圧迫 その一
初雪が降った十一月上旬、『オクトゴーヌ』周辺は昨年のボヤ騒ぎのような物騒さも無く、表向きは平穏な日々が流れている。カフェ営業は連日ほぼ満席状態で雪が降る中でも十分繁盛していると言えたが、本業のペンション営業は閑散期ということもあって素泊まりの単身客がほとんどであった。
食中毒の影響がまだ残っているのか、はたまた閑散期もどこ吹く風で相変わらず一人勝ち状態のOホテルの影響かは不明であるが、本業の苦戦により川瀬の出番はほとんど無くなっている。仕事のクオリティーも後輩たちに追い抜かれ、正社員でありながら三つ目のアルバイト先『リップ・オフ』というレストランを優先するようになっていた。
一方、年明けのリニューアルオープンを目指して着々と準備を進めている『アウローラ』には、再び小野坂がアルバイトとして出入りしている。しかし川瀬のように本末転倒的な入れ込みようではなく、ペンション業務の合間を縫う形であくまでサポートメンバーという立場を崩さなかった。
それでも本業の『オクトゴーヌ』、アルバイトの『アウローラ』、そして家事と育児に追われている小野坂は日々忙しく過ごしている。夢子が産休中のため稼ぎ口が彼一人であり、育児は稲城のお陰でどうにかなっているが、家事に関しても何をする訳でもない妻にほとほと愛想を尽かせていた。
何もしなくていいからもう仕事行けよ……顔を合わせるのも億劫になっていた小野坂の元に、旦子が古参の従業員二名を連れてふらりと『離れ』にやって来た。
「案外機能してんだべさな」
最近はつばさを定期的にこちらに連れてきているため、『DAIGO』の従業員もちらほら姿を見せている。特に相原母子、北見ほか数名は九年前からの知り合いなので、従業員である夢子とよりも親しくしていた。
「うちん子も連れてきていいかい?」
古参の夜営業スタッフである
「『DAIGO』の方なら大丈夫だと思いますよ。オーナーに話しておきます」
「ん、ダメならダメでいいしたからさ」
彼女はそう言って笑顔を見せた。
「ただもうちょべっとシフト増やしたくてさ」
「フロアん子の補充が要るんだべ」
旦子はフロアスタッフが定着しないことを嘆いていた。
「そうなんですか?」
「ん。
なら夢子を復職させてくれ……そう言いたかったが、『DAIGO』の事情に私情は挟めない。その後も旦子たちの口から夢子の名は一切出ず、小野坂は『DAIGO』内の妻の立場を垣間見たような気がした。
仕事を終えて帰宅した小野坂は、まだ寝る時間でもないのにスケスケのネグリジェを身にまとった夢子の姿に驚愕する。しかも下着を一切着けておらず、ある意味フルヌード状態であった。
「お帰りなさい智」
「風邪引きたいのか?」
彼は妻の的外れなセクシャルアピールに呆れてしまう。
「ねぇ智ぅ」
「腹減ったから飯作るわ」
馬鹿馬鹿しくて相手などしていられないと妻を軽くあしらって台所に立つ。こういう時にアレ食いたいんだよなと思いつつ、味噌汁の具材として大根、ワカメ、油揚げを選ぶ。
夢子はこの日のために産後エステに通って身体をぴかぴかに磨いてきており、補正下着の甲斐あってお腹の妊娠腺もほとんど消えている。自慢のバストもビキニラインもきれいに整え、夜の時間に向けて準備万端であった。
つばさを授かってから、自身よりも娘を優先する夫の愛を取り戻そうと夢子は夢子で策をめぐらせていた。きっとあの時の脱糞のせいだと考え、それを払拭しようとこれまで以上に身なりに気を配っていた。
ところが実際はそういったところが理由ではないので、そうすればそうするほど小野坂の心は妻から離れていく。できないなりに家事に取り組み、不器用でも娘を愛する姿勢を見せていればと色仕掛けする夢子に失望していた。
俺この女の何に惚れたんだろう……一度どころか二度愛し、生涯を誓って結婚した。つばさも授かり、これから自分たちの新たな家庭を作っていこうという矢先に歯車が狂い始めた。家事がほとんどできないのはもちろん承知していたし、彼自身家事仕事は得意分野なのでそれは気にならない。
しかし出産に携わった医療関係者への罵倒暴言、立ち合いに遅れたことへの度重なる嫌味、そして日々成長する娘に全く興味を示さない態度に妻として以前に人としての魅力も感じなくなっていた。当然色仕掛けにも体はほとんど反応せず、下手なエロ雑誌のモデルよりもつまらない女に見えていた。
小野坂はこの瞬間から“離婚”の二文字が脳内にちらつき始め、顔を合わせてもほとんど口を聞かなくなっていく。それでもめげずに色仕掛けをしても効果は得られず、寂しさを募らせた夢子は少々早めに職務復帰を果たしていた。
ところが休んでいた数カ月の間に『DAIGO』の雰囲気も変わっており、更に居づらさを感じていた。川瀬と共に
「久し振りだべ
三笠は格別夢子に嫌悪感を持っていないので平常心で接している。他の従業員も表向きは態度を変えていないのだが、産休前の祭りのことで注意を受けて以来彼女が一人で気まずさを感じていた。
「小野坂、ですわ」
「そうだった。したらわちも旧姓したから
三笠はそう言って笑う。
「でしたらそう呼ばせて頂きますわね」
「いんや、そこん男と苗字被るしたから三笠のまんまにしてけれ」
彼女は見たことの無い調理スタッフの男性を指差した。
「あん子も深川なんだべ」
「左様ですの」
夢子は俳優ばりのイケメン男子を見てほくそ笑んでいた。夢子は早速仕事中の彼に近付いて初めましてと声を掛ける。
「何すか?」
彼は一切手を休めること無く夢子と視線を合わせない。
「小野坂夢子と申します、産休が明けましたので今日からお世話になります」
「どうもわざわざご丁寧に。深川です」
彼は返事だけして調理に集中していた。こういう態度の男性は何としても振り向かせたくなる夢子は、女心を分かっているじゃないのとモテ女スイッチを稼働させる。それこそ小学生の頃から息をするように男性を誑かし、それなりの成果を上げてきた実績がある。ちょっと連れて遊ぶには最高じゃないと深川に目星を付け、隙を見てはセックスアピールを仕向け始めた。
こも行動が北見の地雷を踏み、夜営業のスタッフとの折り合いを悪化させた原因である。後輩スタッフへの色仕掛けにキレた彼が大悟に直談判し、退職させろと息巻いたほどであった。それと結婚時期が重なって川瀬と親しくなり、昼営業中心のシフトにチェンジさせて今に至っている。
「そったらことしささってたらそら北見さん怒るべ」
夢子の本性を目の当たりにした三笠も徐々に距離を取り始め、必要以外の対話と協力しかしなくなった。
ただこのナンパ作戦は長く続かず、深川が同性愛者と分かった途端夢子は手の平を変えて徹底的に嫌い始める形で終息を迎える。そうなると今度は川瀬の第三のアルバイト先である『リップ・オフ』に入り浸るようになっていた。
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