怪我 その三
朝から快晴のこの日、『離れ』の黒電話がけたたましく鳴る。川瀬と根田はペンションの勤務に入り、小野坂はペンション側の雪かきに勤しんでいる。手の怪我が癒えてきた嶺山が厨房で朝食を作っており、『離れ』側の雪かきを切り上げて中に入った堀江が電話を取る。
「はい、堀江です」
『相原です、ちょべっといいかい?』
そう言う大吾に堀江ははいと応える。
『実は最近オーブンを買い替えたんだけどさ、まだ使えるしたから要らねえかなと思ってさ』
ペンションの厨房で賄いを作ることが多いので『離れ』には電子レンジが無い。無くても困らまいものの、十分使えるものであれば棄ててしまうのも忍びない。
「遠慮なく頂きます」
『そうかい、助かんべ。したらランチ営業が終わったら持って行くべさ』
通話はそれで切れたのでそっと受話器を置く。
「電話、誰からやったん?」
台所に立っている嶺山が通話の内容に興味を示す。
「大悟さんから。オーブン買い替えたから使う? って」
「へぇ、ここレンジ無いから丁度ええんちゃう?」
うん。堀江は頷いてダイニングに入る。
「美味しそうですね」
ダイニングテーブルに並べられている料理が視覚から空腹を誘う。
「住まわせてもろといて何もしてへんからな、手も治ってったし家事くらいさして」
「助かります、傷が疼く時は無理せんとってくださいね」
「おぅ」
嶺山は笑顔を見せているが表情は暗い。それが気になって無理はさせたくないと考えているが、当の本人は動かないと落ち着かない様子なので無理はしてほしくないが引き留めることもできずにいた。
「智君呼んできましょか?」
「ん、頼むわ」
堀江は隣接するペンションの雪かきをしていた小野坂を朝食に誘った。
朝食を終えて程なく嶺山は雪路のリハビリに付き合うと出掛けていった。このところ夜勤中心になっている小野坂も睡眠を取るとさっさと帰宅する。一人『離れ』の掃除をしていた堀江にある考えが閃いた。彼は自身の閃きに我ながら妙案だと一人ほくそ笑み、気分良く掃除のペースを上げた。
雪路のリハビリに付き添った嶺山は、寄り道がてら花、線香、ロウソク、ライターを購入して祖父母が眠る墓地に向かう。これまでも立ち寄っていたが、手の自由が効かなかったので手を合わせるのみに留まっていたので久し振りに花でも供えるつもりだ。墓地に到着した嶺山は、墓石に積もっている雪を払って古くなった花を買ったばかりのものと差し替えた。ロウソクと線香も立ててから手を合わせ、自身も雪路も怪我は順調に治っていると報告した。
それでも気持ちの方がなかなか軌道に乗らなかった。大学在学中に立ち寄ったパン屋でパン作りに魅了され、以来パン職人になるべく日夜努力を続けてきた。大学を中退して調理師専門学校に入り直し、資格を取得して五年間厳しい修業生活も乗り切りようやく自身の店を持てるまでになった。それが一瞬の火災で全てが火の粉となってしまい、これまでの頑張りをフイにされた虚脱感に支配されている今は何もする気が起こらない。『離れ』の家事を手伝い始めたのもただで居候させてもらっていることへの対価という思いもある。
一体何があかんかったんや? 考えても出てこない“落ち度”を探す負のループにはまっている現状に希望の光は見えてこない。仕方のないことではあるが、再開を待たず転職を決断した森の抜けた穴がモチベーションを更に下げる。今でこそ再開次第戻ると表明している日高も、状況次第でどうなるか分からない。再開の目処すら立っていない以上求人すら出せず、再開できても経営を軌道に乗せないと給料も支払えない。
いっそどっかで雇うてもらおか……そんなことを考えながら墓前で佇んでいた彼の背中に男性の声が降り掛かる。馴染みのあった訳ではなかったが、知らない声でもなかったので振り返ると見覚えのある男性が立っていた。
「おぅ、楽器屋の……」
「どうもです。少しお時間宜しいでしょうか?」
「構へんで、どっか店でも入るか?」
「そこでも良いですか?」
男性はローカルながらも知名度の高いファーストフード店を指差した。
「おぅ、俺入ったこと無いねん」
嶺山はしばらく振りにワクワクした感情を覚え、男性に付いてその店に入った。
「「「いらっしゃいませぇ!」」」
店内は活気に溢れ、従業員の中には男性に親しく話し掛ける者もいる。
「最近来ねえから寂しかったべ」
「済まねえ、ちょべっとバタバタしささってさ」
「そうかい、ポイントカード持ってきてるかい?」
男性はレジカウンターにいる従業員に二つ折りのカードを提示する。
「信原様、三十ポイント貯まっておりますのでフライドポテトを進呈致します」
「それとアイスコーヒーを……嶺山さんはコーヒー大丈夫ですかい?」
嶺山は信原の問いかけに頷いた。北海道は冬の間雪深くなるので暖房設備は本州とは比較にならないほど充実している。特に公共施設内は時として暑く感じることもあり、極寒のイメージがあるにも関わらずホットドリンクよりもソフトドリンクの方が売れ行きが良い。二人は空いている席に落ち着き、注文したコーヒーとポテトを待つ。
「知り合い多いな」
「はい、高校大学の七年間ここでめんとりしとったんです」
「そういうことか、そんだけ働いとったら正社員になろう思わんかったん?」
「思いました。わち音楽にそんなに詳しくないしたっけ、未だに今の仕事慣れねえです」
信原は俯き気味にため息を吐いた。嶺山は彼の働く姿を見たことが無いものの、時々『アウローラ』を訪れた際毎度のように沈んだ表情を見せている印象があった。むしろ商店街自治会の集まりにいる方が活き活きとしており、嶺山には二面性があるように映っていた。
「
「苦手ジャンルなんか? 跡継ぐいう事情でもしんどいなそれ」
「はい、正直……」
寂しさをにじませた笑みを浮かべる信原の前に、湯気がもうもうと立ったフライドポテトとアイスコーヒーが運ばれてきた。
「まぁた湿気た面してさ、取り敢えずけぇ」
親しくしている男性従業員に促された信原は早速フライドポテトを口に運ぶ。彼はアルバイト時代の先輩に当たるので特に親しくしており、あらかたの事情は知っている間柄だ。
「お客様もご一緒に、二人前揚げてますので」
「ほな遠慮無う頂きます」
嶺山も勧められるままフライドポテトを一つつまんで口に入れる。さすがはじゃがいもの産地と思わせる柔らかくも存在感のある歯ごたえで、味も濃く感じられた。
「やっぱり美味いな、産直なだけあって本州で食うたんとは全然ちゃう」
「そうなんですね、わち旅行以外で北海道出たことが無えんです」
「そうなんやな。ところで話あるんちゃうんか?」
「はい、つい脱線してしまいました」
信原は姿勢を正し、向かいにいる嶺山を真っ直ぐに見据えた。
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