圧迫 その四

 【今日は貴方がいらっしゃらなくて退屈でしたわ】

 家にいても職場にいても孤独感に苛まれている状態の夢子は、自身で取り決めたルールを破って川瀬とのメールを頻発させるようになっていた。仕事の合間は常にケータイと向き合い、家にいても体調が優れないと部屋にこもっている。

【今日『リップ・オフ』に正社員にしてもらえるか打診してみたら前向きな返事が貰えたよ】

 川瀬からはほぼ即レスで吉報が届く。

【これで上昇気流に乗れますわね】

 夢子にとって、味を落とした川瀬の料理は口に合っていた。入院中に食べた弁当は正に“理想の味”であり、二〜三人分はあった量をほぼ一人で平らげている。それを見た夫と母二人が譲ったというより、口に合わず食べようとしなかっただけなのだが。

【不思議だな、貴女にそう言われると本当にそうなるような気がするよ】

 自身を女神のように崇めてくれる川瀬の言葉は、夢子にとっても心地良いものであった。東京にいた頃は独身だったこともあり、持て囃されて甘やかしてもらえるのが当たり前の環境にいた。ところが箱館ではそれが通用せず、頼りのはずの小野坂でさえも彼女に冷たくなっている。

 何としても夫の心を取り戻したい……川瀬に寄りかかりながらも本心ではまだ小野坂に気持ちが残っていた。相変わらずつばさをライバル視し、未だ得意の色仕掛けを崩していないので成果は全く上げられていない。

 そろそろ智を説得しないと……夢子は夫を転職させようという企みを持っていた。そのために味方を付けようと姑江里子のケータイに通話を試み、一度目は出なかったが履歴を見たのか少し待つと彼女の方から通話着信が届いた。

「はい」

『お風呂入ってて出られなかったの。何かあった?』

「実はねお義母様」

 夢子は神妙な口振りで話し始めた。

「『オクトゴーヌ』の堀江さんってご存知かしら?」

『そりゃまぁ智の上司だからね』

「あの方実は殺人犯なんですって」

『えぇ、聞いてるわよ』

 意に反した返事に彼女は落胆する。

「えっ?」

『東京戻る前、結婚式のお礼も兼ねてご挨拶させてもらったの。その時に伺ったわ』

「それで何も思わなかったんですの? 相手は殺人犯ですのよ」

『それは智が決めること、三十になる息子の行動にまでいちいち口出しするつもり無いわよ』

 江里子は笑いながら言った。

「でも東京と北海道では離れ過ぎているし、育児環境は東京の方が圧倒的に良いから引越しも視野に入れようって……」

『そうなの? 智からは何も聞いてないわ。元々そういうの言ってくる子じゃないけど』

「そのつもりなんです、なので夫には『オクトゴーヌ』を辞めてもらわないと……」

『智はそうしたいって言ってるの? その方向での話し合いはちゃんとできてるの?』

「えぇ……ですからお義母様からもお口添えをして頂きたいんです」

『私から言うことは何も無いわ、お互いが納得して決めたことであれば自由にしてもらって構わないから』

 江里子はあくまで中立の立場を崩さなかった。そもそも息子が『オクトゴーヌ』を退職する意志が無いのは夢子以上に感じ取っており、そのために箱館での生活の一助にでもなればと美乃と共に奔走したのだ。

 姑はそう締めて通話を切ったため、結果から言えば説得は失敗に終わる。ここを先に崩しておきたかった夢子のアテは外れたが、今度は実母美乃とも連絡を取る。ところがこちらは血縁関係があるだけに姑よりも辛辣であった。

『ここに言うくらいなら智君と話し合いなさいよ』

「これは由々しき事態なのよ、お母さんからも説得してよ」

『何を? 本人が好きでやってる仕事なんだから妻でいたいなら尊重してやんなさい、おかしな仕事してんじゃないんだから』

 これまで美乃は家族の決断に口を挟むような真似をほとんどしてこなかったので、そう言われてしまうと妙な説得力があってむやみに反論できない。

「それとこれとは違うわ、相手は犯罪者であり殺人鬼なのよ。そういうことは事前に知らせておくべきだわ」

『じゃああんたは一度でも“美人局”経験があることを知らせたことがある? 無いでしょ、それと一緒』

「娘に向かって言う言葉じゃないでしょっ!」

 母の思わぬ暴露に夢子は憤慨した。

『何も知らないとでも思ってた? こっちが黙ってると思って好き勝手ヤりたい放題してたくせに。それに比べたら堀江さんのことなんて可愛いもんよ』

「今更何よっ! そう言うんなら止めてくれても良かったじゃない!」

『止めて聞くタマなの? 枕営業だってこっちが頼んだ訳じゃないからね、何でもかんでもお父さんのせいにして自分から悦んでヤッてたんでしょ?』

「酷い……」

 夢子は不利な現状を泣き落としでごまかそうとするが、当然実母相手では通用しない。

『何が? そのせいで何人被害者出してると思ってんのよ? お父さん借金よりもあんたの尻拭いに苦心してたんだからね、小宮山さんにも随分助けてもらったのよ』

「まだあの男に借り作ってるの?」

 気を取り直した彼女は隙ができたと母をなじる。

『彼の愛情と善意を散々踏みにじってきたあんたがそれ言うの? ホント我が娘ながら上手く逃げたと思うよ、小宮山さんには感謝しかないわまったく』

「……」

 数多ある不倫の全貌まで把握されていたとまで思わなかった夢子は、それ以上何も言えず口をつぐんだ。

『家庭のことは自分でどうにかしなさい。ただ今度あの子を裏切ったら次は無いからね』

 美乃はそう言って通話を切った。夢子は母に言われた言葉を脳内で反芻し、徐々に目を吊り上げていく。

「見てらっしゃい、私の本気を」

 彼女は空を睨みつけてから憎々しげに呟いた。

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