第4話 長い黒髪の女 (2)



 炎と共に姿を消した美桜は、

陰泣市で一番高いビルディングの屋上まで一瞬で移動していた。

赤を基調としたその高層マンションは、標高149メートルにも上り、

屋上からは街全体を見下ろすことが出来る。

陰泣市中の景観を見下ろしながら、美桜は感覚を集中させた。


ももかの気配―――美桜の妖力の気配は、

南区のとある瀟洒なレストランの中にあった。

居場所を突き止めるなり、美桜はその身を再び炎に包み、

レストランの中へと瞬間移動する。


たどり着いた先では、白いテーブルに座る年配の男女とももかの姿があった。

その光景は家族の団欒のように見えないこともない。

父と母と年頃の娘。典型的な核家族の団欒だ。


美桜は空いていた窓辺の席に腰を掛け、

"一家"のことを遠くから眺めて、しばらく会話の成り行きを見守っていた。

清潔な黒のスーツに身を包んだウェイター達は、

グラスすらない美桜のテーブルを気にかけることなく素通りしていく。

己の姿が見えなくなるよう、美桜は周囲の人間達に『幻惑』を掛けていた。


『鬼の嗅覚』がももかの両親らしき人物たちのニオイを美桜に伝える。


―――なるほど。大体分かった。

あの女性はももかの母親なのね。ももかに似て、お可愛らしい顔。

だけど、ももかほど『霊力』に恵まれていないおかげで、

彼女のニオイは感じ取ることが出来る。


救われたい。救われたい。

……何かに依存したいという欲望が、常に彼女の中を渦巻いている。


男性のほうは……。


嫌だわ。まさかこの人……。


「ははっ……!

私好みの、浅ましい男ね……!」


その匂いを嗅ぐなり、美桜の口からは乾いた笑い声が漏れ出た。



「赤月……美桜……だと?」

目の前に突然現れた少女の名は、宍色鴇也にとって聞き馴染んだものだった。

なぜならその名前は、

3年前の事件において人形が置かれていた『赤月邸』の持ち主の名前だ。

だが、宍色はそのことを思い出せずに居た。

目の前の少女の名前と3年前の事件を結び付けようとする思考回路にもや

がかかり、彼の頭の中で霧散していく。


―――赤月……美桜……?

聞き覚えのある名前だが、思い出せない……。

どこかで……会ったか……?


美桜を目の当たりにした瞬間から、宍色は疑う力を徐々に失っている。

やがて宍色は、"ももかの友人"を名乗る女のことを、

その言葉通りにしか見れなくなった。


全ては、美桜が世界そのものにかけた『幻惑』のせいなのだ。

『鬼』の力に抗えないものは、赤月美桜の正体を捉えることが出来ない。

そういう概念が、この世界には出来上がってしまっている。


そして二人の男女は、

美桜が目の前に突然現れたことを不自然に思う気持ちすら失った。




「ももか貴女、昨日はこの……彼女さんの家に泊まっていたの?」

「いや彼女ではない、けど……。

そうだよ。美桜ちゃんの家に泊めてもらってた」


「昨日の夜、ももかさんが泊めてほしいと言って私の家に居らしたんです。

突然で、なんだか憔悴しきった様子だったので……。

……失礼な物言いかもしれませんが、てっきり御家族の方と何かあったのかと……」


柔らかな物腰を保ちながら、美桜は二人の大人を真っ直ぐに見据えた。

その瞳には一片の曇りもなく、

持ち主の真っ直ぐな心を映し出しているかのようにみえる。

純粋で、素直で、曲がったことが嫌いなのだろう。

それが、二人が美桜に抱いた印象だった。


―――もちろん全ては、美桜の演技に過ぎない。

本当の彼女は純粋悪で、狡猾で、人を捻じ曲げるのが大好きな女だ。


「ああ、それについては俺が悪いんだよ。この間、この子が妙な事件に巻き込まれたばかりだろう?だから過保護になりすぎて、言い過ぎてしまってな。本当に申し訳なかった」


申し訳なさそうに頭を下げた宍色を見て、美桜は思った。

目の前に居るこの男はどうも、人を騙すことに慣れているらしい。


―――詐欺師としては、67点と言ったところかしら?

大人として場数を踏んできた故か、

その振る舞いにはある種の落ち着きと、誠実さを感じさせる。

誠実な人だと思わせることは、人を騙すための常套手段よ。

私が普段、清楚な女を騙るように、ね?


威圧感を与える風貌とのギャップも相まって、彼の礼儀正しさは強く印象に残る。

その点は高い評価ポイントね。


だけどこの男は、胡散うさん臭さをその身から隠せていない。

刹那に見せる下卑た目つきが、貴方の本性を物語っている。

どれほど自分を偽ろうと、私のようなよこしまな女までは、騙せない。


「こちらの御仁は、ももかのお父様かしら?」

ももかと小梅の顔を交互に見ながら、美桜は不思議そうな表情を作って尋ねた。


「この人はマ……お母さんの、彼氏さんだよ」

隣に座るももかが、小声で美桜に答える。


ももかの言葉を聞いた美桜は、合点がいったとでも言う様に、

目を見開いて微笑んだ。


―――ああ、なるほど。さっき感じた匂い……。

ももかに向けた憎悪と性愛の匂いは、そういうことか。

実の父親が"コレ"だったなら、中々に業の深い関係だったけれども、

違うのね。ちょっと残念。


つまりこの男は、交際相手の娘に欲情しているんだわ。

気が弱くて助けを求められない娘をあわよくば手篭めにしようと企んでいる。

その辺によく居る……クズね。ふふふ。


美桜はにやけそうになる口を押さえ、目の前の二人から顔を背けた。


「美桜ちゃん?どうしたの?」


美桜の隣に座っているももかが、心配そうに美桜の顔を覗く。


「いいえ、なんでもないのよ。ただ、ちょっと個人的に楽しいことがあって……。

ふふ、ふふぁはははははは!!」


「なんなんだ……この子は……。

いきなり笑い出すなんて変わってるな、ももかちゃんのお友達は」


「ご、ごめんなさい。美桜ちゃんはその……ヘンな人なんです。

気にしないでください……」


「ごめんなさい……ごめんなさいね……くふふふ、ははっははは」




 やがて、ウェイターが料理を運んでくる。

料理に手をつけながら、ももかの母と仮初の父は次々に口を開いていった。

友人である美桜が隣に居るのも構わず、"両親"はももかに説教を喰らわせる。


ももかが逮捕されたって聞いて、とっても驚いたのよ?

俺が根回ししなかったら、今頃どうなっていたか。

貴女の気持ちも分かるけど、これ以上心配させないで。

まだ真犯人が見つかっていない。事件に関係してしまった君のことを襲ってくる可能性だってある。

ほとぼりが冷めるまでは、なるべく家に居るようにして。

そうだぞ。みんな君のことを心配しているんだ。

それだけ、君のことを大事に思っているんだよ。小梅さんも……俺も。

 

き み の こ と を だ い じ に お も っ て い る 。

お れ も 。


"両親"の説教を聞きながら、ももかは俯いて膝の上で拳を握っていた。

ももかはワケが分からなかった。

よりにもよって自分を手篭めにしようとした男が、

目の前で大層立派な言葉を口にしていることが。


―――そこまで。

そこまで大事に思ってくれてるなら、

どうして貴方は、私をレイプしようとしたの……?


心に浮かんだ疑念を口にしたくなったが、ももかは必死に抑えた。

宍色に襲われたことは母には内緒。そういう約束のはずだ。

母の前で、その疑念をぶつけるわけには行かない。


どれほど心にモヤモヤが残っていたとしても、

彼の語る優しい言葉をももかは信じたかったし、信じるしかなかった。

もどかしさの全ては、スカートを握り締めることで発散した。


その時、ももかの拳に白い手が添えられる。

顔を上げたももかの瞳に、微笑む美桜の横顔が映った。

―――私が今辛い気持ちになっているのを、美桜ちゃんは察してくれている。


隣で美桜が微笑んでいてくれることが、今はひたすらに心強かった。

大事なお友達が、側に居てくれる。ただそれだけのことなのに。

ひたすらに心強かった。




 ももかの拳に白い手を添え、微笑みかけながら美桜は、

柔和な微笑を保ったまま、心の中で冷酷なバケモノと化していた。


目の前に居る性欲まみれの男をどう穢すか、

その頭脳をフル回転させてハンティングの算段を練っている。

計画を詰めるためにはまず、獲物のリサーチから始めなければならない。


美桜は『嗅覚』を宍色に集中させてその内面を奥深くまで探った。

笑顔のまま、意識を研ぎ澄ませた美桜の脳内に、宍色の心象風景が映し出される。


その憎悪と色欲を育んできた、彼の記憶の数々を。


映像が、見える。

幾本もの酒の空き瓶。ボロい和室の安アパート。

小柄な若い女性。キッチンで鍋を煮込んでいた。

最後に食べた母のシチュー。しょっぱくて食べられたものじゃない。

―――ごく当たり前の幸せが欲しかった。

アンタが居てくれるなら、それが手に入るはずだった。

置いていかないでくれ。俺を、一人ぼっちにしないでくれ。

芳しい孤独の香りと、鼻につく憧憬の臭い。


3LDKのマンション。愛しい女と二人暮らし。

子供が沢山生まれることを夢見て、広めの家に住むことに決めた。

カルテに書かれた診断結果。精子の運動率。

「私は、自分の子供が欲しかったの」

愛しい女は俺を見限り、違う男の子供を産んだ。

―――なぜなんだ?

俺はただ、幸せな家庭を作りたかっただけなのに。

女は何故、俺をいつも置き去りにする?

香ばしい絶望の匂いと、かび臭い祈りの臭い。


夕日の差し込むアパートの中。

漂ってくる、シチューの匂い。家庭的な小柄な女。

一緒だ。俺を置き去りにしていく女達と、こいつは同じ特徴を持っている。


怯える少女。抑えた腕のか細さ。

叩いた頬の柔らかさ。奪った唇の、甘酸っぱさ。

―――その全てが、俺の復讐心を満たしてくれる。

まて、逃げるな。俺を置いていくな!

俺を裏切った罪をあがなえ!!

お前が代わりに、奴らの罪を贖え!!!

逃がさねえぞ!!!!地獄の果てまで追いつめて!!!!!

お前を必ず犯してやる!!!!!!


涎が垂れそうなほど甘美な、憎悪と色欲。孤独と絶望。

思わず鼻を摘みたくなる、幸福への憧憬。祈りと切望。


美桜の顔から微笑みが消えていく。

柔和なお友達の表情はついに立ち消え、冷酷なバケモノが表層にまで現れた。


―――そう……貴方、ももかにキスしたのね。

私のモノに、勝手に手を出した。


美桜の食欲が昂ぶっていく。

憎たらしい相手ほど食い殺したくなるものだ。

―――この男は私を怒らせた。私に『調理』される義務がある。


目は笑わないまま、口角だけを吊り上げる。

人形のような冷たい笑みを浮かべた美桜を見たももかが、

「ひっ」と小さな悲鳴を上げた。



 食事が進む。ワインに酔って出来上がってしまった小梅が、美桜に絡んだ。

運ばれてきたサラダの中の鶏肉をフォークで端によけるので忙しい美桜は、

苛立ち混じりの笑顔で応える。


「あれれ~?美桜ちゃん、鶏肉避けてるけど、苦手なの~?

そんな偏食じゃ、うちのももかは任せられないわね~?きゃはははは!」

「ちょっと!ママ!」

酔っ払いが、バケモノと化した美桜をからかう。

ももかは内心、気が気ではなかった。"今の"美桜に下手に絡めば、

たちまちその身を引き裂かれかねない。


心配するももかをよそに、美桜は意外にも落ち着いた対応を見せる。

フォークを皿の上に伏せ、口角だけを吊り上げて、美桜は小梅に答えた。

……その目は一切、笑ってなどいない。


「食べれないわけではないのですけど、

牛や鳥やブタの肉は、みだりに口にしないようにしてるんです。

そのほうが、いざ最上級のお肉を口にしたとき、より感動できるでしょう?」


そう言いながら美桜は、赤い舌を覗かせて舌なめずりをする。

そして目の前に居る"最上級のお肉ししいろときや"に対して、微笑みかけた。

……目は一切、笑わないまま。

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