最高に最悪な日 その一

 紅葉の季節真っ只中の九月末、小野坂家ではいつ出産を迎えてもいいようほぼ準備は整っていた。夢子の腹の中の子も女の子と分かってベビーグッズの色合いは淡いピンクで溢れ、二人の母もその日のため彼女の体調を気遣っている。

「智、何かあったら連絡するから」

 小野坂の実母江里子は普段通り息子を仕事へ送り出す。

「分かった、行ってくるよ」

 彼は母二人に見送られて『オクトゴーヌ』へと向かう。このところ夜勤は外しており、子供が生まれたらひと月ほど育児休暇の申請もしている。

 夢子は夫に出産の際の立ち合いを強く望んでいた。実際予定日の前後三日間休みを入れていたのだが、見事空振りしたというのが現状である。

「どうして生まれてくれないの?」

「予定日はあくまで予定日、ずれて当然じゃないか」

 予定日通りに事が運ばなかったとゴネた娘に実母美乃が窘める。

「なら出産まで休みにするのが当然じゃない」

 夢子は何が何でも夫に立ち合ってほしいと譲らなかった。

「だから『何かあったら連絡する』って言ってんじゃない」

「それじゃ遅いのよ」

「遅いもんか、陣痛来たからってすぐに生まれる訳じゃないんだよ。どんなに早くったって何時間かは掛かるもんなんだって、産科さんとかプレママ教室とかでそれくらいのこと聞いてんでしょうが」

「そうだったかしら?」

 まるで絵空事のように浮ついた態度でいる娘に美乃はため息を吐く。

「あんた大丈夫なの? そんなところまで智君任せにして」

「だって北海道弁でお話されるからちんぷんかんぷんなんだもの」

「だったらその場で質問しなさいよっ、大事なことなんだから。本当にやる気あんのっ?」

 このところワガママが増幅している夢子に美乃は容赦無い物言いをする。そこで喧嘩が始まって江里子か小野坂が仲裁に入り、夢子が泣き出して有耶無耶になるという状態が頻発していた。

「何かもうウンザリだ」

 小野坂は車の中で一人そう呟いた。そんな気持ちを抱えながらも目の前の仕事を通常運転でこなし、いつでも連絡が取れるようケータイを常に持ち歩いている。

 午前十一時にカフェがオープンして、ランチタイムのピークが過ぎた昼下がりに小野坂のケータイが動きを見せる。いよいよかと一旦事務所に入って画面をチェックすると、実母江里子からメールが入っていた。

【ユメちゃん陣痛始まった。私立病院に救急搬送されて今分娩室】

 内容を確認後ロッカーから鍵と財布を持ち出し、昼休憩で『離れ』にいる堀江に妻の陣痛が始まったことを伝えた。

「病院行ってくる」

「うん、行ってらっしゃい」

 小野坂が『離れ』を出たところで、昼のまかない目当てで遊びにやって来た村木と鉢合った。

「なした? 智」

「嫁さんが産気付いたから病院行ってくる」

「そうかい。んで、どこだべ?」

 村木はポケットに入れていた車の鍵を当然のように取り出した。

「私立病院」

「したら送っちゃる、一人だと焦らさっちまうべよ」

「あぁ、頼む」

 彼は友の申し出を受けると、ペンションに置いてある『赤岩青果店』の営業車に乗り込む。

「何や、嫁さん産気付いたんか?」

 ちょうど焼き上がり後の片付けで出てきていた嶺山が二人に声を掛けた。

「えぇ、病院行ってきます」

「飯まだやろ? ちょっと待っとれ」

 嶺山は一旦厨房に入ると、少ししてから二つのビニール袋を持って二人に差し出した。

「待ち時間にでも食え、状況によっちゃ長丁場になるぞ」

「ありがとうございます」

 まかないのサンドイッチを受け取った二人は出産を控えた夢子の元へ向かっていたのだが、坂道を下って幹線道路へ出ると日頃見ない交通渋滞が出来上がっていた。


 掛り付けの私立病院に緊急搬送された夢子は、すぐさま分娩室に入った。小野坂が来るまでは実母美乃が立ち合っているのだが、息むどころか智は何処だと喚いている。

「さっき連絡したところだから職場出たくらいなんじゃない?」

「どうして来てないのよっ! 立ち合うって言ったじゃないっ!」

「無茶言うんじゃないよ、目と鼻の先って距離じゃないんだから」

「ああぁ痛い痛いっ! なんて痛さなのっ!」

 夢子は間隔が狭まる痛みに顔をしかめる。

「小野坂さん、呼吸忘れちゃなんね」

「煩いわねっ! そんな余裕無いわよっ!」

 彼女は担当の産科医にまで当たり散らし、美乃は我が娘のワガママ振りに呆れ返る。

「赤ちゃん頑張って出てこようとしてんだべ」

「だったらこの痛み何とかしなさいよっ!」

「出産ってそういうもんなんだよ! あんたがちゃんと息んでやんないと出てこれないでしょうが!」

「あーもうっ! 智は何してるのよっ!」

 夢子はプレママ教室で習ったことを思い出す余裕も無く、痛みに任せて文句ばかり言っている。

「今向かってるって言ってんでしょ! あの子はそんな薄情な子じゃないんだよ!」

「ならどうして今いないのよっ! 仕事なんかに行かせるからじゃない!」

「あの子だって取れる休みは取ってんだよ! どこまで甘えりゃ気が済むの!」

「私のこと愛してるなら飛んでこれるはずよっ!」

「馬鹿言うのも大概にしな! あんたは赤ちゃん産むことに集中しなさい!」

 いつまでも出産に向き合わない娘を美乃が一喝する。

「痛い痛いっ! 出てきたいのなら痛み止めなさいっ!」

「人間一人出てくるんだから痛いに決まってんでしょっ! そもそも無痛分娩断ったのあんたじゃないか!」

「小野坂さん、しっかり息んでけれ!」

 とおに破水している状態なので、何とか出産を促そうと医師が子供を押し出すよう腹をマッサージする。

「触んじゃないわよっ! 痴漢行為で訴えるわよっ!」

「先生に向かってなんて口の聞き方してんのよ!」

「煩いっ! 医者だってんならこの痛み何とかしなさいよっ!」

 夢子は医師の手を払いのけてのたうち回る。医師と看護師は子を無事世に出すという使命のみで必死に業務にあたっているが、夢子は彼らの使命などお構い無しで勝手放題の暴言を吐き散らかしていた。

 美乃はそんな娘の醜態を見るのが辛くなってくる。新しい生命が誕生する節目にこんな気持ちにさせられるとは……こうしてしまった自身を恥じながらも腹立たしさが湧き上がってきた。

「きゃあ!」

 暴徒化した夢子に蹴られた看護師が後ろに飛ばされて尻もちをつき、美乃は慌てて彼女に駆け寄った。

「娘の失態、お許しください」

「いえ大丈夫ですよ。ただお母さまは離れらさった方が宜しいかと」

 彼女は美乃の補助で立ち上がり、気丈な表情で再度戦場へ戻っていく。別の看護師は腕を引っ掻かれて血を滲ませており、産科医も男性であるがばかりに性をかさにした罵声を浴びせられていた。それから三名ほどの医師と看護師が応援に駆け付けたが、夢子は喚き暴れて抵抗し続けている。

「いい加減にしな……」

 少し離れた場所にいた美乃は、あまりに酷い娘の醜態に堪忍袋の緒が切れた。怒りが沸点を超えると信じられないほどに頭が冷え、周囲の喧騒も聞こえなくなっている。

 彼女は静かな足取りで戦場に近づき、周囲にいる医療関係者を傷つけ悪態を吐く夢子の頭を思いっきり引っ叩いた。何が起こったのか分からない彼女は呆けた顔で母を見上げ、医師や看護師も呆気に取られている。

「いつまでごねりゃ気が済むの? あんた智君に惚れて一緒になったんじゃないの?」

「……」

「腹の中には誰の子がいるの? 一旦産むと決めたんなら腹括って親になれ!」

 その言葉に夢子は瞳を潤ませて今にも泣き出しそうな表情を浮かべている。

「あんたのせいでしなくていい怪我させられた看護師さんの方が泣きたいんだよ」

「だって智来てくれない……」

「そんな思い上がった態度で厚かましいこと言ってんじゃないよ、智君の愛が欲しいんなら子供世に出してあんたからも愛してやんな!」

「うぇっ、ひくっ……」

 夢子は仰向けに寝転がったまま涙を流し、手の甲で拭った。次の瞬間再度陣痛が襲い、もう耐えきれないとばかり子供のように大声を上げて泣き出した。

「うわあぁぁん!」

 この子にはもう何を言っても無駄だ……美乃は心の中で娘を見限り、医師たちは出産を放棄した妊婦の扱いに困り果てていた。

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