第二章
第二章
製鉄所の入り口前にタクシーが一台止まった。まず、例の老人野村先生こと、野村勝彦が先に降り、続いて水穂を抱きかかえたブッチャー、そして運転手に手伝ってもらって、杉三が最後に降りた。
「あ、お帰り!どこに行ってたの?」
恵子さんが急いで玄関に走ってきた。
「いつまでも帰ってこないから、もう、事件でも巻き込まれたのかと思って心配だったのよ!連絡くらいして頂戴!」
「失礼ですが、本心でそう仰っているのでしょうかな?」
急に、野村がそういったため、恵子さんは、
「なに、この人は!」
と反抗的な口調で言った。まるで、自分の気持ちなんてお見通しのように見られた。
「あ、実はですね、、、。」
ブッチャーがいいかけると、
「水穂さんが本局の正面玄関の前で倒れていたのを見つけてくれて、介抱してくれた爺さんだ。名前はえーと、僕はノロと呼んでいる。タクシーの中で本人にも確認とったら気持ちよく承諾してくれたよ。」
と、杉三があっさりと言った。気持ちよく承諾なんて、あり得ない話だし、きっと強引にあだ名をつけたのだろう。それに、もうあだ名をつけてしまったのかと恵子さんは呆れてしまうが、すぐに仲良くなってしまうのは、杉三ならではであったから、そのままにしておいた。そうしなければ、また変な誤解が出てしまうかもしれないからだ。本名を忘れてしまうのも、杉三ならではのことである。
「どうも失礼しました。私、野村勝彦と申します。自宅は東京ですが、時折この富士市に住んでいらっしゃる、天童あさ子先生の、施術を受けるために来訪しております。」
「野村勝彦って、お正月のテレビ番組で見たことあるわ!ちょっと待ってよ!そんな大物が、、、。」
一瞬血の気が引いてしまう恵子さんだった。
「仕方ありません。大物であっても、助けてもらったんだから、お礼はしなくちゃいけませんよ。それに、先生が、水穂さんがどんな生活しているのか見たいと言いますので、連れてきてしまいました。」
「何よ、ブッチャー、こういうときは、男らしく断ればいいのに、そういうところは本当にだめね。また、何かわるいことしているって、言われるのはあたしたちなのよ。とにかく、水穂ちゃん寝かせなくちゃ。」
恵子さんは、そういうが、ブッチャーはできないのだった。そういうところが男の弱さというものかもしれない。男は、上の人の命令に弱いという特徴がある。なので、内心では嫌でも、逆らえずに、連れてきてしまう。
「あたし、知らないわよ。今回は、ブッチャーが責任取ってね。あたしは、非難されても、いつも通りに、何食わぬ顔して仕事を続けるからね。」
女らしく、恵子さんは強気で言った。ブッチャーはさらに小さくなる。
「それにしても、ばかに静かねえ。眠っているのだろうけど、いつもの薬で眠るのなら、ほら、いつも通りに恒例行事がやってくるはずでしょ?これをすると、かわいそうだからやめさせろという人が大半の?」
恵子さんは、突然、水穂がいつもと様子が違うなあということに気が付いて、そう聞くと、
「あ、確かにそうだった。タクシーの中でもすごい静かに眠っていたよな。例の唸るというやつは一回も出てこなかったぜ。」
杉三が、それに答えた。
「そういえばそうだなあ。眠っているのは確かなので、危険性はないと、野村先生が言うもんですから、連れてきてしまいましたが、、、。」
「まあいい、ここにずっといるのも大変なので、中に入ろう。」
ブッチャーの話に、杉三が続けて発言したため、全員中に入った。野村勝彦こと、ノロも、丁寧に草履を脱いで中に入った。
「いったい彼は、どこの部屋で寝起きしていて、どんな生活をしていたのでしょうか?それを確認したくて、来させてもらいました。確認が終わったら帰ります。想像だけでは、気が済まないものですからね。悪いようにはしませんので、お気に召さないでください。」
ノロが来訪した理由をそう述べると、恵子さんは関わりたくないのか、
「あ、わかりました。私は食事の支度がありますので、後のことはこの二人に。」
と、台所へ走って、文字通り逃げて行ってしまった。
「この建物の四畳半の部屋だよ。トドみたいにグランドピアノが寝転がっている、狭苦しい部屋だ。」
恵子さんの代わりに杉三がそう説明すると、
「はあ、音楽学校でもでたのですか?ピアノは洋楽の中でも絶頂ですからな。グランドピアノを持っているということは、生半可な気持ちではなかったということでしょう?」
ちょっと、残念そうにノロが言った。
「なんで?ピアノはまずいのかい?」
「まあそうだねえ。まずいというか今の時代なので仕方ないけど、ちょっと寂しい気もしますねえ。」
全員、寒々しい廊下を歩いた。だんだんにノロの顔は厳しくなった。
「ここです。」
杉三が急いでふすまを開けた。
なるほど。四畳半の狭い部屋で、艶消しのグランドピアノが半分以上を占めていた。その隣には小さな机。そして、横たわるように布団が敷いてあった。ブッチャーが当然のように、布団の上に寝かせ、静かにかけ布団をかけてやった。
「せめて、石油ストーブとか、そういうものが置ければいいのですけれども、なにもないんですね。確かに、ピアノは大きな楽器ですから、これでは置く場所もないじゃありませんか。」
「でも、本人は一度もそれについて文句言ったことはないぞ。」
杉三が、開き直ったように言い返した。
「いつも、この布団で療養しているのですかな?」
「はい。もう布団ないもん。買ってくればいいけど、そこいらの布団じゃ使えないもん。」
「そうですか。生活ぶりはなんとなくわかりました。このような部屋であれば、大体のことはわかりますよ。部屋を見れば、どんな暮らしをしているのか、ある程度類推することはできますよ。日頃から結構、邪険に扱われていたのですね。せめてもう暫く、考慮してやれないでしょうかね。」
「ああ、すみません!俺たち、一生懸命やってるつもりなんです!ただ、本人が頑として、」
ブッチャーがそう言い返したが、ノロの鋭い目で顔を見られて黙ってしまった。どうも、この爺さんは、ほかの人とはまた違う、威厳のある目つきをしており、それのせいで圧倒されてしまうのである。
「俺たち、足りないところは自覚しているつもりですので、もう、批判するだけなら、おかえりになってくれませんか。」
ブッチャーはそう続けるが、
「いえ、目が覚めるのを見届けてから、帰ります。」
と、きっぱりと言われて黙ってしまった。
「次に、今日の事に話を移しましょう。彼はなぜ、富士郵便局に郵便物を出しに行ったんでしょうか。もちろん、彼がもっていた郵便物は、すぐに天童先生が、受付窓口に出しに行きましたが、82円切手は貼られていたものの、実際の請求額は140円のサイズでした。差額は、天童先生に支払ってもらいましたけどね。つまり、彼はわざわざ料金が足りないということを知っていて、無理をして富士郵便局まで歩いて行ったことになります。そのようなことがわかっていたら、強制的に、外へ出させたということになりますよね?」
これで倒れた理由をはっきりと掴むことができた。
「あ、すまん。結局値段が足りなかったのか。それなら、帰り際に差額を出しておくよ。といっても、どのくらいになるのかまるで分らんなあ。僕、計算なんてできないからな。」
杉三がとりあえずの応答をした。威厳のある目でにらまれて、それしか答えはなかったようであった。
「おい、差額はいくらだ?」
「58円だよ、杉ちゃん。」
ブッチャーが口をはさむと
「だそうなので、後で持たせます。」
と、当然のように言われて、つまり、俺が差額を払うのか、払うのは恵子さんでは?と思いながら、ブッチャーはため息をついた。
「ではここで本題に入りましょう。二人とも着物にはかなり慣れているようですから、着物というものは、非常に耐寒性が低いということはお分かりですね。しかしなぜ、薄物の羽織一枚しか着せなかったのですか。ここまで寒い天気なら二重廻しを身に着けるようにとか、注意するべきではありませんかな?ここまで、病状が進んでいるのならなおさらですよ。それとも、あなた方は、彼を相当邪魔な存在とでもみなしていらっしゃるのですかな?」
いつもなら、そんなことはないよ、うるさいなあと、つっけんどんに言ってしまうのだが、今回この威厳のある老人に説教をされると、反抗することはできなかった。ただ、すみません!と言って、手をついて謝罪するしかできないブッチャーであった。
「まあ、ノロがそう指摘するのもしょうがないだろうけどねえ、本人が頑としていうことを聞かないので、僕らも諦めてるんだよ。」
杉三が、ブッチャーの気持ちを代弁していってくれたが、
「しかし、看病人というのは、本人に苦痛を与えないことが一番の使命ですよ。わたくしが子供のころは、この病気の人は、直ちに手厚い看病を受けるのが当たり前でした。なぜなら、確実に最期だとわかってしまうからです。今では、抗生物質の普及のため、すぐに治るとは言われていますが、進行すればこのようになってしまうのですから、そこは忘れてはいけません。本人がその自覚が乏しいのなら、周りが何とかしてやるべきでしょう。いうことを聞かないと言いますが、力づくで止めることもしなければなりませんよ。それは、看病人として当然のことです。」
ノロも、負けじと年寄りらしい主張を始めた。
「諦めてはいけません。最期まで彼に人間らしい生活をさせてやることが一番大切です。それなのに、本人には過酷だと思われる手紙を出しに行かせるだけでなく、防寒もさせない、挙句にはこのようなむさくるしい部屋で療養させている。これでは、苦痛としかいいようがないでしょう。血を吐いて倒れるというだけでも、かなりの苦痛だと思いますよ。お若いお二人は、なかなかこういうことは想像しにくいとは思うんですけど、そこを第一に考えて療養させてやるようにしてください。」
「年よりはすぐそういうこと言うんだからあ。もう古臭いこといわないでくれ。」
杉三がでかい声でそういうと、布団に寝ていた水穂の目が、少し動いた。
「水穂さん、あ、目を覚ますんですかね。」
ブッチャーが急いで水穂の方をむくと、あ、あと声を立てて目が開いた。
「あ、あ、あの、こ、ここは?ここは確か郵便局、、、。」
どうやら、自分がどこにいるのか、はっきり記憶していないようである。
「違いますよ。親切な人が、こっちまで送ってきてくれたんですよ。覚えてないんですか?」
「はい。何とか郵便局の正面玄関まではたどり着けましたが、そのあとは急に吐き気がしてあとは何があったか、、、。ただ覚えていたのは、咳き込んでいた時に女の人が頭上を触ってきたんですが、その後は急に力が抜けたようにわからなくなりました。すみません。」
やっと、杉三たちが、製鉄所に連れて帰ってきたということがわかってくれたらしい。つまり、先ほどの天童先生という女の人が、何か手当してくれたのだと思った。ブッチャーは今の発言から、なんとなく何をしてもらったのかを確信した。
「すみませんじゃないですよ。でも、水穂さんが受けたのは、俺の姉ちゃんもやってましたから、別におかしなものではないです。俺の姉ちゃんも、暴れた時に、それで対処してもらいました。急に力が抜けて、わからなくなるってやつ。」
ブッチャーがそう発言すると、
「なんだそれ。所謂シャクティーパット?」
と、杉三が聞いた。
「違うよ杉ちゃん。そんなテロ集団の凶器と一緒にしないでくれ。貯まった悪いエネルギーを、そうやって抜き取る治療があるんだよ。中国の民間療法で。施術する人だって、ちゃんとした国家試験に合格しないとできないんだよ。それに古代からずっとある治療でね、施術してくれた先生も、勘違いがひどいので、その誤解を解くのが本当に大変なんだって。」
「はあ、、、。エネルギーを抜くんかいな。エネルギー自体存在しないと思うがな、こいつ。」
ブッチャーが説明すると、杉三は、水穂を見て、あっけらかんと笑った。
「とにかく、今の今まで浮遊感もなければブラックホールにおちるというような事もなく、本当に眠るということが、できたと思います。ありがとうございました。」
水穂は、礼を言うために、布団におきようと試みたが、寒いですから、横になったままで結構ですよ。と、ノロは親切に言った。弱いやつには優しいのかなと、杉三が呟く。
「とにかく、こんな寒い中では、間違いなく安心して眠れませんから、部屋を暖かくしてやってもらえないでしょうか。」
ノロはそこが何より心配らしい。今一度お願いした。
「置くところがないよ、石油ストーブはね。布団に火が付いたら困るでしょ。」
杉三がそう皮肉ると、
「だったら、置くところを作らなければなりませんね。この机を動かして、代わりに石油ストーブを置いたらどうでしょう?」
偉い人らしく、ノロはすぐ提案した。
「あー、無理無理。そうしたら机の置き場がない。」
又からかう杉三。
「それでは、もう一枚、布団でもかけてやりましょうかね。本当に、使えそうなストーブは何もないんですよ。他の利用者がみんな持って行ってしまいました。」
ブッチャーは、以前購入してきたかっぱの三平のキャラクター布団をかけてやった。確かに、サイズとしては小さいが、とりあえず、布団としてつかうことは可能であった。
「おい、ブッチャーさ、何だか様子がへんだよ。さっきからでかい体でちまちまと。もっとデーンとしてろ。デーンと。」
もじもじしているブッチャーに、杉三がひじで突いた。
「デーン何て、できるもんじゃないよ。こんなすごい先生に。」
「先生って、何か教えているのかよ?」
我慢できなくなったブッチャーは、
「杉ちゃん、野村勝彦といえば、山田流箏曲の中で、一番大きな派閥のリーダーなんだぞ。東京の国立劇場で、何人ものお偉いさんを前に、演奏したりしているんだぞ!」
と言ってしまった。ところが、杉三はというと、、、こうである。
「それがなんだって言うんだよ。偉い人なんてみんな馬鹿なの、お前も知ってる癖に、へりくだる必要も何もない。名前なんて、かっこいい芸名なんかも必要なく、親しみこめてノロと呼びかければそれでいいのだ。」
何を言ってもだめだなあと、ブッチャーは思った。
「しかし、ブッチャーのいう事が事実なら、何のためにこんな辺鄙なところに来たんだよ?」
「だから言ったでしょう。あの天童先生の施術を受けに来てるんですよ。」
「はい、そうですよ。日頃からある、肩こりの解決のため、こうして時たまに来させて貰っているんです。もう、年ですからな。都内には、いろいろサロンがありますけど、施術者が極端に若すぎて、ルーツがわからない治療法を提言しているので、あまり信憑性のあるサロンが少ないのです。」
「あ、なるほどね。確かにそれはいえるなあ。中には、先程のテロ組織に繋がる治療院も少なくないぞ。そういうのは、辺境の方が正確かも知れないなあ。」
「まあそういうことです。それにこちらには、東京駅から、新幹線でさほどかからないので、気軽にこられます。まあ、流石にスマートフォンで座席をどうのという事はできませんので、その場合はいつも駅員に手伝ってもらわないといけませんけどね。」
「そうだねえ。僕も文字が読み書きできないから、座席がどうのというのは、ちょっと苦手だあ。何でもスマートフォンでっていうのは、できないやつもいるからさあ、全部そうなるのは、困るよなあ。」
ブッチャーはやっと二人の共通点が見つけられたことに嬉しくなって、大きなため息をついた。
「杉ちゃん。それじゃあ、意外に近いところで繋がっているもんだな。」
「何が!」
「パソコンとかスマートフォンが使えない事だよ。」
「はじめは使えなくて当たり前だったんだから、それで良いの!」
「結局無視か。」
ブッチャーは、またため息をついた。
「ま、人間だもん、必ずどこかで共通点という物はあるわな。ははははは!」
「全くですな。」
杉三とノロが互いを見あって笑っていられるのに対し、水穂はこれを聞きながら、咳き込んでいるしかできないのであった。その背をブッチャーが心配そうにさすってくれた。
「さて、それでは、今日はとりあえず帰りますかな。」
やっと、ノロがそういう事を言い出してくれたので、やっと安心した顔をしたブッチャーたちであった。
「あ、すみません。今日は、手当てしてくださってありがとうございました。それに、あの天童先生まで巻き込んでしまってすみません。あとでお礼差し上げたいんですが、ご住所か何かお伝え願えますか?」
水穂は、このときは布団に座ることに成功して、申し訳なさそうに座礼した。
「お礼なんかしなくても結構です。貴方は、とにかく体を大切にして、療養する事が一番です。治療者であれば、そういうことはわかっていますから、お礼なんて必要ありません。」
ノロは、静かに水穂の肩を叩いた。
「何だか、爺さんのノロより、水穂さんの方が、肩幅が狭いというか、衣紋を抜いて着を着ている様に見える。この衰弱ぶりを、どう表現したらいいのか。」
杉三は、皮肉というよりも、呆然としてしまった。
「ほんとだ、、、。ほ、本当に可哀相というか、逆に俺たちが情けない。悲しい、、、。なんとしてでも、これからは、ご飯を食べてもらわなければならん。」
ブッチャーもそれをはっきり認めた。
「わかりました!これからは俺たち、もっとしっかり看病するようにしますから!も、もう、無理矢理手紙を出しに行かせるなんていう危ないことは二度とさせません。今回は許してください!」
ブッチャーも、杉三も頭を下げた。こういうことだから、説教されてもおかしくなかった。
「はい、確認のため又来ますよ。暫くは、私もこちらにいますからね。」
と、こたえが返ってきた。一期一会でおしまいにはしたくないという様子だった。
「え、ええー!」
また監視されるのかと、ブッチャーは頭をかいた。
「つまりそれだけ水穂さんも、凄惨だったというこっちゃ。それだけ、気になるんだよ。」
「そうだね杉ちゃん、、、。」
そんなことを言いながら、やっぱりイケメンは得だと、ある意味羨ましいと思ってしまうのであった。
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