05 術者が死ねば、術は消える
「シュナードが臆病だって? とんでもない」
カチエは首を振った。
「彼が一線を退いたのは、仲間と子供を守れなかった負い目があったせいだ。だがあれは仕方がない。彼には逃げた山賊を追う義務があったし、子供を護衛するために仲間を残したのは当然の判断だ。その彼女らが魔物に襲われたのは、予測できない不幸な事故でしかなかった」
「お前」
シュナードは目をしばたたいた。
「何でそんなこと、知って……」
「彼の引退は当時、警備隊でずいぶん惜しまれていた。いまじゃ戦士らもすっかり入れ替わっていて、〈狼爪〉の評判を知る者は少ないけれどね。おかげで」
彼女は肩をすくめた。
「探すこともできなかった」
「あ? 探す? 俺を?」
彼は聞き返したが、カチエは口の端を上げただけだった。
「ふん、三流戦士どもの間で評判だったという訳だ」
少年は意に介さなかった。
「結構。一流だとでもほざくなら見せてみろ。いまの防御は偶然に過ぎなかったと教えてやる」
「俺は何も言ってないぞ」
だが、と彼は足を開いた。
「不思議とな……さっきみたいな絶望感はない。つまり、魔術師と正面切って戦って勝てるはずがないってな気持ちはな。さっきだって死ぬつもりはなかったが、死ぬ前に最後のあがきをしてやろうって思いがあった」
シュナードはいささか矛盾することを言った。
「だがな、ないんだ。いまは。感覚が麻痺しちまったのかもしれん。思いがけないことの連続だしな」
彼は首を振った。
「夢想してるのかもしれん。英雄アストールの剣を手にしたことで英雄になれるとは思わんが、俺が本来持ってるだけの底力くらいは、出せるんじゃないかってな」
ゆっくりと息を整える。
「――レイヴァス。お前さんは生意気で腹の立つガキだが、それでもこれまで、俺は結構楽しかったぜ」
「そうか」
少年は胸の前に両手を持ってくると、拳ひとつ入る分くらい空間を開けた。
「僕は、不愉快だった」
両手の間に、ばちばちと火花が走る。
「そうか」
今度はシュナードが言った。
「そいつは、残念。人間関係ってのは、なかなか巧くいかんもんだな」
「言いたいことは、それだけか?」
魔術師の両掌のなかで、火の玉のような雷光のようなものがどんどん大きく、強くなっていった。
「これで仕舞いだ、シュナード・アルディルム。そしてスフェンディア。せっかくだ、いまの僕に可能な最大の禁術で葬ってやろうじゃないか」
「は、何でもきやがれ」
背筋を冷たいものが流れる。
だが、恐怖はなかった。
「いけません、エレスタン様……っ」
ミラッサがふらふらと立ち上がった。
「わた、私、が」
「おっと」
カチエは新たに取り出した瓶のふたを片手で器用に外してミラッサを牽制した。
「あんたの相手は私だ。魔物と判れば、容赦はしないよ」
「そこをおどき、エレスタン様の邪魔をする者は許さないわ」
ふたりの女の間にもまた、見えない火花が飛び散った。
「おい、あんまりやりすぎんなよ」
シュナードはどちらにともなく言った。
「……女なんだから、な」
その呟きにくっと笑ったのは少年だった。
「アストールと似たようなことを。本当に、最後まで」
笑みが消えた。
「――不愉快だ」
右手がさっと差し上げられる。と、火雷の球は投げ上げられたように上方に浮いた。
それは小さな
魔術師の右手は上げられたまま、左手が奇妙な動きをする。まるであや取りの紐でもすばやく引っ張っているかのように複雑で、だが不思議と美しい動き。
印を切る、と言われる魔術師の動作であることはすぐに思い至った。あれが済めば、どんなものであるかは判らないが、禁じられているとされる魔術が発動する。
(それを待ってる手はないな!)
シュナードは
「出でよ!」
これまで少年から聞いたこともない大きな声が腹の底から発された。
「へっ、それくらいしっかり声が出せるなら、普段から――」
軽口は続けられなかった。
何か黒いものが、まとわりつくように戦士の周囲に発生したからだ。いや、実際にまとわりつかれ、シュナードは足を止めるしかなかった。
「ななっ、何だこりゃ、気味悪ぃ」
それは人の影のようだった。実体をなくした影たちが彼に群がり、彼を同じ影闇に取り込もうとしていた。
(呑まれたら)
(出られない)
そう感じたのは本能だと言ってもいいだろう。彼は必死で影を払おうとしたが、実体のないものを手で引き剥がせるはずもなかった。
(馬鹿な真似を)
そのように嘆息したのは彼の冷静な部分、理性であったか。
それとも、あの奇妙な「感覚」であったか。
(何のためのスフェンディアだ!)
自分自身の言葉なのか、誰かの叱責なのか。
それも判らないまま、彼は剣を振り上げた。影は怯んだようだった。
(スフェンディアを信じろ! 魔術王に打ち勝ち、長すぎるほどの時間を生きてきた剣だ!)
彼は剣で薙ぎ払った。実体がないはずの影は斬り裂かれた。
思わずシュナードは口笛を吹いた。
「やるねえ、伝説の剣さまさまだ」
「ふ、退けたか。ならばこれだ」
少年は動じなかった。
「させるかよ!」
ふたりの間の距離はもうあと数歩だ。もう一度床を蹴れば、今度こそ確実に。
「なっ」
だがそのときには、シュナードは闇のなかにいた。
完全なる黒。たとえ月のない曇天の深夜でも、この闇ほど黒くはないだろう。
自分の息遣いさえ聞こえない。
「死」というのはこれかと、そんなことすら思うような。
(馬鹿野郎! 俺は死んでない!)
(俺は、生きると誓った)
(あの日、子供を守って街道で息絶えた、セリアナのためにも)
(彼女と同じように、最後まで諦めずに戦うと)
自分はどこか違う場所に魔術で飛ばされたのか。
否、そうではない。
彼は変わらず、あの黒曜石様の床を踏みしめている。
(なら)
(レイヴァスは、そこにいる!)
目を凝らしても何も見えない。
しかし彼は目をカッと見開き、ほんの一
踏み込む。
振り上げる。
振り下ろす――全力で。
柄の月長石が光る。
感触が、あった。
何度も何度も、〈狼爪のシュナード〉などと言われた街道警備時代に魔物たちを屠ってきたのと同じ感触が。
あの頃と同じ
はっきりと。
「エレスタン様ぁッ!」
ミラッサの悲鳴。視界が戻る。シュナードは目をしばたたき、袈裟懸けに斬られて倒れ、おびただしい量の血を流しながら身をびくびくとさせる少年に焦点を合わせた。
「おのれ……おのれ、シュナード! よくも!」
憎しみに満ちたミラッサの視線が彼を捉える。
「シュナード!」
カチエが彼とミラッサの間に入って剣をかまえた。
しかし、それは不要だった。
「ぐ……」
ミラッサは苦しげに胸を押さえた。
「けい……契約が、なくな……」
彼女はその一言を言い切ることさえできなかった。
ぱんっと弾けるような音がして、偽の太陽が消えた。ごおごおと燃えていた炎の壁がなくなった。
それと同時に、長い長いときをエレスタンのために生き延びてきた少女――の姿をしたもの――は、断末魔の悲鳴も、恨み言のひとつも遺すことなく、灰と化した。
(術者が死ねば、術は消えると)
(そういう……話だったな)
消えたのだ。少年が施した術は全て。
術者が――死んだから。
(だが……)
シュナードは呆然と混乱の間にいた。
(いったい、何故?)
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