奇跡 その四
「「……」」
フロア全域に響いていた看護師の声はあっという間に無機質な壁に吸い込まれ、再び周囲はしんと静まり返る。冷たく光った空間に取り残された根田と治部は、いつ届くか分からない次なる情報を待つよりほか無かった。
「別の言い訳にすればよかった」
「根田君?」
予定を断る口実に里見を利用してしまったことを後悔していた。このままお別れしたくない……根田はぴちっと閉ざされている手術室の奥をじっと見つめ、生と死を彷徨っている里見の生還を祈り続ける。
根田は出産予定日直前、瀕死状態に陥ったことがあった。当然彼自身の記憶には留まっていないが、間もなく出産を迎える段階で心肺停止状態になったと聞いている。すぐさま帝王切開で取り出して治療が施され、ほぼ二十四時間後息を吹き返した。
心肺蘇生も巧を奏さず諦めの境地だったところで突然脈が戻り心臓が動き出した。両親は勿論のこと治療に携わった医師たちをも驚かせる事態となったのだが、心肺停止状態になった原因は未だ分かっていない。ただ里見の子素直の命日と根田の誕生日が偶然にも同じ日で、二人は密かに確証の無い縁を感じていた。
里見に子が授かったのは二十四歳の時で、ピアニストとしてはまだ駆け出しだった。妻は雑誌モデルとしてそれなりに活躍しており、家族公認の交際ではあったがまだ籍を入れていなかった。それを機に彼女は仕事を辞めて出産に備え、里見は家族を養うため一家の主として遮二無二になって働いた。
当時はソングライターとして徐々に知名度を上げ始め、母子ともに健康状態も順調であった。思い返せば家族と向き合えていなかったと感じるも、まだ若く自由業のため経済事情を考えるとやむを得ない状況とも言えた。
臨月を迎えた途端彼女の体調が急激に悪化した。それに合わせるかのように胎児の体も弱り始め、先に帝王切開で子供を取り出すことになった。双方の家族とも話し合った結果里見は妻を優先しようと医師にそれを伝えたが、彼女が首を縦に振らず子供を救ってくれと懇願した。
二十五年前の六月十二日、生まれた子供には妻が考えていた
どれくらい眠ったか分からないが、山麓のカフェにいたはずの里見の視界にはわずかに白く霞んだ青一色の景色だった。周囲を確認しようと顔を動かすと、見たことの無いパステルカラーの花が至近距離に存在している。しかし感触も香りも無く、美しくはあったが味気の無いものであった。
その中で寝そべっていた里見は体を起こし、何となく人の姿を探す。ここは何処なのか? 夢の世界なのか? それとも冥土なのか? いるかどうかも分からない誰かを探すために立ち上がると、細身の女性のシルエットが浮かび上がり徒歩とは思えぬ速さで近付いてきた。
「
彼の前に現れたシルエットは二十年以上前に死別した妻であった。彼女はモデルとして活躍していた頃の姿で、真っ白なワンピースがよく似合っている。
『こうして顔を合わせるのは久し振りね』
「えっ?」
『でもいつもあなたを見ていたわ、
三夏が左腕を少し浮かせると、見たことの無い長身の青年が何の脈略も無く浮き出てきた。しかし里見は彼の姿に懐かしさを感じ、思い付く名前を口に出していた。
「素直?」
青年は里見の声に笑顔を浮かべ、傍らにいる妻は満足げな表情を見せている。我が子は生後五日で世を去っているのに……その疑問に答えるように口を開いた。
『肉体が無くても魂は育つのよ。この世では叶えられなかった“育児”がここでできたから、いずれ来るあなたにこの子の成長を見せたかったの』
里見は成長した息子の魂を感慨深く見つめていた。素直は母の隣で口を動かしているのだが、何を言っているのか全く聞こえない。
『でも少し早かったみたい』
「えっ?」
『あなたにはまだこの世に思い残しているものがあるのね』
「いや、できることはやった。片付けはペンションの人に任せなきゃだけど遺書は用意してある」
『そういうことじゃないわ、心の声を無視しないで』
妻に諭された里見の脳裏に根田の笑顔が浮かぶ。別れも告げずこの世を去るのは心残りだが、寿命であれば仕方が無いと諦める気持ちもあった。彼にために作った曲は友人に預けてある、欲を言えばあと一日二日寿命を延ばしてきちんを別れを……それ以上の未練は残していない心づもりでいた。
『里見さんっ!』
背後から聞き慣れた声に反応して振り返ると一瞬にして景色が暗転する。
「悌っ?」
声の主の名を声に出した途端足場が失われた。景色の無い真っ暗闇の中、里見の体は終わり無く落下していく。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます