◆5◆ 恋人に対して失礼じゃないか。
きっちりと半分のいちご牛乳を飲んだ潤さんは、俺が渡した飲みかけのコーヒー牛乳に何のためらいもなく口を付けた。
そして、ぷは、と瓶を口から放し、
「うむ。甘酸っぱいからのほろ苦甘い。最高だ」
と満足げな声を上げた。
そして思い出したように――、というか実際、また数人の通行人がいたことで先程の話題を思い出したらしく、「そういえばさっきのあれさ」と言い出した。
「あれって……あれですよね」
「そう、こっちを見た人が不思議そうな顔をする、という謎」
「いやまぁ、謎というほどのものではないと思いますけど」
「でも片岡君にはわかって、私にはわからない。充分な謎だよ」
空の瓶を見つめ、潤さんは首を傾げた。
なぜわからないんですか。
あなたみたいな
「それは……えっと……」
だけど。
そんなことをズバリと言ったら潤さんは悲しまないだろうか。
「もしかして……」
なかなか話し出さない俺にしびれを切らしたのか、潤さんが口を開いた。
「私が化粧を落として眼鏡をかけているからでは?」
――ずるっ。
いま心の中のもうひとりの片岡藍がベタなコントみたいにずっこけた。
しかし、潤さんは止まらない。
「いや、瀬川君も言ってたんだ。すっぴん見せるの恥ずかしくないですか、って。私は全然恥ずかしくもないし、してもしなくても変わらないと思ってるけど、回りから見たら違うのかも! どうだい、正解だろ、片岡君!」
晴れやかな顔でそんな結論を叩き出した潤さんを見れば、まさかそんな、とも言えず、俺は――、
「せ、正解です。たぶん」
と親指を立てた。
だってその可能性もないわけじゃない。
それになぜか潤さんは嬉しそうなのである。何でだろう。
しかし、それを聞いても良いのだろうか。何で嬉しそうなんですか、と。
そう考えていたところへ、三課か四課の女性社員2人が、不思議そうな、を通り越してぎょっとした顔をして通りすぎて行った。しかも、その『ぎょっ』の視線は潤さんではなく、あからさまに俺に向けられていたのだ。もうほんと、潤さんでもわかるだろうってくらいに。
その上、まだ数メートルも離れていないのに「ないよね」という声まで聞こえてきた。ひそひそ話にしては大きすぎる。いや、絶対聞こえるように言っている。それくらいの言葉なら、指摘されたとしてもどうとでも言い訳が出来る。被害妄想と言われたらそれまでだし、もしかしたら本当に俺の被害妄想かもしれない。その可能性だって0じゃないわけだから。
だけどさ。たぶん、そういう意味なんだろ?
自覚してますって、それくらい。
ないよ。わかってるよ。
華なんかないし、有り得ないっていうんだろ。わかってる。
「ちょっと君達」
情けなくもちょっと悔し涙が出そうになってきたのをぐっと堪えていると、潤さんが立ち上がった。そして、その2人に声をかけた。少し低めの、ちょっとのんびりした声で。
潤さんに呼び止められた2人は、きゃっと肩を竦めてから、ゆっくりと振り向いた。頬が赤いのは宴会の酒が抜けていないのか、それとも潤さんに声をかけられたからか。
「私の見間違いならすまないが、いま片岡君を見てかなり驚いていなかったか?」
腕を組み、不思議そうに首を傾げたすっぴん眼鏡の潤さんは浴衣姿というのも相まって、中性的な魅力がいつもより増しているように感じられる。女性社員達は、じぃっと潤さんの顔を見ているようだった。普段の顔と見比べているのかもしれない。
「いえ、別にぃ、驚いたっていうかぁ」
「ちょっと目が怖いなぁって思ってぇ」
ねぇ、と言って互いに視線を合わせ、くすくすと笑う。何がおかしいんだ。目が怖くて悪かったな。
「主任は怖くないんですかぁ?」
「いや全然」
食い気味に即答してくれるのが嬉しい。その『全然』という言葉に俺がどれだけ救われているか。大げさに聞こえるかもしれないけど。
「でもぉ、主任? ちょっと……」
瀬川さんのような緩いパーマをかけている方が、潤さんをちょいちょいと手招きした。何だい、と潤さんが近付くと、もうひとりの髪の短い方(といっても潤さんよりは長いけど)もぴょこぴょこと跳ねるようにして身を寄せる。「女が3人集まれば始まるのは噂話と陰口大会よ」と教えてくれたのはイトコのお姉ちゃんだったな、なんてぼんやりと思い出す。
あの輪の中で話されているのはどう考えたって俺のことだ。
どうせ、主任にはもったいないですよとか、あの人に近寄らない方が良いですよとか、そんなところだろう。って、俺の被害妄想も大概だな。
でも昔からよく言われたもんだ。まだ実際に聞こえてこないだけ良い方かな。女子って数の多さがそのまま力の強さになるっていうか、10人くらい集まるといよいよ面と向かって――、
「何を言ってるんだ君達は」
俺の思考は潤さんの声で中断された。
さっきの、ちょっとのんびりした声じゃない。さっきよりも低い声だ。以前、牧田さんがお客さんトコで有り得ないミスをやらかした時よりも低い声だ。
そもそも潤さんは滅多なことじゃ怒らない。怒らないし、そうそう叱ることもない。
叱ることで萎縮されても困る。かといって、同じミスをされても困る。良かった部分があるならそこは褒めるべきだし、自分が頭を下げておさまるならいくらでも下げてやる。どんどん前に出ろ。失敗を恐れるな。部下の尻拭いのために上司というものはいるのだと、伏見班ではそう教えられている。
だから、結果を出そうと積極的に動いた結果のミスで叱られることは、余程の場合を除いてほとんどない。どうしたら次は上手くいくかのアドバイスで終わる。ただ、サボりだとか、確認を怠ったことによるミスについてはかなり厳しく詰められるけど。
そんな潤さんの、かなり低い声だ。
これはかなりお怒りだ。
じゃあ、何に対してお怒りなのか。もし、俺の予想通りに彼女達が俺のことを言ったのだとすれば――、
「君達、それは私の恋人に対して失礼じゃないか」
「ちょっ……!?」
潤さん、何言ってるんですかぁっ!?
毅然とした態度できっぱりとそう言い切ってから、潤さんは「あ」と呟いて俺を見た。
視線が合い、「しまった」という顔になる。
女性社員は気まずそうな顔で「すみませんでした」と頭を下げ、そそくさと立ち去ってしまった。
パタパタというスリッパの足音が遠ざかり、また廊下は静寂に包まれる。俺と潤さんは見つめ合ったままだ。ついでに言うと、潤さんの顔は「しまった」のままで固まっているし、俺は「ちょっ……!?」と腰を浮かせたままで固まっている。
「……ごめん、片岡君」
「……い、いいえ、その……」
お互いに、妙な表情、妙な姿勢で固まったまま、ぎこちなく会話をする。やがて魔法が解けたかのように潤さんに表情が戻り、俺はというと筋肉がぷるぷると震え始め、ベンチへと腰を下ろした。潤さんもとぼとぼとこちらへ歩いてきて、もう一度「ごめん」と言ってから隣に座った。
「頭に血が上ったんだな。私としたことが……」
そう言って潤さんは頭を抱えた。
確かに、付き合っていることはなるべく大っぴらにしないでおこうって話だったから。
だって俺と潤さんじゃどう見たって釣り合わない。
だけど。
「あの……、嬉しかったですよ、俺は」
「え?」
「あの2人が何を言ったかはわかりませんけど。でも、かばってくれたんですよね」
「まぁ……、うん。だってあまりにも片岡君のことをだな――」
拳を強く握りしめ、自身の膝を打つ。何でそんなに悔しがってくれるんですか、あなたは。
「だいたい、目付きが鋭いから何だっていうんだ。そのハシビロコウのような凛々しい目が良いんじゃないか」
「えっ?」
えっ?
潤さん?
俺のことハシビロコウだと思ってたんですか?!
「どうして私の好きなところを否定したがるんだ! なぁ、片岡君!」
「な、何ででしょう……。ていうか、え? は、ハシ……?」
「しかし、約束を破ってしまった……」
「良いですよ、もう。皆に内緒にしたかったのは――」
がくりと肩を落としたその背中を擦ると、潤さんはちらりと俺を見た。拗ねたように口を尖らせている。うわ、そんな顔、反則ですから、ほんと。
「俺と付き合ってるって知られたら、主任の評価が下がると思ったんです」
「評価? 下がるわけないじゃないか」
「仕事の方じゃないですよ。何ていうか……あの伏見主任が俺みたいなので良いんだ、みたいな」
「うえええ? 何だそれ! 『俺みたいなの』って何だそれ!」
「何だそれって……、つまり、さっきの人達が良い例じゃないですか。回りからはやっぱりそう見えてるんですよ」
どうにも潤さんは納得出来ないらしく、腕を組んで「えええ? えええ?」と繰り返している。そしてやっと納得がいったのか、膝を、ぱちん、と叩いた。
そして、びしっ、と俺を指差した。かなりの至近距離で。
「片岡君、君も失礼じゃないか」
「え? 俺ですか?」
「そうだよ。よくよく考えたら、片岡君が一番失礼だ」
「失礼? 俺が、主任に対してですか?」
「違う。君が君に対して失礼なんだ」
一体何を言い出すのか。
酔ってる? まさか。さっき飲んだのはいちご牛乳とコーヒー牛乳だぞ? それとも飲み合わせが悪かったとか? そんなことある?
「そうだよ。君は優しくて真面目で気遣いも出来る良い男なのに、どうしてそこを誇りに思わないんだ」
「え? いや、その……」
「片岡君のうわべしか知らないような人達がそこだけを見て好き勝手言うのは良い。それも自由だ。仕方がない。だけど、片岡君が君自身を否定してどうする。君には誇れる部分が山ほどあるじゃないか。それを否定するなんて、自分自身に対して失礼だぞ」
張りつめていた糸が、ぷつん、と切れた気がする。切れたのか、それとも潤さんがその凛とした声で、あるいは、まっすぐに尖った言葉の刃で切ったのかはわからない。
だけど、とにかく糸は切れた。
肩を押さえつけていた見えない手であるとか、足首にまとわりついていた枷なんかが、ふ、と消えた気がする。
だから敵わないんだ、この人には。
「……すみません。すぐには変えられないかもしれませんけど、努力します」
「君のペースで良いんだ、片岡君。大丈夫、私がついてる」
「百人力ですね、主任がいてくれたら」
「そうだろ、ははは」
何だか怒ったような拗ねたような顔をしていた潤さんは晴れやかに笑って、ベンチの脇に置きっぱなしになっていた牛乳瓶を持つと立ち上がった。
「ちょっとこれを捨ててくるよ。そろそろ部屋に戻ろうか」
本音を言えばまだもう少し一緒にいたかったけど、時間も時間だし、仕方がない。
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