決意 その一

 根田を『離れ』に走らせた川瀬がフロントに入ると、泣き腫らして立ち尽くしている調布の姿があった。

「調布さん、大丈夫ですか?」

 川瀬はフロントを出て調布の隣に立つ。

「大丈夫です。思ってること、全部言ってしまいました」

 彼女は弱々しく頷いて微かに笑みを浮かべた。

「そうですか……」

 川瀬はフロントに戻って隠し置いているティッシュの箱を差し出すと、ありがとうございますと礼を言ってから一枚抜き取って涙を拭う。

「振られてしまいました。予測は出来ていたはずなのに、いざ直面するとそれなりにショックなんですね」

 少し照れ臭そうに笑いつつも、本心を開放させたことでまた新たな涙を流している。川瀬はそんな彼女を無条件に抱き締めたくなったが、仕事中にそんなことをする訳にもいかず、温かい飲み物でもお作りしましょうか? と声を掛けた。

「夏は案外体が冷えるんですよ」

 その言葉に調布はクスッと笑ってしまい、ホットミルクを注文した。

「かしこまりました、カウンター席をご利用ください」

 川瀬の言葉に従った調布はカウンター席へ移動するのを見届けて、夜食の食器を片付けると厨房に向かうと私にも何か頂けませんか? と男性に声が掛かる。川瀬は足を止めて声のした客用階段に視線をやると、【シオン】ルームに長期滞在中の里見の姿があった。

「かしこまりました、ご希望はございますでしょうか?」

「そうですね、ハーブティーはありますか? 無ければ紅茶をお願いします」

 ハーブティーと言えば、先日ゼリーの試作で使用したラベンダーがまだ残っている。

「ラベンダーがございます、お好きでしょうか?」

「もちろん、道民ですから」

 里見は笑顔を見せてラベンダーティーを注文した。

「かしこまりました」

 川瀬は一礼してから厨房に入る。里見は川瀬と別れてカフェに入ると、まっすぐ前進して迷わず調布の隣に立つ。

「隣、宜しいでしょうか?」

 調布は突然有名人に声を掛けられて気持ちが少々浮足立つが、今の彼女はセレブリティな実業家夫人の顔も持っているので、どうにか冷静に振る舞いえぇと頷いてみせた。

「失礼します」

 里見はスマートな身のこなしで調布の隣の椅子に座ると、思いがけない言葉を口にした。

「申し訳ございません。先程のお話、全部聞こえてしまいました」

 えっ! 調布は気恥ずかしさで顔を真っ赤に染める。

「おっお騒がせして申し訳ございませんっ」

「こちらこそ、野暮なことをしてしまいました」

 頭を下げる調布に里見は笑いながら頭を掻いた。二人の間の空気が和やかになったところに川瀬が厨房から出てきて、調布の前にはホットミルク、里見の前にはラベンダーティーを置く。

「ご用向きがございましたらベルを鳴らしてください」

 川瀬はそう言い残してカフェから姿を消した。

「何だか気を遣わせてるみたいだね」

 里見はフロントの奥のドアを見つめながら言う。調布はそうですねと頷いて早速ホットミルクに口を付ける。

「でもここの従業員さんは皆お若いのに距離の取り方がちょうど良くて居心地が良いんですよ」

「えぇ、面倒臭い女の話にも付き合ってくださって……お蔭様で心の整理が付きました」

 調布は早速ホットミルクを口に付ける。

「それであの大告白、ですか?」

 里見はイタズラっぽく調布の顔を見る。

「お恥ずかしい限りです。そのせいで彼を困らせてしまいました。一度は別れておきながら、時を経て再燃させるなんて意味分かんない、って感じですよね」

 調布は恥ずかしそうに照れ笑いして自嘲するが、里見は彼女を馬鹿にする素振りなど一切見せずに優しく語り掛けた。

「そういう見方をなさる方も居るでしょうが、私はそれもアリだと思います。気持ちに嘘を吐いてまで足並みを揃える必要なんてありませんよ。それとこれは男の勘ですが、彼の方もあなたを思う気持ちは残っていると思いますよ」

 里見は程よく色の付いたラベンダーティーを温かいカップに注ぎ入れる。調布は彼の気遣いに再び涙目になり、ティッシュの箱を差し出される始末となる。それが気恥ずかしくてつい笑ってしまうと、女性は笑顔の方が良いですよと里見も笑顔を返した。

 

 こんなことになるなんて……小野坂は独り港近くの人工島に車を停めて海を眺めていた。勢いに任せて車を走らせたは良いが何処へ行こうか思い付かず、かつて何かある度に訪れては気持ちをリセットさせていたこの地に行き着いていた。日付も変わり、北海道の早い日の出に合わせて少しずつ白みがかってくる東の空をぼんやりと見つめている。

「だから会いたくなかったんだ……」

 小野坂は胸の中の気持ちを吐き出すかのように、まだ星の見える朝方の空に向かって呟いた。するとバイクのエンジン音が近付いてきてセンチメンタルな気持ちに邪魔が入る。

 ったくうっせぇなぁ……多少苛ついた気持ちをむき出しにしてバイクを睨み付けると、小野坂のいる車の隣に停車する。そのバイクの主はエンジンを切ってヘルメットを脱ぐと、出てきた顔は嶺山だった。

「よぉ腑抜け。所構わず黄昏まくって、挙げ句職務放棄か?」

 川瀬に気付かれ、嶺山にまでバレてしまって罰悪そうにする小野坂だが、それでも違いますと意地を張る。

「職場放棄は認めますけど」

「お前そっちは認めんのかい? 恋煩いを認めろや」

 嶺山はその言い草に笑ってしまう。それでもそんなんじゃありません! と頑ななまでに認めようとせず、それ以上その話題に触れてほしくなくて何故ここに来たのかを訊ねた。

「久し振りにコイツ走らそか思てな。今日明日臨時休業なんはええけど、日頃の生活習慣でこれ以上寝られんわ」

 嶺山はバイクにまたがったまま水平線を眺めている。

「ユキちゃん一人にしてて良いんですか?」

「アホ、むしろ『やかましい』言うて追い出したんアイツやぞ。兄貴の気持ちなんぞそっちのけや」

「こんな時間にうるさくしてる方が悪いんですよ」

 小野坂はバイト先の雇い主に向かって減らず口を叩く。

「黙れ腑抜け、八月になっても治ってなかったら承知せんぞ!」

「何をですか? 俺病気じゃありませんよ」

 どこまでも認めようとしないアルバイト店員の態度に嶺山は一つ大きなため息を吐いた。

「一つえぇこと教えたるわ。付き合うてて違和感を覚えるんなら離れること、別れても思いが残っとるんなら向き合うことや。気持ちの整理だけでも付けとかんと一生引きずることになるで。どっちかが死んでしもたらそれすらも叶わんくなる、その方が辛いぞ」

「……」

 小野坂は何やら考え事をしている様子だった。嶺山は急かさずじっと水平線を眺めていると、東の空が段々オレンジ掛かってきて星が姿を消していく。空の色は何色ものグラデーションを作り、普段お目にかかる事の無い幻想的な美しさを見せてくれている。

「ペンションに戻ります」

 小野坂は座っていた車のボンネットから飛び降りて口角を上げた。

「おぅ、俺もうちょいここにおるわ。恋煩い治してこい」

「だから違います! 同じこと言わせないでください!」

 小野坂は結局意地を張り通し、車に乗り込んで人工島から出て行った。嶺山は『オクトゴーヌ』の営業車を見送ってから今度は綺麗なグラデーションの空を見上げる。東はオレンジ、段々高くなると濃いピンクから紫に、南中方向は藍色、西方向はまだ夜空で明るい星はまだ見えている。

 彼はある人物を気に掛けていた。その人物とは神戸のパン屋で修行していた頃の後輩で、大阪の沖縄県出身者が集まる商店街の生まれだった。彼はパン職人として自立した際、祖父母が育った故郷の地に結婚したばかりの妻を連れて故郷に錦を飾った。

 ところが二年前、彼の妻が故郷大阪で開かれた同窓会会場のレストランで大火災が起こってしまい、七人が亡くなる大惨事となった。その中に彼女も含まれてしまい、以来魂が抜け落ちたかのようにパン作りを辞めている状態だ。

「そろそろ三回忌か……申し訳無いけど今回は行けそうにないわ」

 嶺山は友人であった彼女に謝意を呟き、東の空から姿を見せ始めた太陽に弔いの気持ちを預けた。

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