一方通行 その三

 翌日から鵜飼は普通に仕事をこなしており、見た目にはいつもと変わらず明るく振る舞っていた。しかし堀江の前ではそうもいかないようで、挨拶を交わす以外はお互いに距離を置いている風だった。他の面々も気にしていたのだが、時間しか解決してくれないと余計な手出しはしないと決めており、さすがの村木も今回ばかりは氷が解けるのを見守っている。

 そんなある日のこと、鵜飼は仕事の合間を縫ってあの塀を見に行っていた。先日見掛けたイタズラ描きは既に消されていたが、今のままでは鼬ごっこは終わらないだろう。何とかできないべかな? わちにできることって何だべか? 彼はこの美しい白壁に落書きが無くなる策を一生懸命考えていた。そこへ一台の車が鵜飼は傍に付いてクラクションを鳴らしてくる。何だべ? と音のした方へ振り返ると、『オクトゴーヌ』の営業車から小野坂が顔を出した。

「何やってんだよ? こんな所で」

「あそこの白壁見てたんです、何とかなんねえべかな? って」

 鵜飼は珍しく話し掛けてきた小野坂に、少し離れた塀を指差した。しかし今は落書きも消されていて何をどう何とかしたいのか彼には伝わっていない。

「何を?」

「時々イタズラ描きされるんです、あの壁。気付いては持ち主の方とか業者の方とかが消ささるしたっけ、少し日が経つとまた描かれての繰り返しなんです」

 鵜飼の話を踏まえて、小野坂は改めて今は綺麗な白壁を見る。彼は高校生当時の鵜飼がいつも絵を描いていたことを思い出していた。

「あのさぁ、信ならあそこに何描きたい?」

「急にんなことこかれても。理想は白いまんま残したいべ」

「でもそれには対抗策が要るな、取り締まる形とは違うもの」

「はい、所有されてる方も犯人を捕まえたところで意味が無いって被害届を出ささってないんですって」

 小野坂もつられてイタズラ描きを無くす対抗策を考え始めている。すると鵜飼が気になる話を始めた。

「この前落書き消し手伝ったんです。したら所有されてる方の奥様が『あん子ならここに絵を描かさったらええってこくんだべ』ってご主人と会話なさってたんが気になって。したら関東のどっかで実際にそれをプロジェクト化して、放置されてるコンクリート壁に絵を描かさったら落書きが無くなったってニュースを見たんです。それで市役所行ってそん話したっけ、個人宅んことで動くんが面倒みたいで取り合ってもらえねくて」

「だったら直接交渉してみるのは?」

「それも考えましたけど、個人でやっても対抗策としては弱いんでないかって。こういうんは行政の後ろ楯って案外効果が発揮さされると思うんです」

「なるほどな」

 小野坂はその見解に頷いた。

「それにこういうんはカラフルでねえと」

 鵜飼はそう言って目を伏せる。ここに来た時から小野坂は不思議に思っていた。彼は絵を描く仕事がしたいと高校を卒業した後札幌の芸術系の専門学校に通っていたはずだった。しかし再びこの地を訪ねたらクリーニング屋の跡を継いでいる。本人なりの事情もあるだろうが、それよりも絵に触れようとしないことが頭に引っ掛かっていた。

「それってもしかして……」

「んだ、僕色盲なんです。そんでも道はあるって思ってたしたって、そこまで甘くねくて一年ほどで学校辞めたんです」

「それで絵、描かなくなったのか?」

「そんだけでねえですけど、あれからほとんど描かんくなりました。実力的んも限界が見えてましたし、ばあちゃんの病気と後継の話が出たんとが重なって」

 店は残したかったですからと鵜飼はそう言って笑った。

「いざ働いてみっと案外面白くて。今なら両親を尊敬してますって自信持ってこけますもん」

「それなら悌と一緒にやってみるってのは? どのみち協力者は要るだろ?」

 根田にはカラーコーディネートの資格があり、ペンションのリニューアルでは大いに役に立っていたことを思い出して鵜飼の表情が明るくなる。

「やるだけやってみます、ありがとう智さん」

 鵜飼は居ても立ってもいられなくなったのか、小野坂を置いて足早に家路へと向かった。


 このところ根田は事ある毎に鵜飼の自宅に出入りしていた。壁画プランのことであろうとは容易に想像できたが、仕事よりも優先している感があって小野坂にはそれが若干不服だった。しかし堀江も川瀬も楽しそうだねと微笑ましく見守っていて、村木には焚き付けたの智でねえかとチクリとやられる始末だった。

「それは最低限の仕事をした上での話だろ?」

「まぁえぇやん、あんな楽しそうにしてるとこあんま見いひんから」

 堀江は笑顔を見せて小野坂をなだめた。この頃になると元の関西弁で話すようになっていた。さすがに接客では使わなかったが、川瀬は昔を思い出すと言い、小野坂は嶺山と話してるみたいだと苦笑いしている。根田と村木はというと何も気にしていなかった。


 更に数日が過ぎ、鵜飼は少々落ち込み気味で洗濯物の回収にやって来る。彼は役所通いにうんざりのようで、根田も朝から浮かない顔をしていた。

「一つ申請するんがこうも面倒なもんだったなんて」

 鵜飼はテンション低めながらも仕事の手は休めない。根田は提示したデザインの反応が芳しくないようで、思ったほどの成果を上げられず煮詰まっている。

「お前さぁ、取り敢えず仕事してくんない?」

 小野坂は沈んでいる先輩に仕事をするよう促すが、冷たいじゃないですかと少々ムッとした顔を向けた。

「元はと言えば智さんの発案じゃないですからね」

「こんなとこで俺を引き合いに出すな! ちょっと甘ったれ過ぎなんだよ」

 反抗的(?)な態度を見せる根田に小野坂は毒吐いてみせる。

「だったら何か良い案考えてくださいよ」

「俺がかよ?」

 根田もまた後輩の毒に負けておらず、知恵を拝借しようとする始末だった。するとカフェ営業で接客をしている堀江がオーダーを引っ提げて厨房に入る。

「智君、アイスティー一つ用意して。それと悌君、『離れ』の塀に描いてみたら?」

 小野坂は根田の相手を堀江に任せて早速アイスティーの支度に取り掛かる。一仕事終えた鵜飼が根田に、事務手続きだけ終わらせておくべと言い残して帰っていった。

「でもデザイン気に入って頂けなかったんですよ?」

「それは気にせんでえぇよ、あくまで視覚的に解り易うするんが目的なんやから」

 堀江はそれだけ言うと接客に戻った。

「そう言えばさ、この前の休みに物置掃除してたら何個かペンキが出てきたぞ。オーナーが良いっつってんだから、信にも話してみろ」

 小野坂は仕事の手を休めずにまたしても焚き付ける発言をすると、根田はにんまりとして鵜飼にメールを送り、ようやく仕事に取り掛かった。


 夕方になり、根田から連絡を受けた鵜飼が仕事を終えて『離れ』にやって来る。準備は済ませているのだがまだ作業に入っていない。

「本当に良いんですか?」

 いくら馴染みの場所とは言え、さすがに人様の家に絵を描いたことの無い鵜飼は正直なところ若干怖じけ付いていた。ちょうど夜勤前に仮眠を取っていた堀江はそんな彼を見てえぇよと後押しした。そこへカウンセリングから帰ってきた雪路が気まぐれでここを訪ねに来る。

「私も参加していい? この場所への恐怖心を無くしたいから」

 鵜飼は彼女の申し出に戸惑いながらも快諾し、そうと決まれば三人で作業を開始する。堀江はそれを見届けてからペンションに戻った。夜になると作業員は更に増え、村木、嶺山、『アウローラ』の従業員も手伝いに入って初日から良いペースで作業は進んでいく。近くの商店街で働く人たちの中にも面白がって参加する人が現れるほどだった。土日になると塚原も姿を見せ、近所の幼稚園児までも巻き込んで予想以上の方々の力を借り、わずか五日で完成した。


 『離れ』の塀は、花柄基調のとてもポップでカラフルな出来栄えとなり、この日参加した全員が鵜飼を称えた。

「これならお役所もOK出してくれるさ」

 夜になると誰が言うでもなくペンションの広場での屋外パーティーが始まり、宿泊客全員がここでの夕食となった。鵜飼と根田は完成を喜び合い、雪路も感慨深げに壁画を眺めている。

「正直これに参加するまでは怖かってんけど、またここに来れそうやわ。だってこの絵観たいもん」

 その言葉に兄嶺山は安堵の表情を浮かべ、妹の肩を抱いてやった。村木は知らない人たちを巻き込んではしゃいでおり、叔父の赤岩も上機嫌で酒を飲んでいる。そんな中堀江は一人『離れ』に入っていく。それは居場所が無いからではなく、今この時の幸せを神に感謝する祈りを捧げるためだった。

 それを知っている小野坂はオーナーの背中を見送り、ふと視線を移した先にいる川瀬を見る。彼は一人複雑な表情を浮かべており、唯一この場を楽しんでいない風に見えていた。それが気になって声を掛けようと川瀬に近寄ると、パーティーに混じっていた塚原に捕まって集団の輪の中に引きずり込まれた。

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