前触れ その一

 昼休憩を終えて再びペンションに戻った根田は、オーダーされた料理の盛り付けをしている小野坂を手伝いながら興奮気味に話し掛けた。

「休憩時間に三階見てきてください。めちゃくちゃキレイになってますよ」

「あぁ、取り敢えずこっち頼む」

「ハイ」

 根田は後輩の薄い反応を特に気にするでもなく、盛り付けを終えた料理をマグネットの色と照合しながら顧客の元へと運んでいく。この時間になると、『アウローラ』の調理スタッフ二人も最終焼き上げの時刻に合わせて生地作りを始めていた。

「川瀬さん、こんところ賄いまくらいませんね」

「最近『DAIGO』に行っとるらしいぞ。夜スタッフの人が言うてたわ」

 取引先への搬入はほぼ嶺山が行っており、今は『DAIGO』もその一つとなっている。日高が成長して、一人でも業務をこなせるようになっているので安心して留守を預けられている。

「慣れた味が恋しくなってるんだべか?」

「そうちゃうか」

 その後は黙々と作業を進めていく二人であったが、嶺山は夜スタッフから少々気になる話を耳にしていた。社内恋愛法度の『DAIGO』内で川瀬と夢子が折を見て密談しているらしく、二人の仲を勘繰るスタッフが出てきていると言っていた。

 俺からは言わん方がええやろなぁ……彼はそう判断して会話を広げなかったのだが、現状小野坂は通常運転なのでまぁ大丈夫やろとこの日最後の大仕事に意識を集中させた。


「まぁ、そうなの?」

 この日も川瀬は夢子とランチを済ませ、仕事上がりの彼女を自宅まで送っているところだ。同僚の妻の身の安全をというのがもちろん最大の理由であるが、『オクトゴーヌ』内部の変化に付いていけていない彼にとっては心の拠り所となりつつあった。

「うん。それで今試験として三階の二部屋を空けてるんだ」

「そう、一気にお二人も面接だなんて随分と慌ただしくなさるのね」

「増員自体は構わないんだ。ただ徐々にしてほしいというか……」

「そうよね。そのお気持ちよく分かるわ」

 夢子は川瀬を思いやる言葉を口にする。彼にとっては自身の気持ちを理解してくれている存在が何よりも心地良く、お陰でどうにか自我を保てていた。

「ごめんねこんな話しちゃって」

「謝ることなんて無いわ。私で良ければいつだって聞くから」

 同僚の妻は川瀬を見上げて魅惑的な笑顔を見せた。


 時を同じくして、仕事で観光客の送迎を終えた角松は職場へ戻るため駅方向に車を走らせていた。今日はこれで上がりだと娘木の葉の顔を思い浮かべていると、道路脇の歩道で楽しげにじゃれ合う見覚えのある男女を追い越した。

「んっ?」

 少し先の信号が赤に変わったので、速度を落として停車させてからサイドミラーでその二人を確認する。そこにいたのは『オクトゴーヌ』の従業員である川瀬と、先日同じく『オクトゴーヌ』の従業員である小野坂と結婚したばかりの夢子であった。

 まるでカップルのように仲睦まじくしている二人を見た角松は、何とも言えぬモヤモヤした気持ちになる。今は他界している妻まどか以外の女性に興味の無い彼の脳裏に浮かんだ言葉は『気持ち悪い』であった。

「智さん、こんこと知ってるんだべか?」

 客を乗せていないのをいいことに、車内で独り言を呟きながらミラーに映る二人の様子を窺う。仲が良いだけであればともかくとして、まるで密会とも思わせる雰囲気に嫌悪感しか沸き上がってこなかった。

「何かいくないべ」

 そうは言っても外野席にいる自身にはどうすることもできず、ましてこのことを小野坂に伝えるのは下衆な行為のようにも感じられた。そんなことを考えている間に信号は青に変わり、わずかに残る嫌な気持ちを抱えたまま車を発車させた。


 採用試験を終えた義藤を明るいうちに帰らせると、夕食ラッシュ後に上がりとなっている小野坂が帰宅前『離れ』に立ち寄った。

「悌がえらく興奮してたからさ、三階の様子見に来たんだ」

「うん、見たって。あれだけできたら戦力になる思うねん」

 堀江は小野坂を連れて三階に上がる。階段も廊下もピカピカに磨かれており、空室にした二部屋の掃除も見事なものであった。

「凄ぇな。これ何時間でやったんだ?」

「休憩挟んで五時間くらい……三時前には終わらせおったわ」

 正直に言えばここまでの出来を見せつけられるとは思っていなかった小野坂は、中に入って部屋の隅々まで入念にチェックを入れる。

「俺どころか礼以上だな」

「智君はラクになる思うで、最近悌君も慣れて戦力になってきてるし。ただ義君との相性が……」

「そこだけなんだよ、あの言葉遣いどうにかしねぇとな」

 小野坂は最大のネックであるあの口の聞き方に早くも頭を悩ませている。

「仕事の時だけ丁寧語使わせよ」

「そうだな、仕事離れてる時は目瞑るよ」

「そうは言うけど、智君自身はあんま気にしてないやろ?」

「えっ?」

 堀江は小野坂の気持ちを見透かすような口振りで言った。

「衛さんの日記帳に書いてあったで、当時の智君『勤務態度は真面目だが口が悪い』って。気に入らん言うよりも若い頃を見てる気分になるんちゃうの?」

「……」

「せやったら智君の経験を義藤君に伝えたったらええんちゃうかな? あの子かなり頭ええみたいやから」

「尚更やりづれぇ……」

 小野坂はそれで全てを察した。

「オーナー、契約書持ってきました」

 今はまだペンションの客人であるカケハシが『離れ』三階まで上がってきた。

「ありがとう、明日からこの部屋使うか? 八畳間やから狭いかも知れんけど、光熱費割り算分だけで家賃はかからんで」

「ホンマですかっ! めっちゃ助かりますっ」

「せやったら明日チェックアウトの後荷物……ってほとんど無いな」

 数日前はチンピラ姿であった彼は、バッグの一つも持ち合わせないお気楽ぶりであったことを思い出す。ほんの数日の出来事であったにも関わらず、一気に時間が過ぎたような目まぐるしさであった。

「はい、兵庫に置きっぱにしてるんを入れることになります。勝原社長には『引越し先決まったら連絡寄越せ』言われてますんで」

「分かった、日程決まった教えて。状況次第ではシフト組み替えなあかんから」

「分かりました」

 悌は新たに使うことになる部屋の中を見る。小野坂は『離れ』を出て帰路に着いた。

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