第12話 Be the partner
「あたしに
そう言うと彼女は目を細める。私の心を見透かそうとするように。
「タイリクオオカミ。セルリアンの件は聞いた。…残念だったな。」
彼女の握り拳が小刻みに震えた。
「今は群れを持たないが、あたしもオオカミだ。群れを失う悲しさは分かっている。」
寂しげな表情を見せた直後に彼女は鋭い眼差しで私の目を見る。
「それで、改めてあたしに鍛えて欲しいと言うのは復讐の為か?」
そうだ、とこの時の私は思っていた。だけど本当のところは、胸の内に渦巻く感情をどう受け止めればいいのか、単にその捌け口を探していただけだったのかもしれない。
「ふむ。」
彼女の視線が値踏みする様に私の全身を捉える。
唐突に何かが私の顔にぶつかってきた。火花が散り視界が揺れる。腹に何かが突き刺さる。衝撃が背中まで突き抜ける。何が起こってるの!?
私は地面に倒れていた。頭を抱えて身体を丸める。身体中に何かが叩き付けられる。石つぶての雨!?痛い、痛い!
情け容赦の無い衝撃が全身を襲う。恐い。もうやめて!
頬に硬いものが押し付けられる。恐る恐る目を開ける。彼女の足が私を踏みつけていた。
口から嗚咽が漏れる。ぼやけた視界に私を見下ろす彼女の姿が映る。冷たい目。私を蔑むような、憐れむような。
「帰れ。お前には戦う資格が無い。」
そう吐き捨てると彼女は背を向ける。
「…待って!」
彼女の背が離れて行く。
「待てよ!!」
声を振り絞って叫んだ。
振り返った彼女の目を私は睨みつける。歯を食いしばって。涙に濡れた目で。
「そうだ。その目、その感情だ。」
立ち上がろうとする私に彼女が手を差し伸べる。
「立て。戦え、この世の理不尽と。その為の
手を取ると強い力で握り締められる。奥歯を噛み締めて精一杯握り返す。彼女は微かに口角を上げると片手で私を引き起こした。
その日から私の戦いは始まった。
「…どうした、もう終わりか?」
毎日叩きのめされた。
「お前は弱い。だから何も守れない。力無い者は奪われるだけだ。」
涙がこぼれる。悔しい…!彼女を睨む。導火線を伝わる火の様に激しい気持ちが背筋を駆け上る。痛みを堪えながら私は立ち上がった。
「…そうだ、もっと怒れ!憎め!あたしを殺してみろ!」
やがてハンターとしてセルリアンと戦った。
「待て!先走るんじゃない!」
「俺に構うな!行けっ、追え!」
「馬鹿野郎!守るか戦うか、どちらかしか無いんだ!迷ったら死ぬぞ!俺たちもお前もだ!」
群れとして戦う、あの時の私にはそれが出来なかった。
「お前は何の為に戦っている?お前の怒りの矛先は何だ?」
彼女が問い掛けてくる。香ばしい匂い。振り向いた私に串焼き肉を差し出してきた。彼女の背後からは談笑する声と薪の爆ぜる音がする。
「お前が本当に憎んでいるもの、それは…」
セルリアンだ。だが言葉は出なかった。受け取った串焼き肉に目を落とす。遠くでフクロウの鳴く声がした。
「…獣だった頃はよかった。ただ殺し、喰らい、生きて、死ぬ。怒りも悲しみもない。」
遠くを見るように彼女は目を細める。おそらく彼女が見ているのは彼方の景色だろう。私の想像の及ばないほど遠く、古い世界の。
「あの頃には戻れない。ヒトの姿をし、ヒトの言葉を話し、ヒトの心を持つケモノ、それがあたし達だ。」
彼女の目が私を見据える。
「お前はまず自分自身と向き合うことだ。タイリクオオカミ。怒りと憎しみを持たない者に戦う資格は無い。だが、憎しみに呑まれ戦うだけのケモノはセルリアンと同じだ。己を見失っているようではフレンズとして戦うことは出来ないぞ。」
その言葉が胸に突き刺さるようだ。
戦いの合間に私は絵を描き始めた。まだ穏やかだった時のように。
「上手いもんじゃないか。ハンターをやめて絵描きになったらどうだ?」
「お世辞はいらない。…悪いな、タイリクオオカミなのに期待に応えられなくて。」
皮肉まじりに返すと彼は一瞬考え込む素振りを見せ、得心した様に顔を綻ばせた。
「なんだ、気にしていたのか。」
以前にハンター達の会話が耳に入ってきた。
「実に半世紀ぶりか。タイリクオオカミのネイティブフレンズは。」
「十五年前のグリズリーに続いて、八年前にはヒグマだ。」
「南部だと二十年以上か、アモイトラが生まれてから。ついにフレンズの三強が揃ったな。」
視線を泳がせる私に彼は屈託のない笑顔で語りかけた。
「お世辞じゃないさ。俺は画家になりたかったんだ、その俺が言うんだから間違いない。…色々あってハンターになったが後悔はしちゃいない。俺が選んだ事だからな。お前もフレンズになったんだから自由に生きろよ。オオカミは自由の象徴だろ。」
そう言ってくれた彼は、その後二度と笑顔を見せてくれることはなかった…
そして私はポリスへ向かうと決めた。自分を知る為に。…逃げ出したかったのかもしれない。本当は。
両親を、仲間を失った悲しみから。心を焦がす憎しみから。やり場の無い激しい怒りから。誰でもない無力な自分に対する。
「“この世界は素晴らしい。戦う価値がある。”」
旅立つ私に彼女は言葉を掛けてくれた。
「あたしの言葉じゃない。昔、ある男に教えてもらったんだ。」
そう言うと照れたように笑う。同じようにハンター達も笑顔を浮かべる。
「じゃあな。元気でやれよ!」
「いい男に会えると良いな。ま、俺ほどじゃないけどな。」
「ここが俺達の居場所だ。お前も見つけろよ、自分の居場所を。」
ありがとう、と口に出せなかった。代わりに私はぎこちなく笑ってみせる。短い間だったが共に戦った仲間達に。
どうして言葉で伝えられなかったのだろう?
私はフレンズになった筈なのに。
沢山の人達が言葉を掛けてくれたのに。
かけがえのない人が想いを伝えてくれたのに。
今も仲間の声が聞こえてくる。でも、私には届いてこない。
身体が動かない。立ち上がれない。
怒りと憎しみ。私の胸には常にそれが燻っていた。セルリアンを見るたびに激しく燃え上がった。今だって奴らが憎い。その筈なのに…
「どうした!オオカミ!戦え!」
「立ち上がって!オオカミ!」
「…出来ない。もう、私は戦えないよ。」
膝が小刻みに震えて力が入らない。頭の芯が痺れるような感覚。息が苦しい。呼吸がうまく出来ない。
もうずっと昔に感じる。さっきまで傍に居たのに。息をして、私を見て、触れあった、その温もりが。
震える手でそっと彼の胸に触れる。途切れそうな鼓動が伝わってくる。
「お願い。目を開けて。智也…!」
ヒトとフレンズが共に生きる街ジャパリポリス
無数の出会いと別れが交錯し
数多の笑顔と涙が生まれるこの街で
人々は生きていく未来へと繋がる今日を
ハイイログマが得物を振り下ろし、イノシシが得物を振り上げる。重く鈍い音が響く。二人の食いしばった口から唸り声がもれる。
一つの影がハイイログマを目掛けて滑空する。空中に紅い輝線が描かれる。ハイイログマが得物を振り下ろす。その背をハヤブサの爪が…
引き裂く寸前でもう一つの影がハヤブサにぶつかる。両者はそのまま地面を転がる。イノシシの身体が砕け散った。
「離れろ!オセロット!」
振り向いたハイイログマが叫ぶ。ハヤブサを組み伏せたオセロットが身を翻す。ほぼ同時に三本の槍がハヤブサごと地面に突き刺さる。
大きく舌打ちをし、キュウビギツネが尻尾を引き戻す。すかさずハイイログマが駆ける。
「ユケ!」
キュウビギツネの残りの尻尾が身体から離れ、キツネの形に変わるとハイイログマ目掛けて一斉に飛んで行く。
一振りでキツネ達を蹴散らすハイイログマ。だが、その隙を狙ってキュウビギツネが槍状の尻尾を突き出す。ハイイログマの背後から飛び出したオセロットが尻尾を弾いた。
ハイイログマの一撃をすんでのところで躱すキュウビギツネ。悪態をつくとオセロットを睨む。キュウビギツネの尻尾はしかし、横からオセロットに迫っていたハヤブサを叩いてしまう。
「ジャマダ!」
「ジャマヲスルナ!…ガハッ!?」
ハヤブサの胴体をハイイログマの投擲した得物が貫く。
地に墜ちて砕ける様を確かめもせず、低く腰を落としたハイイログマは拳で地面を叩くとキュウビギツネに突進する。振り下ろされた尻尾が土を叩く乾いた音が響く。
鋭く息を吐くと突き出した掌が腹を打ち、キュウビギツネの身体がくの字に曲がる。そのまま衣服を掴むと強引に引き寄せ、担ぎ上げ、投げ落とす。頭から地面に叩き付けられ、キュウビギツネは動きを止める。
高々と片足を上げ、ハイイログマが四股を踏む。その足がキュウビギツネの顔に
アモイトラの肘がカマイタチの顎を打つ。膝をついたカマイタチに蹴りを放とうとした時、両者に大量の木の葉が吹きつけた。アモイトラは身体に付いた木の葉を払い落とし、立ち上がろうとするカマイタチに蹴りを放つ。
…筈だったが、脚を上げた瞬間にバランスを崩して倒れてしまう。困惑するアモイトラを見下ろしてカマイタチが舌舐めずりをする。
「アモイさん!」
振り下ろされた鎌をキンシコウの棒が受け流す。気合いと共に掌底の一撃を見舞うとアモイトラを抱えて跳躍する。キンシコウの身体からは淡い輝きがゆらゆらと立ち昇っている。
「大丈夫ですか!?」
「すまない。身体が、脚が動かない。くそっ!」
「落ち着いて。」
輝きを帯びた指がアモイトラの腿に沈み込む。指が引き抜かれると同時に黒い霧状のサンドスターが噴き出した。
「ありがとう、助かった。」
アモイトラが立ち上がる。それを見たカマイタチが歯ぎしりをする。
「ミナサン、ケンカシチャダメデスヨー。」
「そいつには気を付けろ!ユーカリの葉には触れるな!」
忍び寄るコアラを見たハイイログマが叫ぶ。
「未来達が戦ったフレンズ型セルリアン。どうしてこいつらがここに…、やはり元凶は…!」
ハイイログマの視線の先には巨大な卵が鎮座している。艶やかな緑色の表面が呼吸をするかの様に脈動する。
「タイリクオオカミは…」
戦いの場から離れた場所で横たわる未来智也とそれに縋り付くタイリクオオカミへと視線を移す。
「…駄目か。」
呟くと再び卵を睨み付ける。
カマイタチの矢継ぎ早な攻撃を躱すアモイトラ。逆に手痛い反撃を加えていく。右肘が頬を打つ、左拳が脇腹を突く、叫び声と共に下段の蹴りが脚の付け根を叩く。
舞を踊る様にキンシコウが動き回る。決して速くはない、その流れる体捌きをコアラは捉える事が出来ない。毒の葉の嵐も、そよ風ほども脅威となってはいない。
ハイイログマは得物を握り直すと緑の卵に向かって駆け出す。
「何者か知らんが目覚めはさせん!ここで破壊する!」
得物を振りかぶり雄叫びをあげる。踏み込んだ足が地面に沈み込む。
「何!?しまった!」
ハイイログマの身体が腰まで地面に埋まった。
「くっ、不覚だ!私としたことが…!」
「ハイイログマ!」
ハイイログマの目の前に地面からフレンズが浮かび上がる。
「ヒッカカリマシタネ。」
オセロットが素早く跳び掛かる。地面から現れたフレンズ、ニホンリスが手をかざすと空中に黒いベールが広がりオセロットを包み込む。
「オセロット!」
「ウフフ。サア、アナタモウメチャイマショウネ。ミンナウメチャイマスヨー!」
その時オセロットを包んでいた黒い球体が光を放った。
「エ?」
光の中からオセロットが姿を現す。
「ナンデ?」
「不思議なことが起こりました。オセロットは不思議系にゃんにゃんなので。」
何食わぬ顔で告げるオセロット。その表情が微かに引き締まる。肘を曲げた両腕を左右に振り、同時に両脚をかわるがわる前後に動かし始める。
ダンスの様な軽快なステップを踏みながらニホンリスとの間合いを詰めていく。
「はっ!」
オセロットの身体が回転する。一回、二回、三回。回転する毎に細長い脚が鞭の様にニホンリスを打つ。
「ギャッ!」
前蹴り、横蹴り、側転、回し蹴り、後方宙返り、しゃがみ蹴り。変則的な動きで息つく暇も無くニホンリスを攻め立てる。
「にゃーっ!」
地に両手をつき、逆立ちに近い体勢からの両足蹴りがニホンリスの顎を貫く。
仰向けに倒れたニホンリスの頭部にハイイログマが得物を振り下ろした。
脚を引きずりながらカマイタチは武器を振り回す。横薙ぎの一撃をアモイトラが肘と膝で挟み潰す。悲鳴を上げるカマイタチ。
低く唸り声をあげたアモイトラの膝蹴りがカマイタチの鳩尾に突き刺さる。カマイタチの身体が浮き上がる。アモイトラの飛び後ろ回し蹴りがカマイタチの眉間を打ち貫いた。
「ドウシテ?ドウシテミンナ、ナカヨクデキナインデスカ?」
答える代わりにキンシコウの棒がコアラを打ち据える。キンシコウの掌が眩しい程の輝きを放ち、繰り出された手刀がコアラの腹から背までを貫き通した。
「
タイリクオオカミの方を一瞥すると冷たい口調で告げた。
出来損ない達のコピーを片付けた四人のフレンズは緑の卵と対峙する。それを待っていたかのように卵の表面が波打つ。
「来るぞ!」
身構える四人。その後ろから一つの影が歩み寄る。凛とした佇まいが美しい。
「タイリクオオカミ!?」
「オオカミさん!」
「やれるのか?」
「大丈夫ですか?」
四人の視線を受け、タイリクオオカミは一度俯くと鋭く前を見据える。
「私も戦う。智也の…、支えてくれた皆の為に。私が戦う!」
暗い坑道を私は走り続けた。胸の中に湧き上がってくる不安を抑えながら。それでも駆ける足の運びは乱れなかった。あの時に感じた智也の輝き。上手く言葉に出来ないが、私の中の何かがそれを辿っていた。
急勾配を降った。道幅が広がっていく。天井が高い。…何だ?僅かに足を緩める。地面に何か、残骸のような物が。石の、柱か?地を蹴って跳び越える。
“…稲……此……眠…”
一瞬、そんな文字が目に入った。
視界が開けた。かなり広い空間だ。うっすらと光が、サンドスターか。ゆっくりと左右を見渡す…
心臓が強く脈打った。思わず目をそばめる。心臓の鼓動が早鐘の様だ。足が動かない。見なかった事にしたい。見たくない。信じたくない。…だけど!
「智也ーーっ!!」
崩れ落ちていく。何もかもが。目の前の光景が現実だと思えない。智也の姿が。彼の身体の重みが。彼の名を呼ぶ私の声さえも。
「…ました!」
「タイ…………カミ!」
「……ついて!むやみ…動か……………よ!」
誰かの声が。よく聞こえない。何故こんな所で、雨が降っているんだ?
やめろ!離せ!私から智也をとるな!それは私の…!
「……カミ、オオカミ!…しっかりしろ!タイリクオオカミ!」
霞が晴れるように視界がはっきりする。ハイイログマが見つめていた。両の頬が熱い。二度、三度、深く呼吸する。
「…智也は?」
横たわる彼の胸にキンシコウが手を当てていた。
「傷口は塞げたけど、出血がひどいわ。それにサンドスターも。早く設備のある所で治療しないと…。」
死ぬのか?さっきまであんなに、元気だったのに。
「何かいるぞ!」
「攫われたフレンズ、…ではないみたいですね。」
「セルリアンか。来るぞ!応戦しろ!」
私は智也の元に近寄るとその場に座り込む。身体から力が抜けていく。仲間の声が耳に入る。でもそれだけだ。
「智也…」
震える声で彼の名前を呼ぶ。もう何度目だろう。
(俺は未来智也。)
あの日から幾度となく彼の名を呼んできた。その度に笑顔で応えてくれた。応えてよ。いつもみたいに。
どうしてだ?どうして私はいつも、本当に大事な時に大切な人の傍に居ないんだ。あの時だって…
(今日も行くのかい、絵描きさん。)
(ええ。研究所には後で寄るわ。)
(気を付けてね。ここ最近セルリアンが出やすいみたいよ。)
(平気平気。私、結構強いから。二人のことも守ってあげる。)
(それは頼もしいね。)
他愛のない会話。いつもの日常。父と母の笑顔。…あれが最後だったなんて。思いもしなかった。私が傍に居れば…
(心配性だな。大丈夫、私が君を守ってみせるよ。)
(そうだな、君がいれば安心だ。)
(お、今日は素直じゃないか。)
私が守るって約束したのに。どうして約束を、守れないの。私が、オオカミだから?嘘つき、だからなの?
戻りたい。あの頃に。幸せだった時に…
(幸せな時は繰り返し、再現される。そう永遠に。)
間違っていたのは、私の方だったの?
こんなことなら…
(貴女は?フレンズになって幸せ?)
ならなければよかった。フレンズになんて。
…………………………
…………………………
…………………………
(ありがとう。フレンズになってくれて。)
……っ!
(嬉しいわ。あなたと出会えて。)
どうして…?
(駄目です。言ったはずですよ。逃げられません、逃がしません。貴女はもう独りじゃないんです。)
でも、私は…
(…何もせずに後悔するくらいなら、傷付いて後悔した方がましですよ。)
また逃げるのか、私は。
(俺は決して絆を諦めない。君との絆を。)
智也は私と向き合ってくれたのに。
そっと彼の頬を撫でる。まだ話したいことも、一緒に行きたいところも沢山あるんだ。
「忘れるわ。貴方のことなんて。すぐに忘れて、他の男のものになるから。それが嫌なら…」
彼の手を取る。互いの小指と小指を絡め合わせた。
「死なないで。約束よ。」
私は立ち上がる。不思議と力が入った。誰かが支えてくれたような。
そうだ、ずっと前から沢山の人達が私を支えてくれていたんだ。
「この世界は素晴らしい。」
悪意と理不尽に満ちた世界。それでも…
「戦う価値がある!」
ほんの僅か、少しだけでいい、より多くの善意と、まだ見ぬ希望に溢れる世界。
私は戦う。独りじゃないから。
私は歩く。仲間達のもとへ。もう逃げない。
タイリクオオカミを中心に身構える五人のフレンズ。その眼前で緑の蕾が花開く。綺麗ね。素直にそう思えるわ。
緑の肌に黒い装束。たてがみの間から特徴的な耳が突き出ている。背中には翼。大きな尻尾の先に金の輪。
「それが貴様の正体か!カラセル!」
オオカミが叫ぶ。
「カラセル?…ああ。ワタシ、カコノ。わたし、かりそめの。フフフ。」
暗唱するかの様に呟くと目を細めて笑う。瞳が紅く煌めいた。
「カラセル、セルイナリ。今の私にはそんな記号はもう必要無い。尤も、お前達には個体識別の為の名称が必要だったな。ならば…」
瞬く間も無く二つの影が動いた。
「そう
左手でオオカミの拳を、右手に握った牛の角を模した得物でハイイログマの一撃を、易々と受け止めると涼しい顔で続ける。
「…そうだな。女王。クイーン。新たなるセルリアン。」
オオカミとハイイログマが飛び退る。追撃もせずに悠然と佇んでいる。
「ならばこう呼ぶがいい、クイーンオブニューセルリアン。クオンと。」
「クオンだと!」
「なかなか良いセンスだと思わないか。褒めてくれていいんだぞ、タイリクオオカミ。」
「その声は…。貴様っ…!」
タイリクオオカミの表情が歪み、犬歯が剥き出しになる。
「オオカミ。」
ハイイログマが抑えた声音で呼ぶ。
「分かっている。さっさとこいつを片付けて、…智也と愛し合いたいからな。」
「おー、こんやはおたのしみ、ですね!」
「いや、そこまではちょっと…」
「煮え切らない奴だな。肉食動物だろ!」
「ふふふ、人それぞれですよ。」
やにわに気を緩めるフレンズ達をクオンが鼻で笑う。
「随分と余裕じゃないか?もう勝った気でいるとは。」
「当然だ。我々の勝利は揺るがない。じきにリカオンが後続の部隊を連れて来るからな。最悪、お前を足止め出来ればそれで良い。」
「それは好都合だ。」
クオンは顎をしゃくってみせる。
「そこの死に損ないのお陰で、随分と力を無駄にしてしまったからな。お前達全員のサンドスターで飢えを満たすとしよう。」
「こちらこそ、力が十分ではないのなら好都合だ。…全力で叩き潰す!」
ハイイログマの瞳が強く輝く。四人のフレンズも静かに、弓を引き絞る様に構える。
クオンは変わらず佇んでいる。口角が僅かに吊り上がる。見開いた瞳が冷たくフレンズ達を睥睨する。
「クオン!お前だけは…、お前だけは私がこの手で倒す!」
拳を握り締め、オオカミが
全力の正拳突きを身じろぎひとつせずに受けるクオン。
オオカミが背後に回り込む。ハイイログマが駆ける。その背中からオセロットが飛び出す。オオカミとオセロットが同時に蹴りを放つ。
ハイイログマの一撃をクオンが得物で受け止める。オオカミの拳が脇腹に食い込む。怯む事なくクオンはハイイログマを押し返す。
キンシコウの棒がクオンの足を払う。クオンは揺るがない。オオカミが正面から、アモイトラが背後から、連続攻撃を仕掛ける。
左フック、右フック、左のボディブロー、右のアッパー。
右の肘打ち、左の膝蹴り、二発、三発、右のローキック。
オオカミの左右の眼が輝く。左拳を引きサウスポーに構えると右の拳を下げる。
アモイトラの両眼が煌めく。膝を曲げ両拳を脇腹の辺りで構える。
二人が同時に吠える。耳障りね。
「鬱陶しい!」
クオンが横を向き腕を左右に突き出す。それだけでオオカミとアモイトラは弾き飛ばされる。
甲高い掛け声と共にキンシコウの一撃が脳天に振り下ろされる。クオンは不敵に笑い、尻尾で飛び掛かってきたオセロットを張り飛ばす。
再び耳障りな声。キンシコウが突き出した棒とハイイログマの得物の一振りが空を切る。
翼を広げたクオンが二人を見下ろしていた。
急降下して得物を振り下ろす。受け止めたキンシコウが膝をつく。宙返りしてハイイログマの攻撃を躱すと蹴りで反撃する。その脚をハイイログマが掴んだ。オセロットが背中に組みつく。
跳びつこうとするアモイトラを得物で叩き落とし、オセロットを振りほどく。広げた翼から無数の羽根が針の様にハイイログマに降り注ぐ。
顔を庇ったハイイログマを蹴りつけ反動で飛び上がる。身を翻したクオンのたてがみが切り裂かれた。
「くそっ!」
振り向いてクオンを見上げるタイリクオオカミ。右手から蒼い光が剣の様に伸びている。
「…きさまっ!」
二つの視線がぶつかる。両者が同時に動く。写し身の様に空中で二つの身体が交差した。
蒼い刃がクオンのたてがみを一房散らす。拳がオオカミの腹に突き刺さる。
オオカミの身体が地面に叩き付けられる。クオンがオオカミの首を掴み、地面に押し付けたまま低く飛ぶ。引きずられるオオカミの顔が苦痛に歪む。
片手でオオカミを持ち上げると高く飛び上がり、左右の壁にオオカミを叩き付ける。
「オオカミ!くっ!」
その様子を四人のフレンズは歯噛みしながら見ているしかない。
天井に叩き付けられるオオカミ。クオンが手を離すと、その身体が糸の切れた人形の様に落下する。クオンが両手で振りかぶった得物をオオカミの背中に打ち付ける。
「オオカミーッ!」
アモイトラが走る。地を蹴ると空中でオオカミの身体を受け止めた。
「ぐうぅっ!」
オオカミを抱きかかえて着地する。
「しっかりしろ!未来に抱かれたいんだろ!」
「…もう少し、言い方が、あるだろう。」
二人のやりとりを見下ろし、クオンが大きく舌打ちをすると翼を大きく広げる。
「来るぞっ、避けろ!」
鋭い羽根がフレンズ達に雨の如く降り注ぐ。
「これじゃ手が出せないわ!」
「ずるいぞー!降りて来て戦えー!オセロットが怖いんだろー!」
オオカミがクオンを見上げると不敵に笑ってみせる。
「女王が聞いて呆れるな。とんだ臆病者だ!」
アモイトラも頷いてみせる。
「全くだ!大層なことを言っても所詮はセルリアンか。」
「貴様ら…!」
「どのみちこの程度では我々は倒せん。むしろ時間が稼げて良い。そのまま続けろ!」
ハイイログマは得物を両手で杖の様につくと頭を左右に振ってみせる。
クオンは攻撃をやめて静かに降下する。が、途中で動きを止めるとタイリクオオカミに向かって嘲る様な表情をみせた。
訝しむオオカミがハッとして走りだすとほぼ同時に、クオンも空を切って飛ぶ。
「どうしたオオカミ!」
「…しまった!奴の狙いは…」
オオカミが全力で駆けるその先。
「智也!」
「くそっ!ここからじゃ間に合わない!」
好意を寄せる男を庇うオオカミの背にクオンの哄笑が降りかかる。
「避けろ!オオカミ!」
「逃げて!」
「死ねぇ!」
振り向いたオオカミが拳を地面に打ち付ける。
「ハハッ!無駄だ!」
クオンの得物がオオカミの頭部に打ち下ろされ…
閃光が走った。目障りな光。…でも、綺麗。
天井まで届く程の光の奔流が地面から噴き出した。サンドスターの間欠泉。
「…出来た。」
タイリクオオカミが呟く。
「行くぞ!」
掛け声と共に飛び出すハイイログマ。一呼吸置いて他のフレンズ達も後に続く。
天井に打ち付けられ、頭から落下するクオンは身を捩らせると両脚で着地する。
「グハッ!馬鹿な、何故だ!記憶と違うぞ…」
膝を折って地に手をつく。
「良くやった!オオカミ!流石はダイアが見込んだ弟子だ!」
ハイイログマが得物で打ちかかる。立ち上がって得物で受けるクオン。地鳴りの様な咆哮をあげたハイイログマが得物を振り抜いた。クオンの身体が弾丸の如く壁に撃ち込まれる。洞窟全体が揺れ動いた。
土壁の一部が砕け両膝をついたクオンに土砂が降りかかる。取り落とした得物を掴み、杖にして立ち上がるクオンに三人のフレンズが容赦無く襲い掛かる。
キンシコウの突き出した棒がクオンの鳩尾に入る。素早い突きの嵐を繰り出す。クオンが羽根を飛ばす。棒を風車の様に回転させて全て弾くと、跳躍してクオンの頭を踏みつけ更に跳び上がる。
歯ぎしりするクオンの喉元にアモイトラの飛び蹴りが刺さった。続けてパンチの連打を浴びせる。拳を大きく引いた隙にクオンが得物を突き出す。一瞬速くアモイトラの身体が沈み込む。逆に隙を見せたクオンの顎を拳が打ち抜く。ネコ科動物特有の強靭な脚力を生かしたアッパーカット。高く浮き上がったアモイトラは身体を回転させ、壁を蹴って後方へ着地する。
代わってオセロットが踊る様な動きで連続キックを放つ。軽やかだが鋭い蹴りが途切れること無くクオンを打ち据える。飛び回し蹴りが顎に当たりクオンの手から得物が落ちる。
「続け!タイリクオオカミ!」
「ああ!」
ハイイログマとオオカミが一気に駆ける。クオンは跪いて動かない。力無く顔を上げ、ゆっくりと口を開いた。
心地良い響き。ガラスの表面を爪で引っ掻くような。いい音色ね。フレンズ達にとってはそうでもないようだけど。
おもむろにクオンが立ち上がり、オセロットを蹴り飛ばす。殴りかかるアモイトラの拳を軽くいなすと頬を肘で打つ。よろめいたところに膝蹴りを受けてアモイトラは倒れる。
翼を広げ浮き上がるクオン。跪く四人のフレンズを見下ろす。…四人?
「誰か忘れているんじゃない!?」
キンシコウ!見落としていた。洞窟の壁に、壁を掴んで、いや。…どんな技?掌が壁に張り付いている。
壁を蹴って飛ぶ。棒を投げた。クオンが得物で弾く。組みついた。空中で背中に回り込む。
「奥義!」
両手が光り輝く。
「穿光波!」
両の手刀が肩口、翼の付け根に突き刺さった。
「グガァ!」
表情を歪め苦悶するクオン。両者は組み合ったまま落下していく。落下しながらも、クオンは背中のキンシコウを振りほどこうと執拗に肘打ちを食らわせる。
クオンが地面に激突する。寸前でキンシコウが弾かれた様に離れ、かろうじて受け身を取る。
「グッ!貴様…、よくも…!」
片膝をつきクオンが立ち上がろうとする。その背中の翼が砕けて塵の様に舞い散った。
「これでハエの様に鬱陶しく飛び回れんな!」
声高に告げるハイイログマをクオンが睨みつけた。刺す様な紅い眼光を意に介する風もなく、ハイイログマは大きく両腕を広げてみせる。
「どうした?来ないのか?今になって怖じ気付いた訳でもないだろう?」
ハイイログマの挑発に歯を剥き出すクオンだったが、すぐに口元を歪める。
「ククク、見かけによらず健気だな。自ら囮になるとは。」
クオンの尻尾が細く
「ぐっ、しまっ…!」
高く気合いの叫びを上げてキンシコウが蹴り掛かる。左手で受けると右手の得物で軸足を払う。倒れたキンシコウは突き下ろされた得物を転がって避ける。
「どうした?お仲間がピンチだぞ、来ないのか?」
嘲笑うクオンにハイイログマが歯を剥いて怒りを露わにする。
宙を何かが横切る。クオンが左手で払った。
「ムッ!?」
キンシコウの棒が地面に突き刺さる。一拍遅れてオセロットが両脚で蹴り掛かった。
舌打ちして得物で受け止めるクオン。飛び起きたキンシコウが光る拳でその脇腹を連打する。
「こざかしいッ!」
オセロットを弾き飛ばし、キンシコウに打ちかかる。飛び退いたキンシコウを追おうとしてその足が止まった。
アモイトラが両脚を踏ん張り、絡みついた尻尾を掴み止めている。
雄叫びが耳をつんざく。得物を振りかざしたハイイログマが突進する。
低く鈍い音が響き、ハイイログマの得物が砕けた。直後にクオンの得物が真っ二つに折れる。
「…キサマァッ!」
不敵な笑みを浮かべたハイイログマをクオンは折れた得物で叩き伏せる。
「クオン!!」
ハイイログマの背に得物を突き立てようと振り上げた手が止まる。
タイリクオオカミが蒼く輝く光の刃を手に立っていた。
「クソ!」
オオカミに向かってクオンが得物を投げつける。蒼い刃で斬り払う。オオカミの口元が緩む。
「今だ!石を狙え!オセロット!」
反射的に背後を見るクオン。
「なに!?…しまった!」
戻した視線の先にオオカミの姿はない。
クオンの視線が上に移動する。紅い瞳に蒼い影が映った。
「智也ーー!!」
蒼い狼が虚空を翔ける。
タイリクオオカミとクオンの影が重なる。
「……思った通りだ。君は本当に優しい、いい子だよ。タイリクオオカミ。」
穏やかな声音で、微笑んだ未来智也が右手でタイリクオオカミの頭を撫でる。左手が蒼い刃の柄、オオカミの右腕を払っていた。
オオカミの目が大きく見開かれる。二歩、三歩、後退りする。腹から何かが生えている。
未来智也の笑顔が歪み、嘲笑を浮かべたクオンへと変貌する。その腹から伸びた触手がオオカミに刺さり、小刻みに脈打っていた。
苦痛に顔を歪ませながらオオカミが右手の刃を振り上げる。
「おっと。」
触手を引き抜きクオンが飛び退く。腹を押さえたオオカミの左手の指の間から砂粒の様な輝きが零れ落ちた。膝から
「オオカミ!…クオン!貴様よくも!」
激昂するハイイログマ目掛けてクオンは尻尾を振る。飛んで来たアモイトラを咄嗟に抱きとめる。
「フ、ハハハハ。この土壇場で敵と知っていながら、想いを寄せる男を討つ事が出来ない。その甘さがお前達フレンズの弱さだ。」
投げ掛けられた嘲りの言葉にオオカミはいきり立つ。
「駄目よ!まだ動いちゃ!」
腹部に光る掌をかざしながらキンシコウがオオカミを押し止める。
「感情などという不可解なものに縛られる。ヒトもフレンズも不合理で不完全な存在だ。故に滅びる。我が成り代わる。この星の支配者に!」
舞台俳優の様な大仰な身振りで高らかに笑うクオン。完全に主役気取りね。
「さあ、慄け!ひれ伏せ!その輝きを我に捧げよ!」
クオンは唇を吊り上げてフレンズ達を見下す。その顔が足蹴にされる。
「誰かを好きになることを馬鹿にするな。」
小柄な影がクオンに対峙する。
「オオカミを、未来くんを、ヒトを、みんなを…、馬鹿にするな!」
オセロットが叫ぶ。クオンは蹴られた頬をさすっている。その目が細まると満面の笑みを浮かべた。
「そうかそうか、それは失礼をしたなぁ!」
オセロットの首を掴み吊り上げる。
「さっきからウロチョロと…、ウザいんだよぉ!」
頭から地面に叩き付ける。二度、三度、四度。
「この、このッ!虫ケラがァ!」
「やめろぉ!」
「オセロット!くそぉ!」
飛び掛かろうとするオオカミ達を制止するようにハイイログマが前に出る。
「やめろ、クオン。女王が聞いて呆れる。下衆な本性を現したな。薄汚いセルリアンが。」
「あ?」
動きを止めてクオンはハイイログマに向き直る。オセロットはぐったりとして動かない。まるで壊れた人形のよう。
おもちゃに飽きたように無下にオセロットの身体を放り投げる。ハイイログマが抱きとめる。
「強い子だ。誰よりも勇気がある。」
優しく呟くとクオンに背を向ける。その背中に触手が突き刺さった。
「オオカミ!もう動けるな?アモイトラ!未来を運べ。キンシコウ!オセロットを頼むぞ。」
サンドスターを吸われながら平然と指示を送る。
「総員!すみやかに撤退しろ!」
「ハイイログマ!?」
「何を言っているんだ!」
「無茶です!」
駆け寄ったキンシコウに強引にオセロットを託すと、背中の触手を掴んで捻じ切った。
「クッ!」
クオンが微かに眉をしかめる。
「行け!これは命令だ!」
「そんな命令は…」
「これ以上長引けば、未来は死ぬぞ!」
絶句するオオカミ。アモイトラが未来智也の身体を担ぎ上げる。
「ハッ!大人しく逃すとでも?」
「そう焦るなよ。人の話は最後まで聴くものだ。それとも、小物だから余裕が無いのか?さっきから台詞が三下臭いしな。」
一瞬歯ぎしりしたクオンは鼻を鳴らすと腕組みをして成り行きを見る。
「さあ行け。奴は私が殺す。」
そう告げるハイイログマの呼吸が荒い。
耳を動かしてうすら笑いを浮かべるクオン。
「でも!せめて傷の手当てを!」
「いいから行くんだ!私の理性が、残っているうちに…」
「……っ!ハイイログマさん、貴女は…!」
キンシコウは何かを察したようね。ハイイログマから離れる。
「タイリクオオカミ!ダイアに会ったら伝えてくれ。…約束を守れなくてすまない。」
「それは、自分で…」
「行けぇ!!」
オオカミ達は走り去っていく。ハイイログマはクオンに向かって歩き出す。その足取りが覚束ない。
「そんな様子で大丈夫か?貴様も逃げた方がいいんじゃないのか?随分とサンドスターを失ったようだぞ。」
せせら笑うクオンを前にハイイログマは低く唸り始める。クオンが訝しげな表情を見せる。
「貴様…、ただのフレンズではないな。」
「やはり…、ワタ、私は…、フレンズ…、には…」
突如、絶叫が鳴り響いた。獣じみた叫びが空気を震わせる。地上にまで届きそう。…耳鳴りがする。
ハイイログマの肩が盛り上がった。腕が膨れ上がり、鋭い爪が生える。まるで獣に戻ったようね。
再び咆哮する。理性が感じられない。瞳がギラギラと輝いている。フレンズの眼じゃないわ。
動いた。見かけによらず
慟哭するかのような
私は走る。坑道内の暗闇を。身体が重い。サンドスターを奪われたせいか。それ以上に胸が苦しい。挫折、後悔、敗北感。今にも地面に倒れ込みそうだ。
結局、逃げるのか。私は。仲間を見捨てて。守れないのか。何も。大切な人を。たったひとり、好きな男さえも。
くそっ。みじめだ。涙が出そうになる。ちくしょう。歯を噛み締める。
「……カミ。オオカミ!」
足を止めて振り返る。智也を担いだアモイトラが立ち止まってこちらを見つめる。
「…どうした?」
逡巡するように俯く。が、すぐに顔を上げて私を見る。決意を秘めた眼だ。
「すまない。私はここまでだ。」
智也の身体を地面に横たえる。
「ここならば、ひとまず安全だろう。私は戻る。このまま逃げたくはない。」
引き返そうとするアモイトラをキンシコウが呼び止める。
「アモイトラさん!気持ちは分かりますけど。貴女一人が戻っても…」
「わかってる!分かってるけど…!嫌なんだ!まだ戦えるのに、やれることがあるのに。何もせずに後悔するのは!」
アモイトラが一歩を踏み出す。
「待って!私も行くわ。」
キンシコウが素早くオセロットを下ろす。
「ムキになるな。私ひとりで…」
「勘違いしないで。二人で力を合わせた方が生き残る確率は上がる。今出来る最善の選択よ。」
キンシコウが私を見る。その瞳が静かな強い輝きを湛えている。
「ごめんなさい。うまくいくか分からないけど…。ハイイログマさんを連れて戻って来るから。」
「待ってくれ!だったら私も…」
「貴女は未来さんの傍に居てあげて。」
二人のフレンズは微笑んでみせる。私はその背中を見送ることしか出来ない。
無力だ。私は。なんで、こんなにも弱いんだ。
あの時、躊躇したりしなければ。こんなことには。
私のせいだ。私が非情に徹していれば。
誰一人守れない、優しさなんて…
「優しさなんていらない!」
拳を地面に打ちつける。
「力が欲しい!力さえあれば…!」
「優しさを…、捨てるな…」
顔を上げる。聞き慣れた声。今はこんなにも懐かしい。
「智也!」
駆け寄って顔を覗き込む。開いた眼がうつろだ。
「ひい、ばーちゃんは、言っていた。」
かすれた声。息が苦しそうだ。
「喋らないで!」
彼が手探りで私に触れる。肘、肩、襟元。大きな掌が頰を撫でる。
「誰もが弱い。だから助け合う。優しさ、こそが、本当の強さ。」
冷たい。彼の掌が。
「優しさをなくした、群れは、亡びる。どんな時でも…、思いやる、心を、忘れるな…!」
「分かったから。分かったから!」
涙が溢れて止まらない。
「泣いているのか、オオカミ。」
彼の指先が目元に触れた。涙を拭おうとしてくれている。
「な、泣いて、くれる人が、いるのは…、幸せな、ことだ。でも…」
ゆっくりと智也が笑顔を見せる。
「笑ってくれ。君は…、うつくしい…」
彼の手から力が抜ける。嘘だ!
「無理だよ。私が笑顔でいられたのは…、貴方が傍に居てくれたから…!」
彼の手を握り締める。いや!死なないで!
「お願い。もう、独りにしないで…」
私はまだ貴方に伝えてない!
「あなたが…」
せめて、届いて…
「好きなの!!」
彼にくちづけをする。
離れたくない。
あなたとひとつになりたい。
倒れ伏したハイイログマの頭をクオンが踏みつける。
勝負あったわね。所詮は出来損ないのケモノ。まがりなりにも女王の敵ではなかった。尤も、あの程度の相手に手こずるようでは…。女王の力とやらも、どうやら杞憂だったかしら。
「ハイイログマ!」
「ハイイログマさん!」
アモイトラとキンシコウ。性懲りも無く戻って来たの。全く、フレンズはどうしようもなくお人好しだわ。
結末は見えている。これ以上は観察するまでもない。もうこんな所に留まっている必要は無いわね。
それじゃあね、おバカさん達。今のうちにせいぜい騒いでいなさい。
……………?
何か来る。
タイリクオオカミ?いや、違う。似ているけど、この足音は…
何?この感じ。胸がザワザワする。気になる。気になって仕方がない。
アモイトラが膝をつく。腹を押さえて苦悶する。倒れたキンシコウの手をクオンが踏み
苦しむフレンズ達をクオンが愉悦の表情を浮かべて見下す。
その顔が一瞬で歪む。その身体が錐揉みしながら吹き飛んだ。
見た事のない大柄なフレンズが立っている。フレンズなの?オオカミに似ているけど。でも…
黒い髪。耳が無い?赤いライダースジャケット。黄色いマフラー。白いレザーパンツ。尻尾はある。黒いグローブとブーツ。それにベルト、バックルには狼の
なにより、フレンズは皆ヒトの
大柄なフレンズはハイイログマを抱え起こすとその身体を抱きしめる。
「タイリクオオカミ、なのか?」
「未来さん?」
アモイトラとキンシコウの問い掛けには答えずハイイログマを託す。
「お前達は行け。彼女達を頼むぞ。」
穏やかに告げると振り向きざまに、殴りかかるクオンの顔面を掴んだ。そのままクオンを引きずっていく。クオンは両手で掴んだ腕を外そうともがく。
ハイイログマを抱えたアモイトラとキンシコウの姿が見えなくなった。
ようやくクオンが腕を引き剥がした。いや、大柄なフレンズが自ら手を離したようね。
クオンの頰がピクピクと引きつっている。それでもすぐさま平静を装うのは流石ね。大柄なフレンズの方は余裕というよりも、あからさまに小馬鹿にした態度を取っているわ。
クオンが仕掛ける。刹那に間合いを詰めて鋭くパンチを繰り出す。軽く身体を傾けて躱すと、大柄なフレンズの拳がクオンの腹にめり込む。クオンの上体がつんのめり、呻きながら後退りする。傍目にも無様だわ。
無造作に大柄なフレンズが近寄る。クオンが放った蹴りをしゃがんで躱すと軸足を払う。尻餅をつくクオンの前で高々と足を上げる。重い衝撃音。クオンが地べたを転がって避ける。
立ち上がったクオンのパンチを掌で止める。腕を曲げて肘で頬を打つ。膝蹴りが顎に入る。クオンの膝が笑う。
腕を掴んで横に引く。クオンの身体がくるりと回る。その背中を蹴る。吹き飛んだクオンは地面に両手をつくも、勢いを止められず顔から叩き付けられた。
悠々と大柄なフレンズは歩む。クオンが振り返った。歯を剥き出して怒りの形相で睨む。紅くぎらつく眼光に微塵も怯む気配を見せず、スッと伸びた手が首を掴む。軽々と身体を持ち上げた。一転して、大柄なフレンズが歯を食いしばり厳つい形相を見せる。クオンを頭から地面に叩き付けた。
仰向けのクオンを見下ろすと吐き捨てる。
「どうした?立てよ、虫ケラ。」
青みがかった銀の瞳がゾッとするほど冷たく、美しい。
とても不思議な気持ち。とても大きくて、とても温かい。
それに、ちょっと気恥ずかしい。まさか、こんなことになるなんて。
嬉しいけど。望んでいたのとは違うような…
オオカミ。その気持ちは俺も同じだが、今は戦いに集中しろ。
こいつが終わったら思う存分抱いてやるから。
…君こそこんな時に何を盛っているんだ。全く。これだから
…来るぞ。合わせろ。
ふん、分かっている。
こいつだけは絶対に許さん!
お前だけは絶対に倒す!
クオンが拳を突き出す。遅い。躱して、殴る。
もう一発来た。避けるまでもない。殴り返す。
またか。このまま…。待て!
大きく飛び退く。クオンの右手から赤黒い刃が伸びている。
その技はオオカミの…
かっこいいけど、そのセンスは…
私じゃないぞ。師匠が言ったんだ。仕方ないだろ!
クオンが刃を振るう。
けものプラズムの刃で右手ごと斬り払う。
痛みか、怒りか、唸り声を上げてクオンが睨む。
「キサマ、一体何者だ…!」
「記号に意味は無いんじゃなかったのか?」
皮肉まじりに返してやる。だが、ここだけは奴に倣ってやるとするか。
「俺に名前は無い。そうだな、あえて名乗るとすれば…」
ミライオオカミ、それともタイリクトモヤ?
…もうちょっとましな名前は思い付かないのか。もういい、俺が決める。
「ライカンスロープ!」
幻獣目獣人科人狼属 ライカンスロープ
世界各地にある獣人伝説の一つ。所謂、狼男である。普段は人間と変わらない姿をしているが、満月の夜に狼、あるいは獣人に変身する。
古来、オオカミは害獣として忌み嫌われてきた。童話や寓話等でも狡猾で残忍な獣として描かれている。
一方で、遊牧民族の間では祖神として祀られてもいた。有名なチンギスハーンは自らを蒼き狼の末裔と称していた。
また、古代ローマの建国神話では国祖ロムルスとレムスの兄弟を育てたのは狼とされ、『ジャングルブック』の主人公モーグリの育ての親も狼である。
日本に於いても、オオカミの名は“大神”に由来すると言われ、古代には神獣として崇められていた事がうかがえる。
「俺はヒトでもフレンズでもない。俺たちは…」
それを言い表す言葉は一つしかない。
「パートナーだ!!」
いくぞ、オオカミ。
いくよ、智也。
二人の意志を込めて目の前の敵を見据える。
俺達は大地を蹴って
ライカンスロープ。パートナー。
これは、わざわざ見に来たかいがあったかもね。
力、速さ、技、堅さ、全てにおいて通常のフレンズを凌駕している。無論、女王の力を取り込んだクオンでさえも。
もうしばらく観せて貰おうかしら。その
……圧倒的な強さでライカンスロープは一方的にクオンを叩きのめしている。
成す術が無い、とはこの事ね。むしろよく持ち堪えられていると言うべきかしら。でも、ライカンスロープにはまだ余裕がありそうね。
獲物をいたぶる、実にオオカミらしいわ。
クオンが膝をつく。無防備にライカンスロープが近付く。クオンは悔しまぎれに左拳で地面を叩く。ライカンスロープの足下から大量のサンドスター・ロウが噴き上がった。
まだ奥の手を隠していたのね。元はオオカミの技だけど。
ニヤリと笑うクオン。その表情が凍りつくまで、五秒くらい。
平然と立ちはだかるライカンスロープ。まるで小石でも蹴るようにクオンを蹴り飛ばす。
クオンが口を大きく開く。心地良い旋律、…くっ。何、これ?不快な響き。ライカンスロープが叫んでいる。不協和音が、身体を、心をかき乱す。
…収まったわね。クオンが項垂れる。万策尽きたようね。
何故だろう。ずっと
遠い時代、遙かな場所で…
古い旧い記憶。いまではない。ここではない。
けれど、この
人を名乗る獣と狼と呼ばれる獣は出逢った。
一人と一頭は旅をした。
長い永い時を…
ネコ目イヌ科イヌ属 タイリクオオカミ
現存するイヌ科動物の最大種。北半球のほぼ全域に分布し、高い社会性とコミュニケーション能力を持つ。環境への適性も高く、亜種を含めると最も広大な生息域を持つ動物である。
しかし、その生息域の広さ故に人類と競合し徐々に生息域を奪われていった。人類の発展とそれがもたらした環境の変化の影響を最も受けた種と言える。
或いは、人類が生まれなければこの星は、狼の惑星になっていたのかもしれない。
幾千の昼と幾万の夜が流れた。
砂星の輝きが私達を巡り合わせた。
ヒトとフレンズが共に生きるこの街で。
霊長目ヒト科ヒト属 ヒト
非常に高い知能、環境適応力、社会性、独自の情報伝達手段を持つ動物。最も顕著な特徴として直立二足歩行を可能とする。
この画期的な移動手段を獲得した事によって、人類は地球全土にその生息域を広げた。
文明の進歩によるかつてない繁栄と、その代償とも言える環境破壊は動物達のみならず人類自身にも翳りを落とし始めている。
果たして人類がこの試練を乗り越え、宇宙へと旅立つ日は来るのだろうか。
喜びも悲しみも尽きることはない。
生きていく限り。
それでも、歩いて行こう。
君と一緒に、どこまでも。
この世界が好きだから。
さあ行こう、タイリクオオカミ。決着をつけよう。俺達の旅はまだこんな所で終わりはしないんだ。
うん、行くわ。智也、貴方と一緒に。もっともっと沢山のものを二人で見ていたい。
「クオン、貴様は俺たちを本気で怒らせた。」
ヒトは歯向かう者は悉く滅ぼしてきた。地上で最も残酷なケモノだ。
オオカミは群れの敵には容赦はしない。地上で最も恐ろしいケモノだ。
「俺たちの怒りをその身で思い知れ!」
啖呵を切るライカンスロープの背後の地面が盛り上がった。あれは、触手?
項垂れるクオン。その背から触手が地面に伸びている。この期に及んで、しぶといわね。
触手がライカンスロープ目掛けて勢いよく伸びた。背中に刺さっ…
…!?ライカンスロープが真っ二つに?いや、違う。
未来智也とタイリクオオカミ!
クオンも呆気に取られている。オオカミが手刀で触手を断ち切る。
同時に駆け出した。オオカミが先行する。跳んだ。拳を振り下ろす。
クオンの身体に未来智也のマフラーが巻きつく。
オオカミが右の拳を、未来智也が左の拳を振りかぶって走る。
二つの拳がクオンを打ちのめす。
未来智也とタイリクオオカミが並んで立つ。目を合わせ頷いた。
二つの叫びが一つの言葉を紡ぐ。完璧なハーモニー。
「変身!!」
二つの身体が虹色に輝き一つになる。
ライカンスロープが身を屈める。高く、高く跳ぶ。キックの体勢になる。蹴り足が光り輝く。
「デュアル!シャイニング!キィィィィィック!!」
流星と化したライカンスロープの蹴りがクオンを貫く。砕け散るクオン。飛び散るサンドスターの欠片の中から虹色の輝きが二つ、ヒトとフレンズの形を取る。
タイリクオオカミが突き出した拳を未来智也が掌で受け止める。顔を見合わせて笑みを交わす。固く互いの手を握り合った。
晴れ渡った夜空に
「
「そうだね。なんだか懐かしい。」
並んで歩く二つの影。言葉を交わしながら白い光が照らし出す街路を進む。
「…全く、バビルサの奴め。俺は死にかけたっていうのに。もっと痛い目をみるべきだ。」
「まあまあ…、でも良かったじゃないか。ハイイログマも元通りになるみたいだし。」
河に架かる石造りの橋。その中ほどで足を止める。月光を反射して河面が白く煌めいている。欄干に寄りかかり遠くの灯りを眺めた。
「完璧な者などいない。だから互いに惹かれ合い寄り添って生きていく。」
「それも、ひいばーちゃんが言っていたのかい?」
「いや。俺が言った。」
未来智也はタイリクオオカミと向かい合う。オオカミが顔を上げる。
「月が太陽の光で輝くように、俺には君が必要なんだ。だから俺の傍にいてくれ。君が好きだ、タイリクオオカミ。」
未来智也はオオカミの背に両手をまわす。
「オオカミは一生同じ番いで過ごすのよ。これからもずっと傍にいるわ。智也、私もあなたが好き。」
オオカミが未来智也の首筋に両腕を絡める。
ヒトの男とフレンズの女は互いに見つめ合った。
二人の瞳が閉じる。
未来智也が身を屈める。
タイリクオオカミが背伸びをする。
月明かりの下で二人がひとつに重なる。
ヒトとオオカミのフレンズは手を繋いで夜の帳へと歩み去って行く。
黄金の月が柔らかな光で双つの影を照らしていた。
…私が観てきたのはこれだけよ。
…女王は倒されたか。
所詮は旧時代の遺物。
不完全な存在よ。
それよりも…
ライカンスロープ、と言ったか。
あのような存在が生まれるとはな。
案ずることはない。
立ち塞がるのなら、粉砕!…すれば良いわ。
この星の次代の支配者…
それは、ヒトでもフレンズでもない。
我ら…
次回 『Zoologian』
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