算用と現状 その二
「あのさ、いつまでいる気?」
七月下旬からかれこれ一月以上居座っている元妻に、塚原はいい加減うんざりしていた。
「照が『うん』ってこくまでさ」
「まだ諦めてないのか?」
「当然しょ、誰の子だと思ってんだべ?」
彼女は医師としての大成を実現させるため、これまで家庭よりも仕事を優先してきた。実家は札幌にある総合病院で、道内有数の大病院である。その医師家系の長女として生まれ育った
ゆくゆくは四代目病院長を務める可能性のある彼女に周囲はある程度のワガママを許してきた。よって子を持つ母になっても自身のことが最優先で、親権所持をかさに照を連れての渡米を企んでいる。
「二人の子だろうが、照にだって意思はあるんだぞ」
「そったらこと分かってんべ、したってアメリカ行った方が照のためにもなるんだべ」
そうは言っているが、このほど名声を得るためにせっせと書いた論文が専門機関に認められたのをきっかけに、再度照と暮らしたいがために渡米の説得をひと月続けている状態だ。
「移植手術のことか、本人はそれを望んでるのか?」
「今は手術を怖がってるべ。けどさ、日本だと大人になるまで待たなきゃなんないしさ、ドナーも多くないしたから手遅れになる可能性もあんべ」
医療に関しては本職であるなつみの方が事情に精通しているが、この一年息子と共に暮らしている塚原から見た限り照は移植手術を望んでいない。
『ぼくはこのからだで生きていくんだべ』
照自身持病のある体に不満を漏らしたことはほとんど無い。走るだけでも発作を起こしたり食事や行動にも制限が伴うが、本人は毎日を楽しく生きていて札幌にいた頃よりも元気になっている。
「先生から聞いてるだろ? この調子でいけば移植しなくても大丈夫だって」
「そったらことこいたってさ、何かあって後悔するような選択はしたくないべ。照はまだ子供だからさ、母としてちゃんと“正しい”ことへと導いてやんないと」
彼女の言う“正しい”に塚原はもやもやしたものを感じた。
「親が“正しい”と判断しても、照にとってそうじゃない場合だってあるだろうが」
「そったら悠長なことこいてるほど人生は長くね。何事も即断即決が一番だべ」
「そのためなら本人の気持ちは無視か」
この展開で何度喧嘩になったか分からない。二人はこの時も元夫婦喧嘩のゴングを鳴らし、互いの主張をぶつけ合ってしまう。
「照のためを思ってこっちだって一生懸命考えてんだべ!」
「ならPC画面じゃなくて息子の顔ちゃんと見ろ!」
二人は結婚していた頃からこんな言い争いを繰り返し、互いに疲弊しきった末離婚に至っていた。現在は実家が裕福ななつみが親権を持っており、法の場に持ち込まれると塚原の方が圧倒的不利である。
幼い頃から両親の喧嘩を何度も見てきた照は、自身の病気に責任を感じていた。自分が元気になれば両親が仲良くなるかもしれないと、大人でも吐き出すような苦い薬も頑張って飲み、常に良い子でいようと素行にも気を配っていた。
それに疲れてくると家出をしてしまうことが過去に何度かあったのだが、病弱のためさほど遠くへ行くことができず近所の公園で一人遊びをするのが関の山であった。それでも照にとっては不仲の両親を見るのは辛く、自身の病気が元凶になっていることが心苦しかった。
決して両親の離婚を望んでいたわけではないが、夫婦喧嘩を見なくて済むようになった今の方が健康状態は格段に良くなっていた。塚原は無理なく緩やかな回復を望み、なつみは早いうちに移植手術で健康体にすることを望んでいた。
方向性は違えど息子を思いやる親の願いは変わらない。それだけに双方とも互いに譲らず自身の主張をぶつけ合い、かえって理解し合えていないのが今の二人の関係性と言えた。
こんな状態の生活が一カ月以上続いている塚原は家に帰るのが億劫になっていた。それに呼応するかのように照の状態も下降気味で、これ以上悪化すると検査入院もあり得るとかねてよりなつみが用立てていた専属医にお灸を据えられた。
そのお陰で塚原自身支障無く刑事という仕事を続けていられるのだが、もうじき小学校に上がる息子のため、土日祝日に休みの取りやすい部署への異動も考え始めていた。
そんな未来設計が頭をかすめた矢先、留守を守るのが元妻一人の状態の日に照がこの街に来て初めて家出を敢行する。引き続き塚原宅に居座っているなつみは相変わらず論文の製作に勤しみ、息子から完全に気が逸れていた。家を出た照は行き慣れている近所の公園に向かい、体調が良くないので空いているベンチに座って時間を潰している。
「こんにちは」
そこに見たことの無い老人男性がコーヒーの香りをまとって照に声を掛けてきた。
「こんにちは」
「おっちゃんカナマリって言うねん、隣ええかな?」
「はい、どうぞ。ぼく粟田照っていいます」
「照君っていうんか、今一人なんか?」
カナマリと名乗った男性に向け、照は正直に頷いた。
「家帰りたないんか?」
「うん、ママがいるしたから」
「お母ちゃん嫌いなんかい?」
その問いかけには首を横に振る。
「したらなして?」
照は隣に座っているカナマリを見上げた。
「ママはぼくよりもパソコンのほうがすきなんだべ」
「お仕事しとるんちがうんか?」
「そうなんだけどさ、ママはパパとぼくのことよりもオシゴトをユウセンすんだべ。さいきんロンブンっていうんがほめられたってさ、ぼくにアメリカ行こうってこいてる」
「そうなんか、照君はどないしたいん?」
「行きたくない」
照はきっぱりとそう答えた。
「したらそう言うたらええんやで」
「そうこいても『ワガママぬかすんでね』って言いかえされるんだべ、ぼくのよわってるシンゾウをイショクしたいんだってさ。今のぼくのシンゾウね、ペースメーカーってキカイでいごかさってるんだけどさ、ケンコウだった人のシンゾウととりかえて今よりもゲンキにならさろうってさ」
「そういう事情なんか」
カナマリは照の小さな頭にぽんと優しく手を置いた。
「ぼくは今のシンゾウのままでいいんだべ、センセイは『前よりも良くならさってる』ってくっちゃってたさ。走ったりはできないしたってさ、そったらフベンに思ってないべ」
「現状を受け入れとるんやな」
「ゲンジョウ?」
「ん。照君は今の体に不満は持ってないんやろ?」
「うん。たまにフジユウだと思わさるけどささ、フマンじゃないべよ。ぼくはカミサマがくれたこん体で生きていくんだべ、したからヨソのだれかのシンゾウなんかいらないのさ」
照は自身の体のことをきちんと受け入れていた。たとえ長生きができなくとも、それが見えない運命であるということを。それを感じ取ったカナマリは、頭に乗せていた手を肩に回した。
「パパとおんなじニオイがすっペ」
子供の素直な言葉にカナマリは思わず吹き出してしまう。
「そうかい、パパジジ臭いんかい」
「いんや、『オクトゴーヌ』のコーヒーのニオイだべ」
「そっちかいな。パパもあっこのコーヒー好きなんか?」
「うん、パパのばあいはジュウギョウインさんとおはなしするんがすきなんだべ。パパはナイチん人したからさ」
「そうなんか、おっちゃんも内地出身やで」
「ウソこいちゃなんね、おっちゃんはドサンコだべ」
照の瞳はカナマリをまっすぐ捉えていた。しかし彼はいんやと子供の主張に首を横に振った。
「おっちゃん関西出身やねん。ただ昔仕事で北海道にはよう来てたんやで」
「そうかい、そういうことにしておくべ」
照は大人顔負けの表情でそう言った。
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