09 魔の宮殿

 洞穴に足を踏み入れると、すっと涼しい空気が彼らを包んだ。少年は手を振って光の球を出し――最初は眩しすぎると感じたが、レイヴァスはその光量をも調整できるようであった――怖れげもなく進んでいく。たとえ恐怖心を隠しているのだとしても、隠せるのなら大したものだと心から思った。

「気をつけろよ」

「判っている」

「前方にばかり気を払うなよ。足下も……おっと」

 と言った傍から少年は石の段差につまずき、戦士は素早くそれを抱えた。

「言わんこっちゃない」

「さ、触るな!」

 レイヴァスは飛びのいた。

「気持ちが悪い!」

「……失敬な」

 彼は顔をしかめた。

「すっ転びたかったのか」

「少し均衡を崩しただけだ、転びやしない」

「へえへえ、そういうことにしときましょ」

 両手を上げてシュナードは言った。

「だが『気持ちが悪い』はないだろう。仮にもお前の護衛に対して」

「気持ち悪いものは仕方がない。不快だ、と言えばいいか? ぞっとする、だとか、肌に粟が立つ、とでも」

「ちっともよくない。それどころか、そこまで言わんでも」

 戦士は嘆息した。

(まだ俺の趣味について疑ってるのか?)

 実に不名誉な疑いだ。クジナの趣味は悪徳とは思われていないが、少年趣味は変質者の括りになるのが、よくある価値観だった。

(何にせよ、町から脱出した夜、ずっと抱えてやってたことは)

(……言わない方がよさそうだな)

「お前な、少しは素直に礼を言えるようになれ」

 代わりにそうとだけぼやく。

「礼を言ってほしいのか」

「何も俺が言ってほしい訳じゃない。判るだろうが」

「人づき合いだの大人の態度だのという訳か」

「そうそう、それだ。少しは判って――」

「必要ない」

「だからなあ」

「そんな話には興味がない」

「へえへえ」

(この辺のへそ曲がりカンドロールは、簡単には治らないだろうな)

(まあ、もし、好きな娘でもできたら、或いは)

(……どうだろうな)

 想像しがたかった。ミラッサを想定してみても、いや、却って偉そうになりそうだなと思った。

「とにかく、慎重に行け。足下にもだ」

「……判っている」

 さすがにこれには「必要ない」はこなかった。レイヴァスなりに素直な反応とでも言うところだ。

「着いた」

「あ?」

 十ティムも歩いただろうか。突然の宣言にシュナードは奇妙な声を発した。

「行き止まりじゃないか」

「ふたつ目の『扉』だ。鍵が要る」

「扉? 鍵?」

「洞穴の入り口と同じことだ。説明させるな」

「あー、はいはい。成程ね」

 魔術で隠されているということならそう言えばいいだけではないか、と思ったがやはり口に出すのは控えた。

「下がっていろ」

「ああ」

 こればかりはレイヴァスに任せるしかない。シュナードは数歩下がった。

「隠されし紋章よ、我が前に現れよ。そして」

 少年はかっと目を見開いた。

「我に従え!」

「うっ」

 強烈な光が一リア現れて、消えた。シュナードは目をぱちぱちとさせて光の影響をなくそうと努力する。

「そいつは……」

 数トーアのあとに見えてきたのは、いままでなかった――見えなかったものだった。

「アルディルムの紋章だ」

 レイヴァスが言う。

 壁にぼんやりと浮かび上がったのは、円のなかで四肢を張る、犬のような獣。確かにどこかの家系に伝わっていそうなしるしだった。

「へえ、英雄の紋章ね」

 シュナードはじろじろとそれを見た。

「そんなもんがあったのか」

「見たことはないか」

「ないねえ」

「この」

 とレイヴァスは懐を叩いた。

「手記にもある」

「へえ」

「だが逆に言えば、手記くらいにしか残されていない、ということか」

 レイヴァスは呟きながら片手をのばし、紋章に触れた。

「つ……っ」

 そして顔を歪め、反射的という様子で手を引っ込める。

「大丈夫か」

 慌ててシュナードは少年の様子を見た。

「ふん、さすがに一筋縄ではいかない」

 次には口の端を上げた。

「面白い、もっとよく見せてもらおうじゃないか。魔術王エレスタンを隠すためだけに作られた特殊な封術とやらを」

 どこか挑戦的に言って――それとも挑戦を受けるかのように、だったろうか――レイヴァスは片手を高々と差し上げた。

「アルディルムの紋章よ、道を開け。我の前に屈せよ!」

 びいん、と声が張られた。この貧弱な少年の身体のどこからこんなに力強い声が出るものかと、シュナードは驚くやら感心するやらだった。

(何も手伝えんからなあ)

(ここは観客だ)

 もしも魔物が突然現れでもすれば彼の出番だが、主役はレイヴァス。手出しはもとより口出しもするべきところではない。どうせ、ろくにできないが。

 少年の口から何やら聞き慣れない言葉が低く発せられる。呪文の類だろう、と門外漢の戦士はただ見守った。

「――よしっ」

 洩れた小さな声には、しかし珍しく感情が込められていた。

「開く……」

 シュナードはぽかんと口を開けてそれを見ていた。

 紋章が薄れて消え失せると同時に、彼らの目の前から岩壁が崩れるように消えた。崩れ落ちたのではない。消えた。

 だがそれは洞穴の入り口で見たことと同じだ。先ほどより近距離ではあるが、戦士に強烈な印象を与えたのはそれではない。

「ここが」

 彼はごくりと生唾を飲み込んだ。

「封印の地……」

 彼らの前には空間が広がっていた。

 いや、空間と言うよりは広間と言うのが相応しかっただろう。そこはもはや洞穴ではなく、立派な一室であった。

 床や壁は黒曜石のように黒く光り輝いている。まるで巨大な結晶をくり抜いたかのようだ。

 それがかなりの奥行きで広がっている。〈暁の湖面〉亭の一階分くらいは余裕でありそうだ。

 レイヴァスの操る光球はその主人の指示に従ってゆっくりと進み、空間を照らす。するとそれは全体に反射して、日中のように室内を明るくした。

「宮殿……って感じだな」

 シュナードは宮殿と呼ばれるような場所に足を踏み入れたことはなく、現実的なそれよりもおとぎ話に出てきそうなものを想像してそう呟いた。

 幻想的、と言うのだろう。

 夢のような、とも言うだろうか。

 壁に等間隔に並ぶ燭台に、レイヴァスが火の術を使って明かりを灯していく。その場はますます神秘的な様相を呈した。

 この場に吟遊詩人でもいたなら、きっと感動のあまり、すぐにでも楽器を奏ではじめるに違いない。この光景は誰もの心を打ったろうが、なかでも音楽や絵画をたしなむ性質を持っていれば涙を流すほどの衝撃を受けるだろう。

「魔術王の眠る、魔の宮殿か」

 果たしてこの少年はどれほど感銘を受けたものか、例によって外見には少しも出さぬままで口の端を上げた。

「夢のないことを言うなよ」

「何が夢だ。ここには」

 とレイヴァスは芝居がかって――というつもりは当人にはないだろうが――手を部屋の中央に差し出した。

「あれがある」

 示されずとも、そこにあることは判っていた。

 それは一幅の絵のように。はたまた彫像のように。

 このがらんとした広間の、それが言うなれば主人であった。

「ふへえ……」

 シュナードは奇妙な声を洩らした。

 彼でも抱えられなさそうな大きく無骨な岩の上に、逆さまのつららのようにごつごつとした、透明な水晶が生えている。

(変な言い方だが)

 彼は思った。

(風格のある、岩だ)

 吟遊詩人や物語師でもあれば、この岩だけでも何か話を作ってしまうのではないだろうかと、そんなことを思った。いや、想像力などろくにないシュナードですら、「こいつは岩の王様だな」などと考えてしまったくらいだ。

 だが、この場の主人は、その封印の岩ですらなかった。

 それはその中心に、真上からまっすぐに突き刺さっている、一本の美しい剣。

「まじで」

 戦士は生唾を飲み込んだ。

「剣に、岩が、刺さってる」

「剣が岩に刺さっている、と言いたいのか?」

 冷静な指摘がきた。ぐ、とシュナードは詰まる。

「ちょっとした言い間違いだ。それくらい驚いたってことがよく伝わっていいだろうが」

 ぶつぶつと彼は言い訳になるようなならないようなことを返し、彼は再びその剣を眺めた。

 見た目には、言うほど派手なものではない。その柄にはひとつ大きな白っぽい石がはめ込まれていたが、ほかに数々の宝玉が散りばめられているようなことはなかった。

 しかし剣を操る者には、業物だとすぐに判るだろう。シュナードもそうだった。

 どんな名匠が鍛えたものか、その刀身は触れただけで切れてしまいそうだ。この剣が作られ、この場に刺し込まれたときから悠久の時間が流れていると言うのに、それはまるで几帳面な誰かが毎日丁寧に磨き込んでいたかのようにぴかぴかだった。

(それじゃ、これが)

 間違いない。

(英雄アストールの剣スフェンディア)

(魔術王エレスタンを討ち滅ぼしたと言う)

 シュナードはレイヴァスやライノンと違い、この昔語りにほとんど興味を持っていなかった。話を聞いても、どうにも現実感が薄かった。ここまでついてきたのは、英雄と魔術王が云々と言うよりも単純に、レイヴァスの身が心配だったからだ。

 少年の身が心配になる理由としては、英雄と魔術王云々が絡んでくる。だが、たとえばそれが、彼が適当な推測でミラッサに言ったように「死んだ富豪の遺産争い」だとか「王の隠し子で、王位継承権のためにほかの王子から狙われている」だとかいうような理由であっても、彼の取った行動はあまり変わらなかっただろう。

 ただの理由。彼にこそ「関係がない」はずの。

 しかしシュナード・イーズはこのとき、自分でも思いもよらなかった感慨に包まれていた。

 子供の頃に聞いただけの、この出来事があるまで思い出しもしなかったような昔話。完全な作り話ではなく、史実に基づいているようだと聞いてはいたが、どうでもいいことのはずだった。

 彼の人生に関わってくることがないはずの。

 だが、それがいま、まごう方なき現実として彼の目の前に存在している。

 胸に何かこみ上げてくるものがあった。

(俺はそんなに感動する性質たちじゃないと思ってたんだが)

(英雄の物語なんてのはやっぱり、男としちゃ揺さぶられるものがあるんかねえ)

 どこか他人事のように考える。

「魅入られる気分だ」

 シュナードは呟いた。

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