前触れ その三
箱館の街に流れ着いて五年の時が過ぎ、家族のいない僕にとって初めてできた本当の“居場所”。そこには気の合う同僚、いつでも笑い合える仲間たち。そして女神のように美しいあの方がいる生活は正に最高の場所だった。
それなのにほんの少しの出来事でそれに亀裂が入り、ひび割れて完璧だったものが少しずつ形が崩れていく。そこから更に隙間ができて、ヘドロのようなどろどろしたものがどんどんこの場を穢していく。
何が起こっているんだろう? ただ悪い予感がする……そんなことを考えていると、遠くから耳障りな笑い声が聞こえてきた。それが段々と近くなると、目障りですばしっこい若い男の姿もはっきりと映された。
五月蝿いっ! そう叫んでもその声は消えてくれない。あぁ胸糞悪いっ! あっちへ行けよ!
『どないしたん義君?』
仁君、君には分からないの? その声の禍々しさが。そうか、前科のせいで汚いものと同調しちゃうのかな?
『何が五月蝿いんですか?』
悌、感性は君が一番似てると思ってたんだけど……お坊ちゃまには本質を見抜く力が欠けてるの?
『多分お前がぎゃあぎゃあ言ってるからだろ』
あぁ智君は気付いてくれた。君時々粗雑なところあるけど、本来は真面目で素直だからね。でももう三十なんだからそろそろ落ち着こうよ。
『え〜っ、ここの仲間に入れて嬉し〜♪ って喜んじゃダメなのぉ?』
は? 今何て言ったの? 『採用した』? この子を?
『喜んでくれるんえぇけど本番はこれからやで』
だったら採用するなよ、こんな子すぐ辞めるのに。
『分かってるよ仁っち〜』
『その口の聞き方何とかなんねぇのかよ?』
そうだよ、いくらここの人が優しいからってそんなの世間は認めてくれないよ。つけ上がるのも大概にしなよね。
『口の聞き方程度で人の価値って決まるんですかぁ?』
そうやって古き良き嗜みを敬遠して棄てていくから、この国の若者は挨拶一つまともにできないじゃない。若い感性が善で古い感性が悪ってそんな単純なものじゃないんだよ。ああいう子は『オクトゴーヌ』の未来を潰しかねない、それでもいいの? 僕たちの“居場所”が無くなるってことを意味してるんだよ? それがどうして分からないの?
『なぁにほんずけねぇことぬかしてんだべ』
礼君、君には色々助けてもらってるよ。けどこれは『オクトゴーヌ』の問題なんだ、黙っててくれない?
『あのさぁ、だったらウチの従業員こき使うのいい加減やめてくれよ。あんたの上司が策講じて自力で何とかしようって努力は認めてやらないのかよ?』
野上、君の本音はそうでもそれは大悟さんが決めてることでしょ? 大した腕前でもないくせに右腕気取りでウザいんだよね。
『正直どんぐりの背比べ程度でしょ? あなたには全く負ける気がしないです』
君仁君のコネで入ってきただけのチンピラでしょ? ここでは新人のくせに随分と大きな口叩くよね?
『嫉妬してんのかい義君? 互いに切磋琢磨し合おういう気は無いんかい?』
『しゃあないべ信、腕前は吾の方が全然上したからさ』
『礼さんは気持ちと口が直結しすぎだべ』
礼君、信君、僕があのチンピラに負けてるとでも言いたいの? 僕がどれだけ辛酸舐めさせられてここまで頑張ってきたか……。
『したからアンタは一流になれないんだべ』
旦子さん、あなたは僕の何を見てきたというのですか? 就く所就く所でさんざん嫌がらせを受けてきて、そんな中でも歯を食いしばって耐えて我慢して料理の技を盗み習得してきたんだ。
『アンタに人材は任せらんね、端から周りを敵視してるしたからさ』
大悟さん、あなたは確かに料理に関しては師匠です、でも正しく評価できる洞察力は備わっていらっしゃらないみたいですね。僕は色んな人に揉まれて人の腹の中の汚さを知ってるんだ、『オクトゴーヌ』を守るために通報したっていうのに……。
『やっぱりせやったんや、通報なんておかしい思うてたんよ』
ユキちゃん、不審者を見かけたら警察に通報するって当たり前のことでしょ?
『面接希望者は不審者言わへん。岡山から二回も渡ってきたあいつの本気度評価したってもええんちゃうんか?』
甘いんだよ忠さん、口だけ達者な振り込め詐欺の売り子みたいなものじゃないあんな子。実際育ち悪そうだし。
『会社ってのはさ、時々換気してやんなきゃ腐っていくんだよ』
『『オクトゴーヌ』の子は皆大人しいしたからさ、一人くらいあんな子がいた方が良いべ』
外野は何とでも言える、責任が無いからね。僕たちが一年掛けて一生懸命守ってきた大切な場所なんだよ。僕たちは更に五十年の重い歴史を背負っているんだよ、それを乱入者みたいに現れた二人のせいで引っ掻き回されるなんてゴメンなんだよ!
『よく分かるわそのお気持ち、私はいつだって貴方の味方よ』
あぁ、真の理解者は貴女だけだ、僕の思いを分かってくれる。
『貴方の尊い思いはいつか必ず報われるわ、私が側にいてあげる』
貴女こそが僕の女神! もう僕には貴女しかいない! それなのに……。
『何かいくないべ』
『きっも』
えっ? 正君と……まどかちゃん? 君四ヶ月ほど前に死んでるよね? ってか神聖なるこの思いにケチ付けられる謂れは無いんだけど。
『やると思ってたんだよね、やっぱあばずれじゃんこの女』
君随分と失礼なこと言うよね、彼女のような美しい女性があばずれな訳無いじゃない。そんな考えしか持てない君の方がよっぽど醜いよ、品性の欠片も無いじゃない。
『したら義、アンタの言う品性って何だべ?』
衛さん? どうしてここに?
『まぁそったらことはどうでもええ、気が乱れてる時はまくろうて寝るんがええ』
衛さんはナポリタンを僕の前に差し出してきた。そう言えば仁君たちと違ってあの味を知らないんだ。機会はいくらでもあったはずなのに、どうして食べたことが無いんだろう?
僕は衛さんお手製のナポリタンを口に入れる。あれ? 味がしない……それは口の中で砂のようにぱらぱらになってじゃりじゃりとした感触に変わる。
何これ? 気持ち悪くてそれを吐き出したんだけど、口から出たものはナポリタンのままだった。どうして? 口の中ではじゃりじゃりしてたのに、僕ただの失礼な人じゃない。
『それがアンタの言う品性ってやつかい?』
『俺より長う出入りしとってそれが分からんなんて……』
仁君は失望したとでも言いたそうな視線を向けてくる。
『俺は仁の舵取りが間違ってるとは思ってないよ』
君本当の意味では僕を理解してくれてなかったみたいだね。
『役割分担ができればここにとっては良いことだと思いますよ』
あんな二人じゃなければね、お坊ちゃまは気楽なもんだよ。
『したから一流にはなれないんだべ』
『おっちゃんコナの方が好きやねん』
どうしてこの人まで出てくるの? もういい加減にしてほしいよ。頭がフワフワしてきてこれ以上何も考えたくない……そう思った瞬間皆の視線が冷ややかなものになった。
『したっけな義君、今ならまだ間に合うけどさ』
まずは旦子さんが意味深な言葉を残して消えていく。
『さよなら義さん』
続けて悌がいなくなる。
『じゃあな義』
『ここでお別れやな』
その後智君と仁君は二人一緒に背を向けた。
『儂は『したっけ』こきたくないべ。けどさ、未来を変えさるんはアンタにしか出来らさらんべ』
衛さんはすうっと体を浮かせて飛んでいった。
『したっけ兄ちゃん。このままやと居場所無くなんで』
最後に残ったあの人は僕に向けてにやっと笑ってきた。その次の瞬間に僕の周りは真っ暗になり、人も景色も何もかも見えない暗黒の世界に変わり果てた。どこなの? 誰かいないの? 必死に声を上げているはずなのに僕の声はどこにも届かない。
「……か、……れか」
川瀬は自身の寝言で目を覚ました。
体が重い……おかしな夢に浮かされて目を覚まし、大遅刻を認識しながらもベッドから起き上がれずにいた。その間一度黒電話が鳴っていたが結局スルーしてしまっている。
空はもう白から青に変わっている時間であろうか、閉め切ったカーテンから漏れる日差しは確実の昼を思わせる強さであった。とにかく支度だけでもとようやくベッドから出ると、テーブルの上にあるケータイがガタガタと震えている。
「はい」
『義君、調子悪いん?』
「えっ? いえ大丈夫です……」
堀江は怒るどころは体調の心配をしていた。あれはあくまで夢の話か、と妙な安心感を覚えながら手の甲で冷や汗を拭う。
『今日はゆっくり休み、疲れが溜まってるんちゃう?』
「今から出ます、朝食が……」
『今日は臨時で吾にやらせた、まぁ何とかなったわ』
オーナーの言葉に川瀬の思考が止まる。
『今日は休んで明日に備えて、お大事にな』
堀江はそう言って通話を切る。次の刹那川瀬の心の中に大きな喪失感が涌き上がってきた。
【このままやと居場所無くなんで】
夢の中で言われた声が耳の中でこだまする。急激な焦りを覚えた彼は、枕元に置いていた着替えを持って急ぎ足で部屋を出た。
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