◆4◆ 伏見主任と昼食を共に。

『件名:お疲れ様です。

 本文:主任の貴重な休憩時間に恐縮なのですが、急ぎで確認していただきたい資料があります。よろしければご返答願います。 片岡藍』


 今日もきっちり11時57分。

 こういうのは時間が決まっている方が印象に残る、と思う。


 光ちゃん――おっとここはオフィス内だった――小橋さんの予想通り、伏見主任は自分がまったくしゃべらなくなったことについて、指摘こそすれ、怒ることはなかった。その指摘についても本当にやんわりとだったので、『問題ありません。』などと返せば「それなら、まぁ……」と引いてしまう。対お客様だとかなり押せ押せらしいのだが、部下に対してはそうでもないのである。優しいんだ、主任は。


 さて、そんな『PenTalk 3.2』のモニターも今日で終わりだ。つまり、この、大きなマスクや、常に筆談というのも、モニター中だから、という大義名分がなくなるわけだ。これで本当に風邪でも引いてしまえば良いんだろうけど、それはそれで迷惑がかかる。


「――さて、行こうか、片岡君。急ぎってことだけど、何か食べながらでも良いよね?」


 そしてやはり小橋さんの予想通り、主任はこの2週間、毎日ランチに誘ってきた。この人は、「何か燃費がめちゃくちゃ悪いみたいなんだよね」らしく、朝昼晩、きっちりがっつり食べないと身体が上手く動かないのだそうだ。だから、どんなに忙しくてもお昼を抜くことはない。


 だから、この2週間、昼食を一緒に作戦は成功しまくっている状態だ。

 ただ、果たして「どうしたんだろう、片岡君は」と考えてくれているかはわからないが。


 今日はあのイタリアンキッチンにしよう。

 主任は絶対1人だとこういうところに行かないからな。

 


 うーわ、やっぱり様になる。

 主任てば、窓側の席でお冷や飲んでるだけなのに何でか様になってる。悔しい。

 

 そんなことを思いつつ、書類をチェックしてもらう。真剣なその目にどきりとする。


 抜かりはないはずだ。

 と思いつつも、めちゃくちゃ緊張する。


「うん、今回も内容は問題ないよ。レイアウトも工夫されているし、見易い。特にここのグラフが良いな。イメージが沸きやすいし、数字や文字ばっかりだとそれだけで面倒だって印象を持たれかねない。さすが片岡君、ばっちり」


 にこりと笑って資料を手渡される。その柔らかな笑みに安堵し、良かった、合格だ、と張りつめていた糸が、ぷつん、と切れそうになる。

 

 危ない危ない。

 ポーカーフェイス、ポーカーフェイス。


 緩みそうになる頬を引き締め、ペンを走らせる。書いたのは『ありがとうございます。』の文字。


「ねぇ、片岡君。せっかく向かい合ってるんだからさ、良い加減筆談じゃなくて会話しようよ」


 主任がちょっと甘えたような声を出す。

 いやもうそんな反則ですから。もしかしてこっちの気持ち、バレてます?

 いや、違うな。この人は結構素でこういう声を出してくるのだ。無自覚タラシめ……。


『いえ、自分はこのままで大丈夫です。』

「いや、片岡君は大丈夫でもね……。何ていうか、やりづらいんだよなぁ」

『お気になさらず。』

「お気になるよ。さすがにさぁ」


 気にしてる!?

 やっぱり気になるんだ!?

 光ちゃん、作戦成功だよ!!


『業務に影響はありません。』

「そうかなぁ? でも片岡君、午後からお客様のところ行くんじゃなかった?」

『問題ありません。午後は『ミギ⇔ヒダリ(株)』さんですから』

「あぁ! そうだった! 是畑これはたさんか!」  


 是畑さんというのは、医療機器メーカー『ミギ⇔ヒダリ(株)』の営業部にいる女性で、生まれつき聴覚に障害がある。前任とは『PenTalk』を使った筆談だけではなく、手話も交えてやり取りをしていたらしいのだが、自分はまだまだ勉強中だ。単語は少しずつ覚えてきているけれども、会話が出来るほどではない。


「まぁ、お客様に迷惑がかからないなら良いけど……」


 やがて主任はそう言って引いた。主任はいつもそうなのだ。上司なんだから、「良いから口でしゃべれ!」と命令することだって出来るはずなのに、それをしない。


 それは果たして、相手を尊重しているからなのか、単にそこまで踏み込むのが面倒なのか。

 前者だと思う。思いたい。



 さて、食べ終えたら終えたで、まだ戦いはある。


 奢るの阻止! である。


 主任は主任であるわけだから、当然――というのか、自分よりお金を持っている。

 まぁ、世間の常識、とまで言って良いのかはわからないが、こういう時は上司が奢るものらしい。そういうのもわかってはいる。けれども、けれども、だ。


 そんなことをしたら、それ目当てのように思われてしまわないだろうか。


 だから、何としてもそれは阻止しなくてはならない。そりゃ毎日それなりの額は飛んでいくけれども、主任が選ぶ中華料理屋や定食屋に比べればまだ全然朝晩のやりくりでどうにかなるレベルなのだ。




 しかし問題は、出来れば今日中にこのモニター終了を告げねばならないというところにある。

 もともと、ペラペラしゃべる方ではなかったが、それでもここまで頑なにしゃべらないキャラになってしまったのだ。明日からいきなりマスクなしで出勤し、しゃべり出すのも不自然である。

 だから、これまでのは試作機のモニターだったのだと告げた方が良いだろう。


 確か今日は一課と打ち合わせが終わったら残業せずに帰ると言っていたから、もし、時間をもらえたら……。


 と、思って待っていたのだが、一向に戻ってこない。鞄は置いたままだから、まさかそのまま帰ったということもないだろうけど。


 ちょっと一課の方に行ってみようかな……。


 何、途中で出くわしたらそれはそれで良いのだ。途中にある『憩いの場』という自販機コーナーに行くところだったと言えば良い。


 行き違いになっては大変だと、光ちゃんにもし主任が戻ってきたらこっそり連絡してとお願いし、主任捜索のため、二課を出た。


 辺りをキョロキョロ――せずとも、何もここは通路が入り組んだショッピングモールでもない、ただの廊下なのである。途中、階段があったり、『憩いの場』がある、というだけの。しかし一課は一階にあるので、主任がどこの階段を利用するかによっては行き違いになる可能性がある。

 でも、その時のための光ちゃんなのだ。ポケットの中のスマホはぴくりとも動いていない。少なくともまだ戻ってきてはいない。



「――伏見ならさっき二課に戻ったぞ」


 一課のドア近くで大槻主任に遭遇した。ちょうど帰るところだったらしい。そう、例の、筋トレが趣味だという大槻主任だ。スーツは上も下もパツパツでいまにも弾けそうである。たぶん、漫画みたいに全身に力を入れて叫べばビリビリに破けるのだろう。


「あいつ、すげぇ食うのに何であんなほせぇんだろうな、片岡。なぁ、お前からもちょっと言ってくれよ」

「何をですか?」

「プロテインを飲め、って」

「嫌ですよ。伏見主任はムキムキなんて似合いませんって、絶対」


 まぁ、多少はあっても良いけど。でも、あのすらりとしたモデル体型が良いんじゃないか。


「そうかなぁ」

「それに、同期の大槻主任が言っても駄目なら、部下が言ったって聞きやしませんって」

「いや、わからんぞ、片岡。何かあいつな、な、ここだけの話だけどな、気になるヤツがいるらしいんだよな」

「んなっ……!?」


 自分が絶句すると、大槻主任は満足そうに目を細め、背中を丸めて声のトーンを落とした。この人は結構こういう話が好きなのだ。


「いやマジでここだけの話な」


 たぶん、ここだけにとどまってはいないと思うけど。


「いくら名前を聞き出そうとしても、そこだけは絶対に言わねぇんだよ、あいつ。ただブツブツ『しゃべってくれないしゃべってくれない』ってうるせぇうるせぇ。そういう時こそプロテインだっていうのに……」


 そういう時にプロテインが一体何をしてくれるというのだろうか。それもちょっとは気になるけど。


「しゃ、しゃべってくれない、ですか……」

「そそそ。なぁ、片岡。心当たりねぇか? 伏見の性格上、コンビニとか飲み屋で出会ったヤツとか、そんなんじゃねぇと思うんだよ。絶対社内。んで、絶対二課だと思うわけ、俺は」

「何を根拠に……」

「だからあいつの性格だよ。俺、同期だし、付き合い長いからな。だいたい身近なところなんだ」


 だったらなおさら行きつけのコンビニやら飲み屋の線もあると思うんだけど。いや、その前に『だいたい』って何ですか、『だいたい』って! 社内恋愛の経験有りなんですか? そうなんですか!!?


 そこも大いに気になりまくるところだけど、でも、『しゃべらない』といえば……。


「なぁ、片岡。二課にいねぇか? そんなヤツ。伏見を避けてるようなヤツ」

「しゅ、主任を避けるような人は二課にいませんよ!」

「何だよぉ、何でそんな愛されキャラなんだよあいつぅ」

「人望じゃないですかね」

「いま、さらっと俺のことディスっただろ! 片岡ァ!」

「ディスってませんって! そ、それより、一応、駄目もとで伏見主任に言ってみますけど、プロテインはどこのメーカーでも良いんですか?!」


 危うくヘッドロックをかけられそうになったのをさらりとかわし、そう尋ねる。とりあえずこの人は『筋肉』とか『プロテイン』という単語を出しておけば良いのだ。


「おお、よくぞ聞いてくれた」


 山賊みたいな顔をしていた大槻主任は、案の定、『プロテイン』に反応した。そしてその場にしゃがみ込み、足元に置いてあった鞄の中をがさがさと掻き回している。


「そうだな、俺のお勧めは――」


 え、え、何?

 サンプル? 何かいっぱい小袋見えてるけど、サンプル持ち歩いてるの、この人!?

 こっわ! 何の営業なの!? いやいやあなたの担当って大型事務什器でしょうよ!!


 結局、「サンプルだ! お前も飲んで良いから!」と色々な種類のプロテイン小袋を山盛りに渡されてしまった。


 あぁ、とんだ時間ロスだ。もしかしてもう主任帰っちゃったんじゃないかな。


 そう思いつつ、プロテイン達を鞄に押し込んでからスマホをチェックする。奇跡。光ちゃんからの連絡はなし。


 だとしたら、主任は一体どこで油を売っているんだ。


 あと考えられるのは『憩いの場』か……?


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