◆9◆ 真のヒロインはどっちだ?

「とりあえず、片はついたな」


 テーブルに肘をつき、ちょっと疲れたような顔で潤さんは笑った。

 そう、とにもかくにも、片はついたのだ。

 一体何があったのかわからないが、とりあえず、何か厄介なことが起こりそうだったらしい。

 けれども――、「危機は去った」と潤さんがそう言うのだ。一件落着ということなのだろう。


 桃の態度の変わりようがちょっと気になるところではあるけれども、『お姉様』というのも、まぁ確実に悪い意味ではないし、気に入ってもらえたということで、良しは良しだ。


 お兄さん(さすがにまだ『お義兄さん』とは呼べない)の直さんについても、多少鬼教官とか、何とかっていう映画に出て来る何とか軍曹のような印象ではあったものの、任せてくれる、というお言葉をいただいたのだ。ただ、残る2人のお兄さんがちょっと怖いけど……。


 いや、それよりも!


「あの、チョコ、開けてみても良いですか?」

「え? あぁ、もちろん。ただ、桃ちゃんのを見た後だから、かなり見劣りすると思うけど」

「そんなことないですよ」


 と、そんな会話をしながら、ゆっくりと包装紙を剥がす。これも潤さんが俺のためにしてくれたのだと思うと、もうそれだけで涙が込み上げて来そうになる。駄目だ、こらえろ、藍!


 むき出しになった白い箱の蓋をゆっくりと開ける。

 中は6つに仕切られていて、ハートの形のアルミカップに入ったチョコレートが行儀よくじっとこちらを見つめていた。向きもきちんと揃っている。そのひとつを手に取ると、潤さんは真剣な眼差しで、それを俺が食べるのを待っているようだった。


 チョコレートをカップから取り出し、口の中へ入れる。

 部屋の暖かさで少し柔らかくなっていたそれは、俺の口の中でゆっくりと溶けていく。


「美味しいです、潤さん」

「そ、そうかい? まぁ、チョコを溶かして固めただけだから、大きく失敗はしないと思ったけど」

「湯煎、難しくなかったですか?」

「難しかったよ。混ぜているうちにお湯が入っちゃったりしてね。やり直すんだけど、今度はボウルの水気をきちんと拭き取らないままチョコを投入してしまったりして……」

「成る程、良くある失敗ですよ。俺も経験有ります」

「何、藍もか?」

「はい。実家に住んでた頃は桃と一緒にお菓子を作ったりしてたものですから」


 そう、バレンタインは、ゆくゆくは自分の口に入るそのチョコを一緒に作ったりしていたのだ。「おにい喜んでくれるかなぁ」なんて、桃はチョコをかき混ぜながら言うんだ。この場合、「大丈夫、喜ぶよ」と『もらう人間』として答えて良いものか、それともいまは『作る人間』として「きっと喜ぶんじゃない?」と答えた方が良いのか悩んだものである。


「で、いっそ直火ならお湯も入らないだろう、って……」

「焦げませんでした?」

「焦げた」

「それで、牛乳とか足してみたりして」

「やったやった。何だ、藍もわかるのか」

「俺……? ですか?」

「直兄に助けを求めたら、同じこと言われたんだ」


 と、恥ずかしそうに顔を背ける。つん、と口を尖らせているのが可愛い。


「いや、気持ちはわかります。いつだったか、桃も自分一人でやってみる、って言い出して、試しにやらせてみたら同じことを」

「ふむ。桃ちゃんとは仲良くやれそうだ。……いや、待て、いまはさすがにそんなことをしないんだろう? ということは、私よりも数段上だな。先輩だ」


 腕を組み、うんうんと頷いている。この人の場合、年齢が上とか下とか関係がない。自分より優れていれば先輩なのである。


「で、結局直兄のアドバイスで、その……ドライヤーを」

「あぁ、便利ですよね。失敗しませんし」


 俺も最初は「ドライヤーで?!」と驚いたものだが、これがなかなかどうして侮れないのである。


「驚かないんだな」

「プロの人も使ってるみたいですからね」

「そうなのか」

「すごく美味しいですから、ほら、潤さんもおひとつどうぞ。記念すべき初手作りチョコですよ」


 と、その手の上に置いたのは、赤いアルミカップのチョコレートだ。潤さんはそれをじぃっと見つめ、ゆっくりとカップを剥がしていく。そして――、


「まさか私が手作りを贈ろうなんて思うようになるとはなぁ」


 と、ぽつりと呟いた。

 カップから取り出したチョコレートを、口の中へと放り込むと、それをゆっくりと咀嚼する。それを見届けてから、俺は2つめのチョコレートに手を伸ばした。


「全体的に――」

「はい?」


 チョコを噛み、ごくん、と飲み込む。潤さんは、何だか不思議そうな顔をして俺が畳んだ包装紙を手に取り、それを様々な角度から眺めている。


「全体的に、今年のバレンタインは、とにかく『自分らしく』ないんだ」

「自分らしく?」

「まずは、手作りチョコ。料理が苦手なのは自覚しているし、まぁ、出来なくても何とかなるもんだからさ、たぶん手作りなんて一生しないんだろうって思ってたんだ。現に、これまでは一度もしてこなかったわけだから」


 まぁ正直、昔の恋人の話を聞くのは面白くはないけど。だけど、この話は止めちゃいけない気がする。


「なのに、藍には、そうしないといけない気になったんだ。いままでは、恋人だろうが家族だろうが一律大袋のチョコだったのに。何でなんだろう」

「それは……」


 これはちょっとうぬぼれても良いんでしょうか、潤さん。


「それから、渡すタイミングも。別にチャンスはいくらでもあった。だろう? 席なんか目と鼻の先なんだから」

「確かに」

「そりゃ皆には内緒といったって、男性社員には皆あげてるわけだし、そのノリで渡せば済む話なんだ。だけど、何ていうかなぁ。恥ずかしいっていうのか、照れくさい、っていうのか、とにかくもたついてしまって、いまに至る、と」


 これはやっぱり少々うぬぼれても良い展開なのでは。


「何でだかわかるかい、藍」

「え?」


 そわそわと落ち着きがなくなってしまっているところに、潤さんの低い声が届く。ハッとして隣を見れば、前髪を無造作にかき上げて笑う潤さんの顔。

 

「藍ならわかるかと思って」

「そ……れはですね……」


 いいい言えるか! そんな「たぶん俺のことが好きだからですかね」なんて!!


「これを作るためにジムも休んで。で、慣れない炊事で、この通りだよ」

「絆創膏……。指切ったんですか?」

「いや、間違えて自分の手をたわしで擦っただけ」


 何で? 何をどうしたら自分の手をたわしで擦ることに!? ま、まぁ潤さんだからな、何も言うまい。

 

「何でなんだろうな、ほんと。不思議なことばかりだよ」

「そ、そうですね……」


 ごめんなさい、いまの俺にはそう返すので精一杯です。


「藍にもわからないかぁ」


 と、潤さんは困ったような声を上げた。その、ちょっと苦しそうな横顔を見ると、胸が締め付けられる。なぜか「男を見せろ!」という大槻主任の言葉が浮かんで来た。いやそれは三富さんとみミシンさんの話で……とは思いつつも、でも、確かにここはぐっと引っ張るところかもしれない。


「潤さん」

「んー?」


 空になったアルミカップを弄んでいた潤さんは、ちょっと気の抜けた返事をした。それをひょい、と回収する。


「指、切れますよ。これ油断してると案外危ないですから」

「おお、そうか。ありがとう」

「ええと、さっきの話ですけど、ちょっと思い当たることが……」

「お? さすが藍だな」

「あの、たぶん、たぶんですけど」


 きちんと座り直し、こほん、と軽く咳払いをする。


「その、ええと……」


 いざ、と挑んでみたものの、これはかなり恥ずかしい。潤さんは潤さんでこの謎が明かされるのをいまかいまかと待っている。というか――、興味深そうに瞳を輝かせてずいずいと顔を近付けて来た。


「この年になって新しい自分に気付けるなんてなぁ」


 ち、近い……。


「あの、あのですねぇ……。あの、ほんと、俺の推測になりますけど……」

「うん、それで構わない。この手の分野に関しては、藍の方が先輩みたいだから」

「そんな、先輩だなんて」

「さぁ、早く。さぁ!」


 近いです! 近いですよ、潤さん!!


「き、きっと……潤さんが……」

「私が?」

「お、俺のことを……」

「藍のことを?」

「す、すすす……」

「すすす?」


 「す」の口のまま固まってしまう。

 何だこれ、何でこんなに恥ずかしいんだろう。

 顔が熱い。

 鼓動が速い。

 もうとにかく潤さんの顔が近い。

 こんなに近いとそのままキスをしたくなってしまう。

 馬鹿、俺の馬鹿! 一体何を考えているんだ!


 ぎゅっと目を瞑る。

 落ち着け、自分、と言い聞かせて。


 と。


 ふわ、と鼻先をかすめるチョコレートの香り。

 さっきお互いに食べたやつだろう。

 額に柔らかな髪が触れた。俺のじゃない、これは――、


「じゅ、潤さんっ!?」


 思わず目を開けると、もうあと数mmで唇が触れる、という距離に彼女がいた。


「目を瞑ってよ、藍。さすがに恥ずかしいから」

「え、でも……」

「何でだろう、急に君とキスがしたくなった。ほら、目を閉じて」


 そう言うと、その宣言通りに潤さんは俺の唇を奪って来た。

 軽く触れ、少し離れ、また触れる。

 そして、また離れた。


「……いきなり何ですか、もう」

「ごめん。何か可愛い顔してたから」


 可愛い……? いまさらだけど潤さんの美的感覚って大丈夫なんだろうか。


「それに近かったしさぁ。あぁこれ、あともう少しで届くなって思ったら、つい」


 まぁ、俺も似たようなことは考えてましたけど。


 たぶん顔は真っ赤になっているだろう。

 この一連の流れが、桃に借りた少女漫画みたいな展開だと思うと共に――、


 ということは、ヒロインって、俺!? と愕然とした。


「こういうのも本当に自分らしくないと思うよ。自分からこうやって仕掛けたりとか、しないタイプだったんだけどな」


 とぽつりと呟いてから、潤さんはしまった、という顔をして俺を見た。


「よくよく考えたら、昔の恋人の話を持ち出すのもマナー違反だな。ごめん」


 とわびた後で、「あぁそうか」と妙に納得したように、ぽん、と膝を打った。


「私はそれほど君が好きってことなのか」


 俺の答えを待つまでもなく、自力でそれを導き出した潤さんは「なぁんだ、簡単な話じゃないか」と、晴れ晴れとした顔で笑っている。

 

 ヤバい。

 このままじゃ本当に俺がヒロインポジションだ。

 

 何くそ、と思わないわけでもない。

 反撃だ。


 心のもやもやが晴れたのだろう、やけにすっきりした顔をしている彼女の肩を、ぐい、と抱き寄せる。いつまでもあなたのペースでいかせるわけにはいかないんですから。


「俺だって、それほどあなたが好きです。潤さんのことを考えすぎて眠れなくなったり、早起きしちゃったり、チョコもらっただけで泣いちゃったり。俺だって、全然らしくないです。だけど」


 潤さんは俺の腕の中にすっぽりとおさまり、大人しい。抱き締めてみると、彼女は案外小さいということに気付く。仕事の時はとてつもなく大きく見えるんだけど。


「らしくない2人も良いじゃないですか。いままでとは違う恋愛をしましょう、お互いに」


 そう言うと、潤さんはちょっと照れたような声で「そうだね」と言い、小さく頷いた。



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