1.不死の王と死者の村
死霊の足音
死人の足音が聞こえる。
「フランシーン、もっと早く走れ!」
肺と胃が喉元までせり上がったように、息が苦しい。
脚はほとんど感覚がないが、それでも前へと進んでいた。
湿った足音が、靴ずれで血まみれになった自分のものか、腐りかけた死者のものかわからない。
「フラン! 伏せろ!」
前を走っていた大柄な青年––ロジャーが、急に振り返って叫んだ。
理解するより早く目の前に黒い影が迫り、フランは反射的に地面に突っ伏す。
一瞬前までは自分の頭かあった場所で、嫌な水音が響く。
ロジャーが振り切った斧が、枯れ木を割ったように死人の首筋を裂き、黒い血が噴き出すのを見て、フランは目を閉じた。
息遣いと死人の呻きが徐々に弱くなり、固い響きがだんだん腐葉土を叩くような音に変わっていく。
「終わったぞ」
目を開くと、返り血でシャツと腕を真っ赤に染めたロジャーが肩で息をしながら立っていた。
目の前に横たわる動かない死体。
垂直に刺さったままの斧が墓標だ。
その皮が半分剥がれた顔に、生前の歯を剥き出した笑顔が重なり、つい半刻前まで自分たちの後ろを歩いていた幼馴染のスティーブだとわかった。
もはや涙も出なかった。
フランは地面に手をついたまま、出すものもない内臓からわずかな胃液を吐いた。
ロジャーは血まみれのシャツで手を拭いてから、行こうと差し出した。
フランも糸を引いた胃液をスカートで拭い、その手を取る。
もう丸一日は歩いていた。
細い剣のような針葉樹が茂る森は常に真夜中のように暗く、時間の感覚がなくなる。
最初六人いた一行は、今ロジャーとフランのふたりだけだ。
歩き続けて染みた血がぐじゅぐじゅと音を立てていた靴は、冷えて傷口も布地も固まったのか、硬い足音に変わっていた。
「少し、休憩しよう」
ロジャーの声にフランは頷き、足を止める。
座ったら二度と立ち上がれない気がして、ふたりは近くの木にもたれた。
幹と幹の間から、故郷のウッド村の茫洋とした輪郭が見える。
村人は三百人程度。
目立つものは何もない貧しい土地だ。
産業といえば、今フランのいる森の木々から墓標を作ることだった。
辺境に近い場所で静かに存在していることや、村の北部に土地の三分の一を占める共同墓地もあり、都からは死人の村と謗られているのも知っていた。
それでも平和な村だった。
ある日突然、墓地から蘇った死体が蠢き出し、村人を襲うようになるまでは。
死人たちに理性はなく、生前の家族や恋人も無差別に噛みつかれた。
殺された者は死者の軍勢に加わった。
日に日に追い詰められる中、村長は言った。
「キラーズを探せ」、と。
すぐに若者の中から探索用の部隊がくじで選ばれ、わずかな水と食糧、申し訳程度の武器を持たされ、森の中へ送られた。
まだ仄暗い早朝、村を立ったのが遠い昔のように思える。
「本当にキラーズが何とかしてくれるのかな」
独り言のように呟いたロジャーに、フランは力なく首を振った。
お互いにキラーズを見たことはなかった。
何十年も前の戦争で王都に徴兵されたことのある、村長含めた数人の老人だけがその存在を知っていた。
見た目は普通の人間と何も変わらず、しかし、それぞれが人知を超えた恐ろしい力を持っているのだという。
話をそのまま信じるなら、片手で鋼鉄の扉を曲げる男や、手の中で自在に雷を起こす女もいたそうだ。
「何とかしてくれないと困るわ」
そう言った口の中で最後にいつ食べたかわからない物が粘る。
体力のある男たちの中から選ばれるはずだった捜索隊にフランも組み込まれたのは、村を救う報酬にキラーズが望むものなら何でも差し出すということだ。
残りわずかな金も、資源も、それで助かる数の方が多いのならば村民の命も。
キラーズが男だった場合、女も。
自分のマントとスカートを見て、こんなに汚泥と血と乾いた吐瀉物まみれの女を差し出すのは、逆に怒らせるだけではないかと思う。
死ぬなら、せめて口をゆすいでからにしたいと思った。
六人のうちフラン以外にもうひとり女性がいた。
ロジャーの恋人で、彼が選ばれたとき自分もついていくと縋りついた少女だ。
彼女は村からそう離れないうちに、死人に襲われて命を落とした。
疲労の滲んだ表情で佇むこの男は、自分が介錯する羽目になった恋人を思っているのだろうか。
「そろそろ、行かないと……」
フランがそう言いかけた瞬間、ロジャーの首筋からもうひとつ頭が生えているのを見た。
思考が止まる。
針葉樹の幹を挟んで真後ろに迫った死人が、今まさに襲いかかろうとしているのだと気づいた瞬間、死人は既に真っ赤な口を開いていた。
「ロジャー!」
遅かった。
彼の首から血煙が噴き上がり、フランの顔に降り注ぐ。
彼女は自分の腹のどこにそんな力があったのかと思うほど絶叫した。
ロジャーの身体が痙攣し、くぐもった悲鳴とともに肉と骨を噛み砕く音が響く。
フランはただ叫び続けた。
「逃げろ……」
最期にそう言ったロジャーの身体が大きく波打ち、鋲を外された壁掛けのように崩れ落ちる。
木の幹ごと彼を抱えていた死人が、ぐるりと周回して姿を現わす。
静寂の中、死人が一歩踏み出し、同じだけフランが後ずさるたび、枯れ枝を砕く乾いた音だけが響いた。
声はもう枯れていた。
死人がせぐり上げるような呻きを漏らし、口の端から何かを零した。
歯に挟まって潰れた、眼球だった。
足元にそれが湿った音を立てて落ちる。
フランは弾かれたように走り出した。
木々が高速で背後に流れていく。
涙と唾液が走るたびに溢れる。
足も喉もとっくに限界だった。
すぐ真後ろの死人の気配がだんだんと増えているのがわかる。
あの死人はロジャーの恋人だった少女だ。
いつのまにか彼女が死んだ村の近くまで戻ってしまっていたのか。
それともずっと死人は追ってきていたのだろうか。
危険を冒してでもついていきたかった恋人を。
それとも、彼を死なせてもまだ生き延びている自分を。
フランはうわ言のように、ごめんなさいと呟きながら走った。
視界が開け、ふたつのひと影が目に飛び込んできた。
ひとつは先ほどの地面に伏したスティーブの死体。
そして、もうひとつはその骸に刺さった斧を引き抜こうとする男の姿だった。
痩せていて、肩のあたりまで伸びた黒髪を粗雑にひとつにまとめた、見たことのない後ろ姿だ。
「あの、そこのひと、逃げて……」
叫んだつもりが、かすれて空気が漏れるような声しか出ない。
なぜ今他人の心配をしているのだろう。
聞こえたのか、斧を抜いた反動で一瞬よろめいた男が顔を上げる。
若いが病人のように青白く、くたびれた表情。
ほつれて額に降りた黒髪の下で、男は怪訝そうに目を細めた。
もう一度呼びかけようとして、フランは地面に倒れた。
固い土と落ち葉が頬を掻く。
急いで身体を起こそうとしたが、手にも足にも力が入らない。
終わりだ。
死人と同じ呻き声が喉から漏れ、涙が顔中の泥を吸って黒い液体になって滴る。
閉じようとしたフランの目の端に、男の靴先が見えた。
鉱石を砕くような鈍い音がした。
這いずるように何とか上体を起こすと、男が斧の柄を死人の口に突き入れ、片手で食い止めていた。
「人間、じゃないな」
憎しみと混乱の呻きを上げる死人に構わず、男は呟く。
「異能、でもないか。何だこいつは……」
「あの、死人です」
声を振り絞って言うと、男は顔だけフランの方に向けて眉間にしわを寄せた。
「死人?」
「そう、死体。動くの」
男は口から血の混じった泡を飛ばす死人に向き直った。
「殺して大丈夫ですか」
男の言葉の意味がわからなかった。
「駄目なんですか」
男の声に苛立ちが混じった。
逡巡する間に、木陰から新たな死人が現れる。
斧の先に食らいつく、少女の目が一瞬悲しげに見えた。
「どっちですか」
死人が身を震わせ、一際大きく呻くと、無理やり距離を詰めようと腕を広げた。
「……殺してください!」
フランが言うとの同時に、男は斧を回転させ、死人の首を切り落とした。
血の流れる間も無く、首が宙を舞い、木の幹にぶつかって落ちる。
胴体が崩れるより早く、振り切ったままの体勢で斧だけを突き上げ、柄で背後に迫っていた死人の喉を貫いた。
男が斧を引き抜きながらその腹を蹴りつけると、制御を失った死人の身体が一、二歩後ずさり、すぐ後ろの死人にぶつかる。
次の瞬間は二体とも頭部を叩き割られていた。
一瞬の出来事だった。
男は傷ひとつ負っていない。
「キラーズ……」
フランは思わず呟いていた。
こちらに向き直った男の背後に、木よりも短い影が落ちる。
「後ろ!」
男が振り返る前に、死人は屈強な体躯で押し潰すように襲いかかった。
男は身を捻ったが、既に片腕を掴まれていた。
斧が手から落ちる。
死人が男の腕に噛みつき、軟骨と筋肉が骨から引き剥がされる嫌な音がした。
男が息を漏らす。
そのまま腕を食いちぎろうとする死人は––、
「ロジャー、やめて!」
声が届くはずもなかった。
ロジャーの死体は男より頭ふたつ分大きい。
関節の外れる音が響く。
終わりだ。今度こそ。
この男も、自分も、ここで死ぬ。
そのとき、男がシャツを袖から脱ぐように身体を捻った。
男は自由な方の手で斧を握ると、自分の腕があるのも構わず、ロジャーの頭部に向けて刃を一閃した。
血の噴水が上がる。
赤い視界の中で、男の腕と同時に何かが飛んでいた。
目の前に落下したそれは、巻き込まれて斬られた針葉樹の枝葉のように見えた。
違う。
それが毛髪のついた頭頂部だとわかった瞬間、フランは声にならない悲鳴を上げた。
男は右頬にべったりと血糊をつけたまま、自分で切り落とした片腕を掴んで、こちらへ歩いてくる。
大丈夫なのかとは聞けなかった。
その怪我と出血で立っているのが不思議だった。
男はフランを見下ろしながら、表情も変えず、握った腕を自分の肩に叩きつけた。
切断面から細い筋組織が糸のように湧き出し、傷口を覆う。
フランが見守るうちに、腕は何事もなかったように繋がった。
「そうですよ」
男は剥き出しの腕を隠すように上着の襟を掻き寄せて言う。
そして、フランの前に屈むと、結合したばかりの腕を差し出した。
「自分はキラーズです。名前はカザン。
「フラン、ウッド村のフランシーンです……」
取った手は動作も、体温も、何ひとつただの人間と変わらなかった。
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