今年もアイツがやって来る その三
道立大学自転車部を迎え、二名の増員と『アウローラ』の従業員の全面協力のお陰で業務は滞りなく遂行されていく。一時期“奇行”の見られた川瀬も今はほぼ平常運転に戻っている。
そんな中、気になるのが杣木の食の細さであった。部員たちや顧問が食欲旺盛といった状況なのでそれが余計目立って見えた。しかし活動に支障を来してはいないようで、夜食はきれいに平らげているところを察する限り体調不良ではなさそうだ。
昨年も杣木に限らず部員たちが夜中に小腹が空いたと一階に降りてくることがあったので、この期間中は
「そう言えば
「ハイ」
根田は屈託のない笑顔を
「杣木監督は和食を好まれるのでしょうか?」
彼は後輩の質問にう〜んと唸る。
「今年は顕著に出てらっしゃいますよね。去年はそんなこと無かったんですが」
「そうなんですね。てっきり洋食が苦手なのかと勘繰ってしまいました」
「でも和食の方がお好きなのかも知れませんよ、最後の朝食だけ切り替えてみるのも……」
と宿泊客の現状を気に掛けていると、今やすっかり住民化している里見が厨房を覗きに来た。
「おばんです」
その声に根田の表情はほころび、嬉しそうにラベンダーティーを作り始めた。先程の会話を取ってみても、最後の一食を和食に切り替える案は堀江にも伝えた方がいいのでは? そう考えていると事務所からテレフォンコールが聞こえてきた。悌は事務所へ移動して受話器を取ると堀江からの内線電話であった。
「はい」
『吾か。さっき智君から連絡があって、奥さん体調崩されたんやって』
「えっ?」
団体客を抱えている現状で遊撃手を欠くのは痛い……悌は真っ先にそう思った。
『夜間病院に連れて行くとか言うてたから、それ次第では何日か勤務できひんかも知れん。明日は取り敢えずアウトで……杣木さんどないしよう?』
オーナーの口から杣木の名が出たので、ここぞとばかり頭にあることを話してみることにした。
「オーナー、最終日の朝食を和食に替えませんか? 夕食と朝食の箸が進んでらっしゃらないのが気になりまして」
『俺今朝のこと考えとってん。ただそれについては……ちょっとそっち行くわ』
一旦そこで通話が切れると、ものの五分ほどで堀江が『離れ』から移動してきた。二人はフロントを根田に任せて事務所に入り、事務所で杣木のことについて話し合う。
「あ〜、智さん以外誰も起こせへんのか」
「せやねん、あとご実家のお母様くらいらしいわ。さすがにこんなことで札幌からお呼び立てするんもなぁ」
「明日はチェックアウトとちがうし放っとってええんちゃう? そのうち起きるやろ」
「まぁこっちは構へんけど、合宿で来てはるのに監督ずっと寝てますってのは部員さんが困るやんか」
「“下手な鉄砲”やないけど俺らも加勢するわ。それであかんかったら智さん呼ぼう」
「まぁそれしか無いなぁ」
翌朝の目覚ましについては大した代案も浮かばず、結局最終的に小野坂にすがるという形に収まった。
「最終日の朝食なんやけど、智君からも話は出てるんや。昔は和食か洋食か選べるシステム取っとったみたいで、“ヅケカツ定食”いうんがあったんやって。杣木さんそれが好物で、この後の入荷でマグロ仕入れてるんや」
「“ヅケカツ”? ヅケをフライにでもするんか?」
「うん、それにご飯と味噌汁と漬物をセットにした定食メニューって言うてたわ。最終日は義君カフェに専念してもらうんに朝のシフト外してるやろ、レシピ残ってないから今回はお前の味でええわ」
「分かった、やれるだけのことはやるわ」
堀江は悌に小野坂から聞いた“ヅケカツ定食”の情報を伝えた。
小野坂不在のまま朝を迎え、堀江、川瀬、義藤と『アウローラ』からは嶺山、日高が朝食に備えて支度を始めていた。朝日が昇りきった午前六時、この日も【チューリップ】ルームから目覚ましのアラーム音が聞こえてきた。
昨日上手くいかなかったこともあり、堀江は若干重い気持ちを抱えながらも中華鍋とおたまを手に二階へと上がった。この日久々の出勤となる日高が不思議そうに堀江の背中を見送る。
「堀江さん、鍋なんか持たらさって何なさるんだべ?」
「あぁ、こないだ言うた“アレ”や。おたまで鍋ぶっ叩かんと起きひんのや」
「結構な騒音にならさるんでないかい? クレームとか大丈夫なんですかい?」
「今んとこ聞かんなぁ、昔は夏の風物詩扱いやったってお客様が仰ってたわ。箱館で杣木光弘いうたら結構な有名人やし、お前も出身この辺やろ?」
「わちはお隣の北都市出身だべ。杣木光弘んことは存じ上げてるしたって寝起きんことまでは……」
日高はそう言って天井を見上げていた。
「今日こそはいけますよ!」
「頑張ってくださいオーナーさん!」
道立大学自転車部員の声援に後押しされ、弱りかけていた気を引き締め直した堀江は鍋を構える。
「杣木さーん! 朝ですよー!」
頼むから起きてくれと願いながら鍋底をおたまで叩く。杣木はビクンと体を震わせてもそもそと動き始めた。
「監督っ! 起きてくださいっ!」
「朝練八時からですよねっ?」
「こんまま寝ささってたら朝まんままくらえなくなるべっ!」
部員たちは杣木のベッドに駆け寄って一生件名声を掛けている。それに応えてかどうかは不明だが、彼はゆっくりと体を起こしてん〜と声を漏らした。
「監督っ! 目ぇ開けてくださいっ!」
「オーナーさんっ! トドメお願いしますっ!」
堀江は一縷の望みをかけて再度鍋を叩く。杣木の体はゆらゆらと揺れ、結果虚しくバタンと倒れてすぅすぅと寝息を立て始めた。
「「「「「なしてぇ!」」」」」
その場にいた全員が杣木の寝起きの悪さに愕然とした。
前日の真夜中に妻が体調不良を訴え、夜間診療のある城郭病院へ連れて行った小野坂は夜が明けても病院に留まっていた。検査の結果夢子は現在妊娠していることが分かり、切迫流産を起こしかけて入院が必要になったからだ。
『喫煙は止めさせてください、胎児に悪影響を及ぼしかねませんので』
彼女が減煙に努めていたのは分かっていただけに、これまできつく咎めたりはしてこなかった。小野坂自身も年末頃までは喫煙者側であり、禁煙の辛さはそれなりに理解していたからだ。
しかし妊娠したとなると話は変わってくる。腹の中にいる我が子は母親の生活態度次第で成長に影響を及ぼし、これ以上ニコチンを始めとした有害成分を胎児に入れないよう親の責任で防がなければならない。
さてどう説得するか……そんなことを思いながら時計に視線をやると午前六時を過ぎていた。寝起き最悪の宿泊客を無事起床させられたのかも気になるが、今のところケータイには何の動きも無い。
移住のストレスのあったのかも……小野坂は眠っている夢子を思いやってそっと手を握る。彼女の手は相変わらず冷たく、ほんのりとタバコの匂いが染み着いていた。
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