第3話

何処をどう歩いたのだろう。


あたりはすっかり日が落ちて、街灯と提灯の灯りが其処此処に点り始めていた。気付くと奈落は、以前風吹と飲んだカフェーに来ていた。ただぼんやりと看板の前に佇む奈落は、着物は薄汚れ着崩れており、顔は涙でグシャグシャになって酷い格好だった。カフェーに入る客が奈落を見る度に、ギョッとした顔をしてそそくさとドアの中へ消えていった。


やがて、窓の奥で給仕をしていた利一が奈落を見つけて、やや驚いたような表情を見せた。その後、一度奥に入っていったが、しばらくしてドアを開けて奈落の元に駆け寄ってきた。手には濡らした手拭いを持っていた。


「奈落さん!どうしたんですかこんな格好で…こんなところに来て…」


奈落は虚ろな目で利一を見上げると、またぽろりと涙を零した。一度泣き始めると、またとめどなく涙が溢れ出す。


「私は…お前の言う通りだ。ただ気を引くためだけに、浮ついた男の様な真似を…」


利一は手にしていた手拭いを奈落の顔に押し付けると、奈落の背に手を回して店の中に招き入れた。


「とにかくそれで顔を拭きながら、涙を隠していて下さい。少し落ち着きましょう。ね?」


利一は空いている椅子に奈落を座らせると、奥に行って酒を作っている男に声をかけた。


「タカさん、奥の部屋使ってもいい?」


「おっ、なんだおいちちゃん。それが前言ってたおいちちゃんのいい人か?」


「うふふ、まぁね」


「椿の間が空いてるな。そこなら使っていいぞ。ごゆっくり」


タカさんと呼ばれた男は利一に目配せして、また手元に目線を戻した。大体カフェーの奥の部屋は、女給と客の逢い引きに使われる。利一はその暗黙の了解を利用したようだ。


利一に支えられて、カフェーの奥に入る。店内の喧騒が遠くなり、薄暗い廊下を進んで利一はその中の一室の扉を開けた。中は畳の部屋になっていて、奥には一式の布団が置いてあった。


「…すみません、生々しい場所で。ひとまず、休むのには丁度いいかと思いまして」


「…いや、大丈夫だ。ありがとう」


利一は奈落を座らせると、履いていた高下駄を脱がせた。見ると、下駄も足袋も土でドロドロになっていた。こんな足元でよく転ばなかったものだと思う。


いつの間に持ってきていたのか、利一は奈落にグラスに入った水を差し出した。


「それを飲んで休んでて下さい。着替えになりそうなものあると思うので、持ってきます。顔、ちゃんと拭いて下さいね。結構酷いですから」


そう言うと、利一はそそくさと部屋を出ていった。部屋に取り残された奈落は、濡れた手拭いで顔全体を覆った。


頭が回らない。つい先刻の事を思い出したくないからだろうか、頭に霞がかかったようになっていた。だが、辛そうに笑う千代の顔だけは頭から離れない。あんな顔だけは、させたくなかった。


奈落は覆っていた手拭いで顔を拭うと、深いため息をついた。そんなつもりじゃなかった、と言えば嘘になる。だが、考えが浅はかだった。千代に被害が及ぶ事を、どうして考えなかったのか。


奈落はひと口グラスの水を喉に流し込むと、そのグラスを横に置いて畳の上に横たわった。さっきからずっと、同じ事を考えている。何故、どうして。考えてもその答えを持っているのは、自分自身なのに。


天井の木目をぼんやり眺めていると、瞼が重くなってきた。そのまま目を閉じると、また一筋涙が流れた。我ながらよくこんなに涙が出るものだと思っているうちに、いつのまにか奈落は意識を手放していた。




「…さん。奈落さん」


利一の声で奈落の意識は浮上してきた。ゆっくりと目を開けると、目の前に誰かがいるようだが、視界がぼやけて判然としない。だが、ごく至近距離から聞こえてくるのは利一の声だったので、恐らくは利一なのだろう。


声をかけようとして、奈落はハッと目を見開いた。目の前にいたのは、見覚えのある利一の姿ではない。短髪に眼鏡をかけ、ストールを身に付けた洋装の青年だった。


「なっ…?」


「ああ、目を覚ましましたか。着替えを持ってきました」


「えっ…?お前…利一…?」


奈落が瞬きしながら呆気に取られていると、利一はふわりと笑ってみせた。


「この格好ですか?店に男物の服も置いていたので、そちらに着替えました。自分の服を貸しますよ、もともと女物ですから奈落さんなら問題なく着れるでしょう」


利一の説明を聞いて奈落の頭が理解する間もなく、利一はそのまま覆い被さって奈落の唇を奪った。奈落はしばらく状況が掴めなかったが、何をされているのかやっと理解したところで思いっきり利一を殴り飛ばした。


「ふぐぉっ…!」


奈落の拳を食らった利一は身動きが取れなくなった。奈落はすぐさま起き上がり、利一の顔を踏みにじった。


「貴様…命が惜しくないと見えるな…」


「ひょ…ひょっろまっれ…」


「待たん。内臓に別れを告げる心の準備は出来たか?」


しかし、利一の頬を踏んでいた奈落の足が突然すくわれた。利一が空いていた手で奈落の足を掴み、引いたのだ。奈落は背中から畳に叩きつけられて、派手な音を立てた。


「ぐはぁっ!」


「いってて…ったくもう…、落ち着いて下さいよ。それ以上のことはしませんて。大体、突然職場に現れた女性の為にここまで便宜を図ったんですから、このぐらいいいじゃないですか」


また床に頭をつけた奈落の目線の先に、利一が持ってきた女物の着物が目に入る。奈落は痛みに耐えつつも、バツの悪そうな顔をした。


「…すまない」


「謝れるだけの正気を取り戻したなら何よりです。まぁ、さっきの憔悴したお顔も正直たまらない…」


利一は軽口をたたきながら、奈落の怒りの目線に気付いて口を閉じた。流石に奈落は何もしなかったが。


「…お前、女装の時と性格が違わないか?」


「状況で口調を使い分けるのは、大なり小なりみんなやってる事ですよね」


「そりゃまぁ、そうだが…」


それで説明できるレベルなのか、これは。と奈落は思ったが、本人にとってはその程度の認識であるのかもしれない。


「まぁ、ひとまずそれを着てください。そしたら、お話し頂けますか?貴女に何があったのか…いや、貴女が何をしたのか、と言うべきでしょうか」


利一の言葉に、奈落はうぐ、と息を飲んだが、目を伏せて観念したように渡された着物を掴んだ。


「…わかった」

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