三話
由乃と風吹は、奈落の姿を見て目を丸くした。
風吹は、確か店を出た時までは、奈落は何時もの襟無しシャツの上から紺の着流しを着ていたと記憶しているのだが、今の奈落は羽織の中にいつもと違う訪問着を纏っている。黒と紫の中間の様な墨色の生地に、足元に纏わりつく薄墨の雲と龍。蒼い亀甲紋の帯に白い帯締めを締めていた。
普段は祖父の着流しに角帯を締め、モガよりも短いざんぎり髪に黒い中折れ帽で男装風の姿をしているのだが、羽織と帽子はそのままでも中の着物が変わった事で、ぐっと印象が変わったように見えた。
「旦那……なんでお色直ししてるんだ?」
「いや、じい様がな。私もそろそろ店を継いでしばらく経つので、じい様のお下がりばかりではなくきちんとした着物も持てと言い出してな……。それでしばらく前から着物を仕立ててもらっていたんだ。それなら龍の図案が良いと思っていたんだが、ちょうどうちを懇意にして下さっている
「
由乃は思わず素っ頓狂な声を上げた。今日はこれで二回目だ。由乃の声に、奈落の傍に立っていた女性がにこにこと微笑んだ。こちらは、髪を耳隠しに結い上げて有職文様の翠の着物と、白地に墨色の亀甲紋の帯を締めている。表情も物腰も柔らかい女性だが、その雰囲気は洗練されたものを感じた。
「ああ、紹介するよ。こちら、森 晴子さん。いや、成瀬
「ちょっと待ってちょっと待ってお姉ちゃん。どう見ても女性なんだけど?」
由乃は姉に食ってかかった。状況が飲み込めない。そもそも、女性の日本画家など聞いたことがない。
「……そうだが?」
しかし、姉は何がおかしいのかと言わんばかりに、事も無げにそう答えた。
「でも、日本画の世界って女性には物凄く厳しいって聞いたことがあるわ。画材にも物凄くお金がかかるから、女性はその世界に入るのも大変だって」
「そこは、私から説明いたしますわ」
事の経緯を見守っていた
「私、父が画家の成瀬
そう言って
「私! 森
由乃はやや食い気味に
「貴女が奈落さんの妹さんですね。いつもお話は奈落さんから聞いていました。とても素敵な妹さんだと」
「ちょっと……風吹さん聞きました……? あの
「なんだ。由乃お前、
由乃はこともなげにそう言う姉が信じられなかった。そもそも、何故奈落と
「お姉ちゃん! っていうか、何で
「そう言われてもな……」
奈落は困った顔で
「ご存知の通り私はそもそも日本画家なんですけど、日本画の絵具に何を使っているかはご存知です?」
「えっ、絵具……?」
「あー、確か岩絵具ですよね。色の鮮やかな石や貝などを砕いて粉にして顔料に使うと聞いたことがあります」
経過を見守っていた風吹が、そう声をかけた。
「そうです。以前は既に顔料として加工されたものを使っていたんですけど、画風に悩んでいた頃こちらを人づてに紹介されまして。こちらのお店では、鉱石を石の状態で仕入れてお店で砕いてらっしゃるでしょう?」
「あっ、確かに……」
由乃は、店にある一番大きな機械である粉砕機を思い出した。大体の鉱石薬店は、工場で利用しやすい形に砕いたり粉にしたものを仕入れているのだが、この店では石の状態で仕入れてある程度は店内で加工している。その方が薬効が高く、薬の単価も比較的安く提供出来るのだ。祖父の恭助が店主だった頃に導入したもので、今でも極楽堂の屋台骨になっている機械である。
「本来はお薬ですが、お願いすれば好みの細かさに調整して頂けるので、それを使って自分で絵具を作っているのです。ですから、ここ数年はずっとこちらのお店の石を使って絵を描いていたんですよ」
「つまり、
「うそぉ……」
由乃は
「ふふふ。可愛らしい妹さんですね、奈落さん?」
「あー……。あんまり揶揄わんでやってください。まだ女学生なので…」
「そういえば、随分と歳が離れてらっしゃるんですね。奈落さんは確か二五歳ではなかったですか?」
「……」
一瞬、奈落が口ごもったのが分かって、由乃は胸のあたりがずきんと痛んだ。両親の間には姉の奈落と自分しか子どもがいない。女二人姉妹だ。だが、本当は。
「えっ!? 旦那年下だったの!?」
突然声を張り上げたのは風吹だった。
「……どういう事だ?」
「同い年か年上かと思ってた……僕、三十だよ」
再び沈黙が走った。そこにいる全員が風吹に目を向けたもので、風吹はなんだか居心地が悪そうにしていた。
「な……なんだよ……」
「お前、年上だったのか……同い年か年下かと思ってた……」
つまり、姉は年上の医者を使い走りに使っていた事になる。それも驚きだったが、そもそもお互い歳も知らずにつるんでいたとは。
思わず由乃は噴き出してしまった。
「ぷっ……ははは! もう、お姉ちゃんらしいなぁ……!」
笑いながら、内心で由乃は風吹に感謝していた。正直、兄弟の話題はあまり触れられたくはなかった。それは由乃にとって、一番辛い記憶だったからだ。おそらく姉にとってもそうだろう。自分たち姉妹にとって、一番の禁忌となっている話題だった。
「へーへー。どうせ僕は童顔で馬鹿っぽいですよ。旦那、戻ってきたなら早いとこ頼んでた薬頼むよ。僕も暇じゃないんだ」
さっきまで寝椅子でゴロゴロしていた医者の台詞とは思えないが、恐らくは機嫌を損ねたのだろう。寝椅子で足を組み、頬杖をついて頬を膨らませている。
「ああ、そうだった。すまないな……いや、申し訳ありません。風吹先生」
「何それ」
「年上なんだろう? 目上の者には敬意を払わねばな」
奈落はにやにやと意地悪い目を中折れ帽から覗かせて、風吹の方を眺めている。これは、完全に遊んでいる顔だ。
「やめてよ、いまさらこそばゆいッ! さっさと薬だーしーて!」
風吹は少し怒り気味に喚くと、奈落はやはりにやにや笑いながら手をひらひらさせて、カウンターの奥へ戻っていった。
「あれ? そう言えば今日はお店を開かないの?」
ふと由乃は思い出して、奈落に訊ねた。そろそろ女学生が下校する刻で、喫茶業が賑わう時間帯なのだが、店の看板は準備中のままだった。
「ああ、今日はお前が越してくる日だからな。せわしなくしているのもなんだと思って今日は閉店することにした。千代さんにも休みを取らせてある」
「なんだ、そうだったんだ」
道理で、店の中が閑散としていたわけだ。普段ならこの時間には千代がせわしなく準備をしているはずなので、由乃は姉の説明に合点がいった。
「ん? 由乃、茶を淹れたのか?」
カウンターに戻った姉から声をかけられて、由乃は跳ね上がるように思い出した。
「いっけない、そうだった! お姉ちゃん、まだお薬の準備に時間かかるよね? お茶を風吹さんに出そうと思ってたんだけど!」
「あー、そうか。
「あら、私は構いませんよ。どうぞ先に出して差し上げて下さいな」
そう言って穏やかに微笑みながら風吹の横にすわる
「そうですか? すみません、では後でまた淹れますので」
「遅くなってすみません……温くなってしまったかも」
「いやぁ、いいよ。僕熱いの苦手だからどうせ温いのしか飲めないんだ。ありがとうね」
風吹の前のテーブルに鉱石茶を置いて、掛けられた声ににこりと微笑み返す。すると、風吹はしばらく真面目な顔で由乃を見上げていたが、唐突に立ち上がったと思った瞬間由乃は抱き締められてしまった。
「きゃっ……!」
「……おい! こら風吹!」
カウンターの奥から見咎めた姉の大声が聞こえた。由乃は先刻「可愛い」と言われたのを思い出して動悸が跳ね上がった。
「由乃ちゃんかーわーいーいー! 旦那、妹さん僕に頂戴」
「お断りだ! お前も女学生を揶揄うな!」
「ちぇ」
舌打ちをした風吹にようやく解放されたが、由乃はまだ胸がばくばくしていた。今日はなんだか、とても心臓に悪い日だ。
風吹は座り直して、由乃の淹れた鉱石茶を口にした。すでに湯気は立っていなかったが、風吹はそれを美味しそうに飲み込んだ。
「うん、美味しいよ」
そう言って、風吹は由乃に笑いかけた。
正直、風吹も見目が悪い方ではない。彼女の眼鏡の奥の目付きは丸みを帯びて人懐っこく、彫りが深くて印象が強い目をしている。一見するとわからないが、目の下の隈が無ければ美人の部類ではないだろうか。着物に隠れて目立たないが意外と肉付きの良い姉とは対照的に、風吹は青年のように細い体躯をしていて、異性慣れしていない由乃を動揺させるには充分だった。
確かに姉も同性受けは良いのだが、幼い頃から姉妹として育った由乃にはいまいちその魅力はわからない。
そこまで思い至って、由乃はふとあることを思い出した。
「あー……そうだった。お姉ちゃん、お届け物があるのよ」
「なんだ?」
奥から姉の声だけが聞こえてくる。由乃は鞄を手に取って開けると、中から手紙をいくつも掴んで取り出しテーブルの上に並べた。
「……なんじゃこりゃ?」
風吹がその手紙をいくつか手に取って、眺め回す。つられて
「極楽堂鉱石薬店 店主様……あら、これも……全部奈落さん宛てですね。随分可愛らしい便箋……あらやだ恥ずかしい、これ私の絵の便箋でした」
手紙の束を持つ三人の方を、呆気に取られた顔で奈落が見つめていた。
「……は?」
「今日からここに住むことになったって言ったら、もう大変よ。学校中にその話が広がって、お姉ちゃん目当ての生徒から沢山預けられたわ。お姉様に、お姉様にって」
「……私に?」
「お姉ちゃん、学校で有名なのよ。鉱石薬店のお姉様とか、男装の麗しき女主様とか、紫水晶の君とか」
「紫水晶の君……」
風吹が笑いを押し殺した顔でボソリと呟く。
「まぁ……確かに奈落さんは顔立ちが中性的ですし、きらきらした鉱石に囲まれて憂いを帯びた顔をしてる様は、女学生の憧れのお姉様になる要素しかないですね……」
「お姉ちゃんには千代さんっていう可愛らしいお嫁さんがいるから駄目って言ってるんだけど」
「いやあのそれは」
「とにかく本当の妹だし一緒に住むって事で凄い悋気を頂くの。中には『二番目でもいいですから』って言って泣きながら手紙を渡してきた子も居たわ。多分これから毎日よ。一応ちゃんと目を通して頂戴ね、私お返事をって頼まれているんだから」
ぶふぉっと凄い音が聞こえた。風吹が声を殺して笑っていた。
件の姉は、手紙の束を見て途方に暮れた顔で頭を抱えていた。
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