淡水真珠と龍神
一話
「こんにちは、君が由乃ちゃん……だったね」
駅の改札を通り抜けると、そこには白衣を羽織った女性が立っていてこちらに声をかけた。眼鏡をかけて男物の少し草臥れた背広を着てはいるが、体のシルエットから見て女性だろうと由乃は思っている。髪は中途半端に長く、頭の後ろのほうでひとつに括っているだけだった。
この人は見覚えがある。姉の店に時々顔を見せる、自称医者。しかし、頭の上に航空眼鏡のようなものがかかっているのが少々気になる。
「こんにちは。ええと……風吹さん、でしたっけ」
「そうそう。よく覚えてるね」
「……手紙では、姉が迎えに来るという話だったのですが」
「なんだか、急に用事ができちゃったみたいでね。君を迎えに行くように頼まれたんだ。嫌だったかい?」
由乃は風吹と呼んだ彼女の顔を見上げた。祖父の代からではあったが、あの店にはこういう手合いの不思議な人物がよく入り浸っている。とはいえ、これからその店に厄介になる以上無碍にするわけにもいかないし、見かけは変わっているが悪い人ではなさそうだ。
「いえ、それなら仕方ありません。むしろ、ここからなら私一人でも行けるぐらいなので、お手を煩わせて申し訳ないです」
「いや、旦那も妹が心配なんだろう。何せこの辺りも最近は物騒だからね。女学生を一人では歩かせられないよ」
彼女が旦那と呼ぶ由乃の姉は、確かに心配性が過ぎる部分がある。しかし、わざわざ人を遣わすとは。姉ならまだしも、あまり話したことのないこの女性と歩くのは、やや抵抗があったし、なんだか甘やかされているようで気恥ずかしかった。
駅を出ると、向かう先の一角に人だかりが出来ていた。やたら男性が多く、興奮するようなどよめきが聞こえてくる。
「あちゃあ、しまった。やっぱり人目に付くかぁ。ほら、どいてどいて!」
風吹は人をかき分けてその中に入っていくと、人だかりの原因になっていたものに近付いた。
「まあ……!」
そこにあったのは、この辺りではそうそうお目にかかれない自動二輪車だった。大きな自転車のような見た目ではあるが、サドルの下にはモーターが積んであり相当に物々しい。
「君のおじいさんから譲り受けたものだけどね。ハーレーダビットソンの9E、サイレントグレーフェロー。初めて輸入されたモデルだね。後ろも乗れる様にしてもらったんだ」
「……そういえば、じい様が時々乗ってたような……」
「口説き落とすの大変だったよ、爺さんのお気に入りだったからね。結局今は使ってないし、爺さんも歳で運転に自信がない。旦那はこういうのに興味がなかったから、使えるやつが使ったほうがいいだろうってね」
風吹は航空眼鏡を眼鏡の上から装着すると、航空眼鏡をもうひとつ由乃に投げて寄越した。慌てて由乃がそれを受け取ると風吹は9Eに跨って、どう見ても自転車のペダルにしか見えない部分に足を掛け踏み込んだ。仰々しいエンジン音が響き渡り、遠巻きに二人を見守っていた観衆からどよめきが起こった。
「さ、乗って? お嬢さん!」
風吹が気障な台詞を吐いて由乃に手を差し伸べると、観衆から冷やかすような口笛が鳴った。由乃は恥ずかし過ぎて、その場から消えてしまいたかった。
9Eの後ろに跨って、由乃は風吹の腰に手を回していた。ガタガタという振動が結構伝わってきて、正直あまり乗り心地は良くないが、街並みがどんどん後ろに流れていく光景というものはなかなか爽快だと由乃は思った。
しばらくそうして乗っていると、多少は見慣れた街並みに出た。姉の店は元々、祖父が営んでいたものだ。居住も兼ねているので、両親と度々訪れたことがある。姉がその店を継いでからも、よく遊びに行くことはあった。だから、多少は勝手のわかる街ではある。
「いやぁ、しかし女学生を後ろに乗せるってのは華やかでいいなぁ! その制服はあれだよね、
風吹が大声を張り上げた。だいぶエンジン音にかき消されていたが、なんとか聞き取ることが出来た。
「はい、姉と同じ女学校です」
「へえ、あの旦那もこの制服きてたのか!」
「いえ、姉の時はまだ洋装ではなく、袴を着用していたそうですよ」
「マジかぁ、全然想像出来ないなぁ」
由乃の紺色の長いスカートはずっと風に煽られて、由乃はそれを自分の尻と太ももに挟み込んで捲れ上がらない様に押さえつけていた。首元には大きな襟に二本線。それが胸元に繋がって、臙脂色のスカーフが結わえられている。所謂「セーラー服」だ。由乃の長い艶々した黒髪も風にたなびき、相応の若々しい魅力を湛えている。
自宅から通学に利用していた最寄りの鉄道が廃線になったのは、年が明けてすぐだった。別な線と統合されるということだったのだが、由乃が住んでいるところはそれなりの田舎町で、統合により最寄り駅が遠くなってしまった。それならば学校により近い店から通えばいいだろうと提案したのは姉で、春の新学期までの間その準備をしてきて、今日から厄介になることになっていた。
通っているのは
商店街の中に入ってしばらく走ると、見覚えのある看板が目に入ってきた。「極楽堂鉱石薬店」。由乃の姉が店主をしている薬屋だ。風吹の9Eがスピードを緩めて、店の前で止まった。
「あれぇ? まだ準備中の札が下がってら。旦那、まだ戻ってないのかなぁ」
「あっ、私合鍵持ってます」
そう言って由乃は航空眼鏡を外し、9Eから降りた。背負っていた鞄から店の合鍵を出して、引き戸の鍵穴に差し込んで回す。手応えと共にがちゃりと音がした。由乃はそのまま引き戸を開けると、極楽堂の店内に入った。
入ってすぐの部分は「天河茶房」と掲げられた小さな喫茶ラウンヂになっており、いくつかの席が設けられていた。入口近くには大きな寝椅子が置かれ、空席待ちや薬を待つ客が待機できるようになっている。壁側には飾棚があり、薬瓶に入れられた見目の美しい鉱石がいくつも陳列されていた。奥はカウンターになっていて、茶を淹れる為の小さな流しと、沢山の引き出しがついた薬棚がいくつも並んでいる。そこがいつもの姉の定位置なのだが、鍵を開けたばかりの店内は当たり前だが閑散としていた。
「いやぁ、改装したらだいぶ小洒落た雰囲気になったねぇ。恭助さんの頃はもっと雑然としていたけど」
「喫茶事業は女学生や職業婦人の方など、女性のお客様を想定したらしいですからね。足を運びやすいよう、小綺麗にしているようですよ」
薬屋が祖父から姉に代替わりしてから、姉は喫茶事業の展開を始めた。そもそも鉱石の中には宝石として使われるものも多く見目が美しいので、喫茶事業を始める前から女性の冷やかし客が多かった。しかし、その殆どが薬が必要なわけではなく、後ろ髪を引かれるように店を後にする。その女性たちに姉は目を付けたようだった。
鉱石薬。地中から採掘される無機鉱物や、貝・珊瑚・樹液や樹木などが化石化したり結晶化した有機鉱物が、薬として扱われるようになった歴史は長い。鉱石そのものや鉱石薬の技術は元々大陸のほうから伝えられてきたものだが、この国の土着の民間療法と融合して現在の独自の鉱石薬技術が確立している。元々「石の匂い」を感じ取る、所謂「鉱石体質」の人間がこの国にもいて、彼等がシャーマン的役割を担いその民間療法を編み出していたのだが、大陸の方から入ってきた情報によってそれらが体系化されたような形だ。
由乃も多少その体質の傾向はあったが、現在の店主である姉の体質は先代の祖父をも凌ぐほどだった。由乃は姉のように「石を嗅ぎ分ける」ことはできない。かろうじて有機鉱物と無機鉱物ぐらいなら嗅ぎ分けられるのだが、それなら視覚で判断するほうがよっぽど正確だった。
そして、その嗅覚を利用して鉱石薬業界隈で飲まれているのが鉱石茶である。鉱石を湯飲みに入れて湯を注ぐだけの単純なもので、一般人から見ればただの白湯なのだが、鉱石特有の香りを楽しむには一番の方法だ。淹れ方を工夫すれば由乃でも楽しめるほど香りを引き出す事ができる。姉はこれを一般向けするように透明な耐熱硝子のグラスを使って淹れ、工芸茶や花茶など見目の良い茶葉で香りつけし提供していた。それがこの「天河茶房」だ。もともと興味を抱いていた女学生たちに対する間口を作ったことで、下校の時間帯になると天河茶房はとても繁盛していた。
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