Across the strait ②

「日の出港前十字路……」

 港の程近くにある交差点に至った私は、信号機の上部に取り付けられている潮風で錆び付いた看板を見上げてぼそりと呟いた。

 目の前の通りをずっと目で追っていくと、突き当たりには開放的な海浜公園が整備されており、その奥に広がる茫漠たる水面と、更にその先、水平線と丁度重なる辺りには霞が掛かったおかが見えた。左右に目を転じると、海岸線と並行する形で、地方アーケード程ではないが、それに準ずる規模はありそうな商店街が広がっている様子が見える。こちらは全蓋式でなく、両側の歩道にのみ屋根が掛かっている、言わば雁木造りに近い形になっていた。雁木の下に並ぶ色とりどりの看板。往時は地方アーケードと同じく賑々しい通りだったのだろうが、今や全ての商店は、雁木が落とした暗い陰の中で深い眠りに就いている。

「橋はもうちょっと北の方みたいだね」

 街の一角に設置されていた案内掲示板で現在地を確認していたクロウタドリが、路上で立ち尽くしている私にそう呼び掛けた。

「……ここ、覚えている気がするわ」

「前に来たことあるの?」

「ええ、多分。――きっと、異変の時ね」

 ここから程近い所にある筈のモノレール駅で下車した私は、恐らくここを通り抜けて、地方アーケードの方へと向かったのだろう。当時の自分の行動経路が、今や何となくではあるものの像を結びつつあった。


 私たちは先の十字路を海側へと進み、公園の中へと足を踏み入れる。防風林代わりになっているであろう小規模な並木を超えると、板張りの遊歩道ボードウォークとそこから海側に突き出した幾つかの桟橋が視界に現れた。強く吹き付ける海風に身を震わせた私は、外していたコートの第一ボタンを留める。北側に目をやると、クロウタドリが言った通りに大橋梁がこちら側と遥か遠くに見えるゴコク地方との間を結んでいる様子が見えた。元は綺麗な白色だったであろうそれは、数十年に亘る風化の結果塗装の大部分が剝げ落ち、残った塗料がちぐはぐな斑模様を浮かび上がらせていた。二段構造の橋の下段にはモノレールの軌条が敷設されていることが分かる。海峡を跨ぐその威容からは、かつて本の中で目にしたことのある瀬戸大橋を彷彿とさせた。

 遊歩道の上を暫く北進していくと、モノレールの駅舎が見えてきた。『日の出港臨海公園駅』という駅名標が掲げられたその駅舎は、小高い丘の中腹から突き出す形でこちらを見下ろしている。この辺りは海岸段丘になっており、橋の上へと至るには今いる海浜公園から再び丘を登らなければならないらしい。

 丘上へと直通するエレベーターが駅舎の麓にあったので、淡い期待と共にボタンを押してみるが、悲しいかな、うんともすんとも言ってくれない。肩を落とした私の背後から掛けられる、階段使えばいいじゃん、という無神経な鳥の声。私は一つ溜息を吐くと、振り向いて使い物にならないエレベーターに背を凭せ掛けた。

「あのね、皆あなたみたいに体力が有り余ってるわけじゃないの」

「そうは言ったって、ここでへばってちゃあね。今日中にゴコク地方に着いておきたいんだから」

「じゃあ」私は彼女に提案をする。「少しだけ休憩させて。そうしたらちゃんと上まで登るから」

「どれくらいさ」

「……1時間半、くらい?」

 ――数秒、無言で見つめあった私たち。間も無くして伸ばされた彼女の腕を私は身を捩って躱そうとするが、敢え無く捕まった私は、抵抗も空しくずるずると階段の方へ無理矢理引き摺られていく。

「ちょっ、冗談、冗談だってば」

「ダーメだって、この甘ちゃんがっ」

「30分! いや、20分でも――」

「駄目っ」



***



「おおーっ、なかなか良い眺めだねぇ」

 消えかかったセンターラインの上に仁王立ちになったクロウタドリは、額に片手を当て、遥か遠くまで続く連絡橋の先を一望しつつ感嘆の声を洩らした。橋の袂は本来の丘の地表より高い場所に据えられており、遮るものが無いために強い海風が吹き抜けていた。

「あおちゃんもそんなとこでへばってないで、こっちに来なよ」

 風に黒々としたショートボブを揺らしながらこちらを振り向いた彼女は私にそう呼び掛ける。私はと言うと、ここに上がってくるまでに殆どの体力を使い果たし、息も絶え絶えに欄干に腰を下ろして動けないでいた。

「もうちょっと、待って……」

 私は呼吸を整えながらそう返答した。

「仕方が無いなぁ」彼女はそう言って、私の横の欄干に背を預けた。

 暫く経って、呼吸と鼓動が落ち着いた私は、暇そうに横で足をぶらぶらとさせているクロウタドリをちらと横目で見て、それから視線を周囲へ巡らした。

 橋の袂から橋上にかけては、特に何の影も無い。放棄された車両も無ければ、アニマルガールらやセルリアンらの姿も無かった。強いて言うなら、道の端からひびを伝ってまるで爬行するかのようにセンターラインへと向かっていく雑草があるくらいだ。私たちのちょうど直上には大きな交通看板があって、少し身を傾げて覗いてみると、青色の塗料が剥がれかけたそれの上には「ゴコク地方方面」という文字と、ただ真っ直ぐ橋上方面を指すあまりにも簡潔で簡素な矢印が載っているだけだった。それだけでも逃げ場のない前途を予感させて心に暗雲が渦巻くのだが、とどめにその横に書かれた長大な──それはもう長大な──ゴコク地方までの距離が視界に入った私は、すっかりげっそりとしてしまい、無意識に口の端が下がってしまうのであった。

「お、復活したかい?」

「体だけ、ね」

 私の言葉にクロウタドリは小首を傾げたが、直ぐに、それなら行こうか、と言って立ち上がったので、私も腰を上げた。


 私たちはただひたすらに橋の上を歩いていく。橋の支柱や街灯など至る所で多くの海鳥が羽根を休めており、その喧騒が二人の無言を埋めていた。

 私は時折背後を見遣った。先刻のクロウタドリの耳打ちを聞いてからというもの、自分たちが追われているという事実に胸がざわつく思いがした。今この瞬間も何処かで私たちを狙っているかと思うと、気が気ではない。前にも言ったように、自分は死そのものよりも、その際に訪れるであろう苦痛を何よりも恐れていた。セルリアンに捕食されるというのは、恐らく、決して心地の良いものではないだろうから。


「さっきの話の続きだけど」私は前を歩く彼女に話しかけた。彼女はこちらに顔だけを向ける。

「基本的にセルリアンには知性が無い。けれども、私たちを追ってきているセルリアンは、身を巧妙に隠して機を伺う程の知性を身に付けている例外的な個体である、という認識でいいのよね」

「まあ、そういうことになるね」

「その場合、一つ疑問に思う点があるのだけど」そこで、この会話もともすれば聞かれているのかもしれないという不安が頭を過り、私は声を少し顰めつつ言葉を継いだ。「どうして、直ぐに私たちを襲わずに、敢えて泳がせているのかしら」

 考えてみれば、不思議なことだ。セルリアンのことについてはよく知らないが、プラズムを有していない無力なアニマルガールと、小柄な小鳥のアニマルガールくらい、その気になれば容易く輝きなど奪えてしまうのではないのだろうか。それならば機を伺う必要もないだろう。

「さぁ、流石にそこまでは。十分に肥やしてから食うつもりとか?」

「肥やして?」

「輝きが十分に蓄積されたところで、二人まとめてパクッ、とね」

 うーん、と私は唸る。未だに「輝き」という概念がよく分かっていない私だったが、これまでの彼女の話しぶりから何やら抽象的でポジティブなものを一纏めにしてそう呼んでいるのだと思う。夢や希望、それに思い出――そういったものを指すのだろう。だとすれば、この旅で自分や彼女に蓄積されるであろうそれの総量は、大したものにはならないような気がする。パーク・セントラルへの道のりは長いとは言え、1か月未満で辿り着けることだろう。クロウタドリはどうか分からないが、私がその道中でそういったものを見出せる気がしないし、仮に見出せたとしても、その程度は高が知れている。

「取り敢えず、一旦そのことは頭から離そうぜ。今はエネルギーを脳じゃなくて足に回すんだ」

「あんなこと言われたら気になって仕方ないじゃない」

「だから最初は黙っておいてたんだよ。君、一度何かが頭に引っ掛かると考えずにはいられない性分だろう?」

 そこが良くないんだ、と彼女は手をひらひらと振って見せた。

「考えすぎなんだよ、特に嫌なことをね。この世の中には考えたって仕様がないことだって沢山あるんだから」

「そうは言ったって、危険が迫っているのは事実でしょ」

「そりゃね。でも、いつ襲ってくるか分からないのも事実だろ。連中は気紛れでさ、突然現れたかと思えば猛然と襲ってきて、或いは何もせず去ってゆくことだってある。前も言った通り自然災害みたいなものでさ。行動の習性はある程度確定しているけれど、関わる因子次第で如何様にも動きが変わってしまう。知性を持つ例外的な個体にだって、同じことが言えるんだ」それに、と釈然としない表情を浮かべている私に彼女は続ける。「そもそも、追ってくる脅威に対して今僕たちが出来ることは身構えることくらいだろう。急いで逃げて何処かに身を隠すのも現実的じゃないしさ。あおちゃんはいざという時僕の背後に隠れられる準備さえしておけばいいんだよ」

 だったら今すぐ旅を止めて引き返したら、と言い返そうと思ったが、脳裏に潰れてしまったかつての住処の様子が過り、私は言葉を飲んだ。そう言えば、もう帰るまともな場所も無いんだったか。随分都合のいいタイミングで壊れてくれたものだと、私は不運を忌々しく思った。


 私たちは歩いていく。

 歩いていく――ただひたすらに。

 ずっと変わり映えのしない景色だけが視界を流れていく。この街灯は何本目だろう。何度海鳥が頭上を横切っただろう。アスファルトに無秩序に刻まれたひびを、私は何度跨いだのだろう。徒然なるままに最初はそんなことをぼんやりと考えながら歩いていたが、それにも疲れて今はただ無心に、ひたすら脚を前へと動かすのみ。

 何度か休憩は挟んでいた。こんな長大な橋、パークの営業時においては9割9分の人間が車かモノレールを使って渡っていたのだろうが、今の私たちのような酔狂な歩行者のためにパークが用意してくれたものなのか何なのか、定間隔でベンチが置いてあった。そこで時折休みながら、またゴコク地方へと向かって重い足を踏み出す。もう2時間ほど強烈な海風を浴びながら進んできたはずだが、遠くに見える陸はまだ若干霞んでいる。少なく見積もっても、恐らく道程はまだこれまで進んできた距離と同じくらいありそうである。

「……しりとりでもしよっか?」

 次の休憩地点でクロウタドリがそんなことをのたまったので、私は片手を軽く振り上げた。彼女は面白い程にびくついて、腰の辺りに即座に手を回した。

「もう背中はやめてくれよ」

「だったらそんな馬鹿げた提案はやめて」

「だって、流石に暇じゃないかぁ」

 クロウタドリがそうぶー垂れるのを聞いて、私は肩が上下するほどの深い溜息を吐くと、じゃあ、と対案を挙げた。

「ゴコク地方に着いた後の予定を決めましょう。事前に歩く経路を決めておけば、余計な道草を食うこともないだろうし」

 私は外套の衣嚢ポケットを弄って、ログハウスで手に入れておいたパークのガイドマップを取り出した。仕舞った時には気付かなかったが、表紙には〈北部版〉と記されており、どうやらキョウシュウやゴコク、サンカイ、そしてパーク・セントラルの位置するアント地方などを含めたパーク北部地域のみを掲載しているものらしい。私はガイドマップを拡げて、この橋の先、ゴコク地方の詳細な地図が載った箇所を見る。

「僕としては、特に旅程を決めないぶらり旅をしたかったんだけど」

「それだとパーク・セントラルに着くまでに必要以上の時間がかかるでしょ。ただでさえここに来るまでに、もう3日も費やしているんだから」

 そう言いつつ、まだアーケードを発ってから3日しか経っていないのか、と意外に思う自分も居た。慣れないことが多くありすぎて、体感では1週間以上経過した気がしていたのだ。


 ジャパリパークは、北海道と南西諸島が互いに頭を突き合わせる形で日本列島を無理矢理環状にしたような形をしていて、それぞれのエリアには実際の地方名をもじったような名前が付けられている。先程まで私たちが居た島は、九州地方に似ているからキョウシュウ地方。そして、今向かっている島は、四国地方に似ているからゴコク地方。捻りがないと言えばそれまでだが、まあ、覚えやすいし位置関係も分かりやすいので特に不満はない。

 四国島から佐多岬半島を削ったような形をしたゴコク地方は、本物よろしく中央に山地がある。周囲の平地のうち南北両方に鉄路が通っており、北部は旅客用のモノレール、南部は資材輸送用の貨物線。観光客が目指す地方アーケードは北部の平野に位置しているが、そちらよりも南部の平野を通った方がパーク・セントラルへは早く着けることだろう。

「南の方を通ってサンカイ地方へと向かうのが一番いいと思うわ。この貨物線を辿れば、多分山越えをせずに楽に歩いていけるだろうし」

「モノレールに乗れば北の方が早いんじゃない?」

「いや、動いているわけないでしょ」私は呆れ気味にそう言う。異変から20年も経っているんだぞ。

「そうかな。観光用の施設は定期的にラッキービーストが管理しているようだし、本島側だったらまだ動いているかもよ」

「でも、モノレールが動いている確証は無いわけでしょ。もしもの時無駄足に終わるのは嫌だし、やっぱり南にすべきだと思うわ」

 意見が食い違って、私たちは睨み合う。今度こそは負けてなるものか。クロウタドリの提案に従って得をしたことなど、今まで殆ど無いのだから。

「……分かったよ、南にしよう。モノレールと違って、線路の上を歩いていけるのも楽しいかもしれないし」

 間も無くして、根負けしたクロウタドリが肩を竦めつつそう言った。それを聞いた私は、ほっと胸を撫で下ろす。取り敢えず、また険しい道のりに苦しみ喘ぐ必要は無くなりそうだ。

 ちぇ~、と無念の声を上げつつ前へと歩いていく彼女を尻目に、私はガイドマップを折りたたみ、再びポケットに仕舞い込む。恐らく、残る距離はあと3分の1ほど。私でも余力を残して踏破できそうな距離だ。西に傾きつつある日を視界の端に捉えつつ、気合を入れ直し、再び足を前に踏み出そうとした、その時。


「もぉ~~っ、こっち来ないでってばぁっ!」

「ユメちゃん、一回潜ろうっ!」


 聞こえたのは、二人の少女の声。何やら切羽詰まった雰囲気で、間も無くして聞こえなくなってしまった。振り返ったクロウタドリと目が合う。声の出所は、恐らく橋の下だ。私たちは小走りに橋の欄干へと向かうと、その下、黒々とした海面を覗き込んだ。

 

 

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