくれているんだ、とありがたく感じていた。でも、そんな人を裏切ってしまった。

「だから、おまえが謝りに行かない方がいいのさ」

「ごめんなさい。ぼくが間違ってました」

 そう謝ると父さんはかすかに笑って、

「さっきは怒っちまったけどな。でも、正直言うと感心もしたんだ。こいつ、謝ろうとする気持ちはあるんだな、って。逃げないで向き合おうとする気持ちはあるんだな、ってな」

 何故だろう。怒られたときよりも褒められたときの方が、ずっと涙がこぼれそうになる。

「これは黙っておこうと思ってたんだけどな、父さん、この前一人で須崎に会いに行ったんだ」

「え?」

 全然気がつかなかった。

「息子の不始末を詫びるのも父親の仕事のうちだからな。頭を下げたら、“子育ては難しい”って笑ってたよ。でも、とてもつらそうでなあ。女の子の父親はきついのかもな。俺は娘がいなくてよかった、ってつい思っちまった。まあ、今からできるかもしれないけどな。おまえもほしいか? 妹」

 思春期の人間に答えづらい質問をしないでほしいし、特にぼくの場合は夏休みにあんな光景を見てしまっている。危うく思い出しかけて頭の中の扉に急いでロックをかける。

「だからまあ、おまえがそうしたいなら、もう少し時間が経ってから謝りに行ったらいい。須崎もその頃には落ち着いて心の整理ができてるだろう」

「うん」

 そうしたかった。そうしようと思った。

「あ、でもな」

 父さんがいきなりぼくを見てにやりと笑った。獲物を見つけた肉食獣の目をしている。

「おまえは今日大変かもしれんぞ」

「どういうこと?」

「さっき言いそびれたんだけどな」

 そこで黙ってしまう。妙な溜めを作らないでほしかった。

「今日のテニス、間宮も来るんだ」


 テニスクラブのラウンジでぼくはガチガチに緊張していた。椅子に腰かけたまま指を固く組み合わせていた。強く組みすぎてもう取れないんじゃないか、と自分でも思った。もともと人付き合いは得意ではないし、父さんの友達はたくさんいて、その人たちにいちいち挨拶するだけでも疲れる。さっき西方さん家のルリとマリが来たのに、小さな女の子を相手にそっけない態度をとってしまって自分の大人げなさが嫌になった。でも、それ以上にヒカルちゃんと今会うのが怖くて仕方なかった。

 そう。間宮さんも来る、とさっき父さんから聞いてからぼくの頭はそのことで一杯だった。ヒカルちゃんとどんな顔をして会えばいいのだろう。ただ、疑問もあった。彼女は本当に来るのだろうか、と。何故なら、今日はぼくらと間宮さんと西方さん、夏休みに一緒に泊まったメンバーが揃うのだ。嫌でもあのことを思い出してしまうはずで、ものすごくショックを受けていた彼女がそんな場所にわざわざ来るだろうか、そう思っていた。来なければいいのに、と期待すらしていたかもしれない。そんなことは今までなかったし、そんな風に思いたくはないのに。

「おお。リョウマくんだ。また大きくなったかな」

「久しぶりね。元気にしてた?」

 間宮のおじさんとおばさんが入ってきた。二人とも満面の笑みを浮かべている。今日みんなと会えるのが楽しみでしょうがない様子だった。

「こんにちは」

 あわてて立ち上がって挨拶する。でも、ぼくが本当に気になったのはおじさんたちではなく娘さんのほうだった。少し待ってみても彼女は入ってこない。やっぱり来ていないのだろうか。

「ヒカルちゃんは?」

 気になりすぎたのでしかたなく聞いてみた。ああ、あの子なら、とおじさんが答えようとしたのと同時に、彼女がラウンジに入ってきた。足を止めることなく、両親の横を通り抜けると、さっさとコートの方へと歩いて行ってしまった。そして、ぼくのほうを見ることは一切なかった。

「おい、どこに行くんだ」

「ヒカル、リョウマくんに挨拶なさい」

 おじさんとおばさんがあわてて声をかけても彼女は振り向きもしなかった。後ろ姿に固い決意が表れているようで、つい見とれてしまった。何をしても何をされても、ぼくは彼女をいいように思ってしまう。価値判断が壊れてしまっている。

「まったくもう。あの子ったら」

 おばさんが文句を言いながら娘の後を追いかける。

「悪かったね。最近はずっとあんな調子でね。年頃の女の子は難しいな。後で謝りに来させるよ」

 そう言われて、ああ、いえ、そんなわざわざ、と答えようとしたけど、ヒカルちゃんのお父さんは返事を待たずに立ち去ってしまった。間宮さん一家がみんなラウンジを出ていくのを確認してから、ぼくは椅子に座り直して大きく溜息をついた。

 やっぱり、ぼくのことを怒ってるんだな。そう思うしかなかった。完全に無視されてしまった。でも、無視されるのは前からよくあることだしな、と思いかけて、さすがにそれを前向きに受け止めるのはどうか、と自分でも思った。Mにはなりたくない。とはいえ、今日ここまで来たんだな、という思いもあった。彼女の姿を見られたのは嬉しい。そうだよ。今日の格好もすごくかわいかった。歩きながらカバーに入ったラケットを右手で軽く振っていたのも、スキップほどではないけどぼくの好きな動きだった。しかし、なんといっても今日の格好はかわいい。

 そう思ってにやついていると、ガラスのローテーブルをはさんだ前の席に誰かが大きな音を立てて座り込んだ。乱暴だな、と思って顔を上げてみて、ぼくは言葉を失ってしまった。ヒカルちゃんが目の前に座っていた。

 嘘。さっきはぼくを無視したのに、どうしてわざわざここに来るんだ。もちろん嫌ではない。嫌ではないけど、どうしていいかわからなくて動けなくなる。何を話したらいいのか、話してはいけないのか。どんな行動もできずにいると、うつむいていた彼女が視線だけを上に向けて、ぼくをにらみつけてきた。

「なに? 文句あるの?」

 いわゆる「メンチを切る」という行動のはずだったけど、美少女はそんな品のないふるまいをしても美しく見えるのだから、お得な存在というか恐るべき存在だった。

「え? いやいや、文句なんてそんな。あるわけない、あるわけない」

 完全に挙動不審だ。ぼくの返事に、ふん、と鼻を鳴らして、彼女はまた下を向いてしまった。背中が汗で濡れていくのが自分でもわかる。もう準備運動は必要ないのかもしれなかった。それはテニスにも言えることだし、彼女に対しても言えることだった。話しかける勇気がぼくの中に芽生えていた。

「久しぶりだね」

 彼女は答えない。

「元気だった?」

 彼女は答えない。次の言葉を言うのは、勇気が要った。

「あのときは本当にごめん。謝って済む話じゃないのはわかってるけど、それでも謝らせてほしいんだ。ごめん。本当にごめん。ダメなぼくで本当に」

「ああ、もう。少し黙っててよ」

 ぼくをにらむ彼女の目に怒りの火が見える。

「あんたがダメなのはわかってるから、黙っててよ。それに、その話をされるだけでも嫌。思い出したくない。二度と言わないで」

 そう言い終わると、彼女は視線をぼくから外した。そりゃそうだよな、とぼくも納得するしかない。彼女にとってあの夜は嫌な思い出でしかないのだ。つらくても受け止めるしかなかった。

「わかった。その話は二度としない」

 ふん、とまた鼻を鳴らした。かわいらしい音色だった。そこで会話が途切れる。その間、目の前の彼女の姿を遠慮することなく見渡していた。今日は真っ赤なジャージを着ていた。サイドに白いラインが走っている。運動をするためにそういう服装をしているに決まっているけど、そんなシンプルな格好がかえって彼女の美しさを引き立てていた。それにもともと彼女には赤がよく似合う。しかも、今日はポニーテールにしている。すごくレアだ。これもやはり運動のために長い髪をまとめているだけなのだけど、なんというかもう、破滅的にかわいい。今日の格好が夏休みの白のワンピースと同率首位で、ぼくの中で今まさにデッドヒートを繰り広げている。

「そっちこそ」

 妄想の世界に入りこんでいたので、危うく彼女の呟きを聞き逃すところだった。

「そっちこそ大丈夫だった?」

「え?」

「ほら、あの。わたし、あなたにあんなことをしちゃったじゃない。それで、あなた、痛かったんじゃないか、って」

 コテージの2階から突き飛ばしたことを言っているのだろう。

「あ、それはね、うん。そのときは痛かったよ。息ができなくなったし。でも、特に怪我はなかったから、別に気にしなくても大丈夫だから」

「気にしてなんかない。どうだっていい」

 少し気を悪くしたように見えた。でも、ヒカルちゃんはぼくと話をする気があるのだ、とわかって目の前が一気に明るくなる思いがしていた。

「あのさ。ぼくも気になっていたんだけどさ。あれから大丈夫だった?」

「話が漠然としすぎてて、何を言いたいんだかわからないんだけど」

 舌打ち混じりに言い返される。

「ああ、ごめん。えーとね、夏休みにさ、ぼくとヒカルちゃんはさ、その、大人たちのああいうところを見ちゃったじゃない。それでさ、帰ってから親と普通に付き合えているのか、って思ってたんだ」

 その言葉を聞くと、彼女の顔から苛立ちが消えたように見えた。ぼくの問いかけが検討に値すると思ってくれたのかもしれない。

「そっちは?」

「うん?」

「そっちは、親と大丈夫なの? まずそっちから話してよ」

 言われてみれば確かにその通りで、話を振ったぼくから説明すべきだった。

「ぼくのほうは、特に変わりなくやれてる、と思う。少なくともケンカするとか無視するとか、そういうことはないよ」

 そこまで言うと、さまざまな思いがあふれ出してきた。そのことを今まで考えないようにしてきた。考えたところで片のつく話ではないし、誰にも話せることではなかった。でも、さっき自動車くるまの中で思いだしかけてしまっていたのに加えて、何よりも今は目の前にヒカルちゃんがいた。唯一気持ちをわかってくれる人がいた。

「父さんたちが、大人たちのやっていたことは今でも理解できない。そうしようとも思えない。嫌いになりそうなときもあったけど、結局はそうはならなかった。ずっとかわいがってもらって、今まで大事に育ててもらって、あれひとつだけで嫌うのも違う気がしたんだ。だから、今でも普通にしている。でも、それが正しいのかというと」

「もういい。もういいから」

 まくしたてるぼくを彼女が止めた。興奮してしまっていた。こうなるのがわかっていたから、今まで考えないようにしてきたのだ。

「やっぱりあなたはいい子なのね」

 褒めてくれている、というよりは、からかわれているように感じた。

「でも、わたしもそうなの。パパとママを嫌いにはなれない。汚らしい、とか、軽蔑する、とか思う気持ちはあるんだけどね」

 そこで彼女がぼくを見た。優しい目を向けられて戸惑ってしまう。

「だけど、リョウマくんがあのとき言ってたじゃない。“ぼくたちが大人になるしかない”って。ああ、その通りだなあ、ってよく思うんだ。だから、わたしはなるべく早く大人になろうと思ってる」

「ぼく、そんなこと言った?」

 よく覚えていない。あの夜はいろいろなことがありすぎて、記憶からこぼれおちてしまったのかもしれない。

「なにそれ。なんで言った本人が覚えてないのよ。ばかじゃないの」

 彼女の目から優しさが消えて蔑みに変わった。どうしてぼくはいつもこうなのだろうか。自分にがっかりする。

「今日こうして来ちゃったのも、大人になろうとしたからなんだけどね。正直、来たくなさMAXだし、リョウマくんと会うのも気が進まなかったんだけど。でも、行かないと、パパとママがすっごく心配するからさ。親に心配されるのって、きつい」

「ぼくはヒカルちゃんに会えて嬉しいけど」

 また、ふん、と鼻を鳴らされた。これ、どうにかして録音できないかなあ。写真と動画と一緒にコレクションしたい。

「ねえ、それ」

「なに?」

 彼女がぼくの前に置かれたアイスティーを指さした。

「それ、わたしも飲みたいんだけど。リョウマくんだけ、ずるい」

 それなら、と手を上げてウェイターを呼ぶと、すぐに来てくれた。彼女にもこれと同じものを、と頼むと、なんとなくかっこいい気がしたけど、お金を払うのは父さんなので、あまり威張れる話でもない。アイスティーもすぐに来て、彼女はストローでちゅーっと飲んでから、満足そうに一息ついた。ぼくの頭にもストローを刺して吸ってくれないかな、と危ないことを考えていると、

「忘れて」

 いきなりそう言われた。

「え?」

「あの夜のことは忘れてほしいの。なかったことにしてほしい。本気じゃなかったから。気の迷いだったから。どうしてああいうことをしたのか、自分でもよくわからない」

「そんな」

 いくらヒカルちゃんでもそれは聞ける話ではなかった。頭に血がのぼるのを感じる。

「嫌だよ。ぼくにはとても大事なことを、そうやってなかったことにされるのは絶対に嫌だ。ぼくはずっと、一生あのことを忘れないよ」

 少し怒っていたかもしれない。彼女にそんな態度をとるのはあまりないことで、実際目の前の女の子は驚いて表情を硬くしていて、顔が端正なせいで彫像のように見えてしまっている。

「そんなこと覚えてたって無駄だよ。わたしたちには2度とあんなことは起こらないんだから」

「ぼくはあのときまで、きみとあんなことになれるとは思っていなかった。でも、起こらないはずのことが本当に起こったんだ。だから、もういちどああなる可能性は十分あるし、いつかぼくはきみとまたああいうことがしたいと思ってる。ヒカルちゃんがどう思おうとぼくは」

「やめて」

 話を無理矢理打ち切られた。興奮して声が大きくなっていたかもしれない。中学生同士の修羅場を披露してもしょうがなかった。

「なんなのよ。“ああいうことがしたい”って。自分が何を言ってるかわかってる?」

「いや、それは」

 言われてみれば、露骨なことを言ってしまった気もする。彼女の顔も赤くなっている。

「一応、オブラートに包んだつもりなんだけど」

「オブラートでもビブラートでもなんでもいいから。そういうこと言わないで」

 そもそもオブラートってなんだろう、と思いながら反省する。ビブラートもよくわからない。ヒカルちゃんはもう一度アイスティーを飲んで、なんとか落ち着こうとしているようだった。ぼくも焦らせたくはなかった。

「まあ、あんたがそう思いたいなら、それは自由だよね」

 少しの後、彼女は皮肉交じりの口調で話し始めた。

「忘れたくないなら覚えていたらいいよ。考えたら、わたしにはそんな権利なんてないしね。無理を言っちゃってごめんね」

 そういう言い方をしてほしくなかったけど、言い返すつもりもなかった。

「でも、わたしは忘れたいの」

 そこで彼女は黙ってしまった。かぽーん、かぽーん、とコートからラリーの音が聞こえてくる。ぼくらの試合はまだ始まらないのだろうか。

「どうしてあの後わたしに何も言ってこなかったの?」

 また彼女が話を切り出す。

「連絡したほうがよかった?」

「ううん。してくれなくてよかった。あれから今までどうにか忘れようとしていたしね。あなたから電話かメールが来ていたら、また頭ががちゃがちゃになってたかも。今そうなっちゃってるけど」

 背もたれに身体を預けて、彼女が上を見る。

「ああ、それなのにさあ。何故か知らないけど、わたしの周りはリョウマくんの話で持ち切りなんだよね」

「え?」

 驚いていると、彼女がぼくのほうに向き直った。勢いよく下を向いたせいで、ポニーテールが激しく踊った。

「あんた、お母さんに変なことをしてるところ、見つかったんだって?」

 ごげが。

 息が詰まった。母さん、ヒカルちゃんたちにまで言ってたのかよ。そんな必要ないじゃん、なんでだよ。

「本当にばかだよね、あんた。何見つかってんのよ。それ以前になんでそんなことしてるのよ」

 そう言ってにやりと笑う。ぼくをいたぶるのが楽しいのか、瞳が美しく輝いているのが見える。でも、そんなに悪い気もしない。ネコに追い詰められたネズミも意外とこんな気持ちなのかもしれない。嫌だけどしょうがないなあ、と思っているのかもしれない。ただ、少し妙な気もした。

「あの。その。つかぬことをおうかがいしますが」

「どうしたの? 大丈夫?」

 口調がおかしくなって心配されてしまう。

「その、ぼくが何をしてるのを見つかったのか、ご存知なのかと」

「知らない。知るわけないでしょ。知りたくもないし。ママは“ひとりエッチしてるのを見つかったんでしょ”って言ってたけど。なんなのよ、それ。気持ち悪い」

 それでわかった。母さんは、ぼくが「変なこと」をしたとは言ったけど、その具体的な中身までは言ってないのだ。だから、ぼくとサラが「変なこと」をしようとしていた、というのをヒカルちゃんは知らないわけだ。不幸中の幸い、というか、九死に一生、というか。

「ママが心配してね、“14歳だからそういうことに興味を持つのは仕方ないけど、あなたはまだそんなことないよね”って。そんなことを、もうとっくにしちゃってるのにね」

 やけっぱちのような言い方だった。あまり彼女らしくない。

「あと、それとね」

 まだぼくの話が続くのだろうか。いい話題ならいいのだけど。

「どういうことかよくわかんないんだけど、こないだサラが“リョウマくんに告白した”って電話してきたんだけど、あれ何なの?」

 サラ! どうしてそんなことをするんだ。マジで勘弁してほしい。

「“そんなこと言われても、わたしは関係ないよ”としか言えなかったんだけどね。実際そうだし。もしかして、あんた、告られたときにわたしの名前を出したりした?」

「いや、あの。サラはぼくがヒカルちゃんを好きなのを知ってたんだよ」

 そう言うと、彼女は最大級にうんざりした顔になった。ここまでのものはぼくも今まで見たことがない。

「もう。本当にいい加減にしてよね。あんたさ、少しは気持ちを隠す努力をしなさいよ。動物じゃないんだから。一応人間なんでしょ?」

 はい、そのつもりです。

「で、サラにはどんな返事をしたの?」

「ああ。それはね。えーと、あれ? そういえば、返事してないな」

「はあ?」

 驚いた拍子に彼女の椅子が動いたようで、立てかけておいたラケットが倒れてしまった。いかにも面倒そうに立てかけ直してから、ぼくをにらみつけてきた。完全に怒りモードだ。

「あんた、何考えてるのよ。そんなの有り得ないでしょ。女の子が告白してきたのにスルーするなんて。しかも、“そういえば”、だって。そんなの、最悪よりもっと悪いよ」

 反論のしようがなかったけど、サラもぼくに返事を求めなかったので、ぼくもうっかりしてしまっていたのだ。

「そうだね。それはぼくが悪かった。謝るよ。ごめん」

「わたしじゃなくてサラに謝って」

「うん。サラにはちゃんと返事をするから」

「わたしには関係ないけどね」

 彼女が腕を組むのを見て、ふと思い出した。

「あ、でも、サラはそう思ってないよ。あの子は、ぼくがヒカルちゃんを好きだと知ってるから、関係あると思ってる」

「だからそれは」

「サラが言ってたよ。“ヒカルちゃんには負ける気しない”って」

「はあ?」

 また驚いて椅子が動く。今度はすぐにラケットを押さえたので倒れずに済んだ。

「なにそれ。かなりわけわかんないんだけど」

 口ぶりは落ち着いていても、激しく怒っているのが伝わってくる。怖い。

「サラはきみと勝負してるつもりなんじゃないかな。」

「勝負って」

 ふたたび最大級のうんざり顔が見られて、それはそれでなんだか嬉しくなってしまう。ヒカルちゃんにとってサラが競争相手になるとは、まったく思いも寄らないことだったのだろう。トイプードルにケンカを売られたライオンも、怒るよりも先にうんざりするのかもしれない。

「いいよ、別に」

 拗ねたように彼女が呟く。

「うん?」

「サラがそういうつもりなら、わたしは喜んで負ける。喜んでリョウマくんを譲るよ。まあ、そもそもリョウマくんはわたしのものでもなんでもないんだけど」

 サラと勝負すること自体を嫌がっている、勝負しただけでもプライドが傷つく、そんな言い方だった。小柄な身体の中に燃えるような感情が秘められているのを見た気がする。ただ、ぼくとしては言っておきたいこともあった。

「あのさ、ヒカルちゃんとサラだけで決めるんじゃなくて、できればぼくの意思も尊重してほしいような」

「ああん?」

 喰い殺しそうな目でにらまれたのでそれ以上言葉を発するべきではなかった。

「とにかく、あなたたちの関係にわたしを巻き込まないで。2人で好きなだけやってくれればいいから」

 彼女がラケットを持って立ち上がった。これ以上ぼくとは一緒にいたくないようだ。

「ヒカルちゃん、ちょっと」

「先に行ってる」

 そう言ってコートへと歩いて行ってしまった。彼女の姿が消えるのを見届けて、大きく息を吐いてから、アイスティーの残りを飲み干す。氷が溶けて9割がた水になっていた。

 今の会話をどう考えればいいのか、迷っていた。いや、迷うのは間違いだとすぐに気づいた。少なくとも会話することはできたのだ。その時点で最悪は避けられている。満足すべきだった。どんな形であれ、彼女とのつながりはまだ切れてはいない。

「あ」

 そこで実は危機一髪だったことに気づいた。ぼくが変なことをしていた、というのと、サラがぼくに告白した、というのを組み合わせると、ヒカルちゃんが「変なこと」の真相に気づいていた恐れがあったのだ。たぶん、サラは電話でそれらしきことをほのめかすことくらいはしているだろうし。知られなくてよかった、でももし知られていたらどうなっていたのか、そう同時に思っていた。危なかった。

 つかつかつか。誰かが近寄ってくる。え、と思って顔を上げると、今消えたばかりのヒカルちゃんがぼくのもとへと足早に歩いてきていた。どうしたの、と訊く暇もなく右手を取られて立ち上がらされる。そのまま一緒にコートへと向かう。ヒカルちゃんがぼくの手を引いて歩いていく。サラが男子部の前で待っていたときとは逆だな、となんとなく思った。

「どうしたのいきなり」

 そう訊いても彼女は答えない。怖い顔をしていた。ぼくのせいなのだろうか。

「一人にしないで」

「え?」

「お願い。今日は一人にしないで。さっきあんなことを言ったばかりで自分勝手なのはわかってるけど、一人にはなりたくない」

 声が少し震えているような気がした。それでも歩くスピードは変わらない。

「おじさんかおばさんと一緒にいれば?」

「あの人たちは、こういうところに来ると、自分のことしか考えなくなっちゃうから。わたしそっちのけになっちゃうから」

 ふふっ、と寂しげな笑みがこぼれた。それにしてもいったいどうしたのだろう。わけがわからない。でも、彼女が何かに不安を覚えているのは確かで、それを抛っておけるはずもなかった。

「わかった。今日はずっときみのそばにいるよ。できればいつもそうしていたいけど」

「そこまでしなくてもいいから」

 かなり本気でもあった軽口はあっさり受け流された。入り口の近くに立っていた大沢さんと西方さんに軽く挨拶してから、コートに入る。

「リョウマくん、ありがとう」

 かすかなささやきではあったけど、ぼくの耳には確かに聞こえていた。そのとき、ぼくはやはりヒカルちゃんでないとダメなんだ、と強く思っていた。そして、それをサラに言わなくてはならない、とも思っていた。

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