9話:終息 前編
さかのぼること数分前。
熱波に飲まれた建造物の内部、瓦礫が散乱した一階ロビーに一人の少女が座り込んでいた。
大気に充満していた熱は、いつの間にか消え失せていた。
頭部が炭化した男が起き上がり、凶悪な亜人へ斬りつける――そんな現実離れした光景に衝撃を受けていたせいか、短くない時間、意識が朦朧としていたらしい。
しばしの間、少女は目を閉じた。ぴくぴくとうごめく目蓋の動きを抑え、すぅっと深呼吸。
鉄っぽい血の臭いが、鼻孔の粘膜をしつこく刺激した。
倒れ伏した顔のすぐ横には、嘔吐した胃の内容物が広がり、酸っぱい異臭を放っている。
もう一度、目を開く。
琥珀色の瞳が外界を映したときには、すっかり落ち着いていた。
ことここに至って、錯乱して取り乱すほど柔な精神構造をしてはいない。
鴉の濡れ羽色の髪は
由峻はこの場で何も出来ない。
いや、すべきでないと言うべきか。
ひどく冷静な自分に驚きつつ、さもありなんと納得してもいた。
由峻個人の人生経験ならいざ知らず、実際のここにいる少女は、百年以上生きた強大な亜人の知恵を継承している。
母シルシュがその死の間際――状況から十中八九、暗殺されたのだ――娘に送りつけてきたのは、人格と記憶、そして膨大な量の経験だ。
そんなものを受け取って、今までと同じでいられるほど彼女は成熟しておらず、また、だからこそ必要とされたインプットだった。
彼女は言ってみれば、異形体と対話するため設計された筐体である。どれほど画期的なハードウェアも、ソフトウェアが未完成なら意味はない。
他と隔絶した機能を生かし切るため、最後に必要とされたのが母の情報だっただけの話だ。
一個人の手に余るはずの武力を身に携えながら、私欲や感情に囚われず、人間集団にとって最適な形でその力を振るう。
そんな夢物語のような『
「知っているつもりでも、所詮、他人の記憶ではこんなものですか」
彼女は歳に不相応な知識と技術を持っているが、母シルシュの技能すべてを継承したわけではない。
むしろ積極的に封じ込めようとしている節すらある。
それも当然だ。
シルシュはある種の天才だった。
パラダイムシフトをもたらした過去の科学者たちがそうであったように、独自の世界観と観察眼を持った叡智の怪物である。
その見識と技能を、自身の肉体で再現しようとすれば、そこに最早、導由峻という個人のパーソナリティは残らない。
他者の知識と経験、記憶と感性へ肉体を明け渡してしまえば、顕現するのは死者そのものだ。
おぞましい継承によって、自分自身が薄らいでいく恐怖があった。
ゆえに年若い賢角人は、自身の内奥に眠る天与の才を拒む。
そもそも亜人種は民族性や歴史を持たない、まったくの新種だ。
二一世紀の誕生からこっち、文明社会で生存権を獲得してきた闘争すら、その時代を生きてきたものの個人的記憶に過ぎない。
ましてや生まれながらの働き蟻、と評すべき存在が第二世代の亜人だ。
彼らの特性――属する集団に染まる形質は、イデオロギーに啓蒙されることと同義ではない。
もっと細やかな、生活習慣やそこに根付く規則性――社会規範を学び、そこに同化することこそ、亜人を亜人たらしめる特性だ。
第一世代を社会の解体に特化した異種とすれば、第二世代は社会との同化に特化した異種なのである。
そこにあるべき文化、社会規範を受け継ぎ、自らのものとすること。ある種の民族性やそれに根ざす国家を存続させるとき、オリジナルの人類が九割九分消えても問題ない世界。
それが亜人とともに歩む復興の行き着く先だ。穏やかな
由峻はそのいずれにも属さない個だ。
彼女の肉体は、それ自体が特注品のようなものであり、そこに宿る精神すらその例外ではなかった。
一人の偉人としてシルシュを尊敬することは出来る。
だが、導由峻の母親はどこまでも理解しがたい、巨視的人類愛に殉じた人でなしだった。
そして、それは彼女にとって当たり前の前提だ。
すっと細められた両目が宙を見やる。
「……わたしに何をさせたいのです?」
唇が紡いだ言葉は発声が主目的ではなく、二本の山羊角を通し、近場にいるはずの同種へ疑問を送りつける過程の副産物だ。
賢角人の種族的特性――電磁波の全波長に存在しない人類にとって未知の領域を介した情報通信は、亜人種の脳と脳を繋ぐネットワークを形成、一種の集合意識(ハイヴマインド)と呼ぶべき、自動的な情報処理の仕組みを作り出している。
各々の脳機能の有機的連結、ハイヴ・ネットワークへ接続した瞬間、目当ての賢角人を見つけ出した。
待ち受けていたのか、流石にこちらの意図を読み取るのも早い。
第一世代最古参の一人、イオナ=イノウエは、隣に特殊部隊の隊長がいる状態でぬけぬけと返答して見せた。
――この状況は私が望んだものではない。何、無能と蔑んでくれたまえ。
虚偽の色があった。
見破られるのが前提のような、子供じみた稚気がありありとわかる反応だ。
嘘をつく必要はない、と意思入力。
――言語に準じた対応では、君を納得させられないようだ。申し訳ないが、私と情報共有してくれんかね。
意訳すれば、これから膨大な量の記憶や認識を送信するが、悪性情報ではないので受け取れ、とのこと。
賢角人にとって有益な情報交換の場であるハイヴ・ネットワークも、使いようによってはいくらでも悪用が可能だ。
そういう意味では、他者へ自意識を転写する類の行為は禁忌の中の禁忌。
当然のことながら、それと似た経験を持つ由峻は例外中の例外であった。
彼ら自体、この知覚と認識の共有ありきで設計された種族である。
普通に扱う分には、そうそう起こりえない事態だ。
受諾すると告げた途端、イオナの現状認識と、その前提が速やかに伝わってきた。
あまり好きになれそうにない感覚に、由峻は湿っぽい息を吐いた。
――近くで銃声が聞こえる。
まず、イオナの今現在の思索の反映が始まった。
超人災害対策法は、文明社会と異種の間に横たわる闇の申し子だ。
人類の拠り所、文明社会を守るため作られたはずの仕組みは、その実、人間単体では絶対に成立しない過大な戦力を前提としている。
超人災害の本質は、地震や津波、火山活動や台風のような自然災害と異なり、その発生源は常に人間集団の中に根付いていることにあった。
極論すれば、すべての自然災害から身を守れるシェルターに閉じこもったとしても、いずれ避難した人間自身が災害源と化すのである。
その結果は
一個人が自然災害と同等のリスクと化したことで、救いのない地獄が世界中で生まれた。
負担そのものとなった個人は、誰かの手で間引かねばならない。超人災害を制圧する上で、やむを得ず、基本的人権は無視され続け、それが恒常化したことにより、種族に関わりなく命の価値は暴落していった。
しかし文明崩壊〈ダウンフォール〉の混乱が収まり、ある程度の平和が築かれた地域では、依然、処理の必要性は薄れていないにもかかわらず、この行い自体に疑問符がつくようになったのである。
近代国家が、国民の殺害を是とするなどあってはならない暴挙である、と。
だから国家の外側に、対策を代行する仕組みが必要になった。
その途方もない悪行と暴力の委託先として、人類連合調停局――UHMAという組織は生まれたのだ。
人間の手に余る被害と非道な実務を異種に押しつけ、当事者の人間から戦う手段を剥奪するシステム。
最早、誰が望んだ仕組みなのかは関係ない。
ただそうあるがままに、人類は優秀な猟犬に守られ、悪疫の如き災禍を逃れているのだから。それが異種との共存共栄を掲げる、二二世紀の文明社会の本当の姿だ。
――あれは私の自慢の弟子でね。困難な道のりでも決して挫けない、超常種らしい超常種だ。
その矢面に立つエージェントの一人、由峻を護衛しに来た青年。
北関東で起きた超人災害の現場で、イオナは彼を発見した。
地方都市一つの殲滅が決定され、多くの市民が犠牲になった忌むべき事件。
塚原ヒフミは特別な個体だと、イオナ=イノウエは認識している。何故なら彼は、稀少なカテゴリの超常種だ。
まず特徴的なのは、生殖器の機能に欠陥とも言える周期性があること。
だが、一方で人並みの恋愛感情らしきもの見受けられる。これは他者へ向けた性愛の欠如、という超常種の基本的性質からも逸脱している。
すなわち。
「――ひどいセクハラですね」
由峻は母親似の冷たい美貌に、人を殺しかねない微笑みを浮かべた。
怒りによって感情が声になっていた。
慈悲なき訴訟を起こそう、と由峻が決意するまでコンマ五秒もない。
これを敏感に察知したイオナが、移住先の条件改善を提案し示談に持ち込むまで一秒未満。
この娘の
鉄火場にあっても動じないという点で、二人は間違いなく変人奇人の同類であった。
由峻は我知らず半眼になって瓦礫だらけのロビーを見つめた。外では戦闘による騒音が続いており、まだヒフミが無事なのだと伝えてくれている。
考えてみれば、先ほどの情報も無意味ではない。
あの風変わりな青年が何者なのか、より深く理解できるからだ。
何故、出会って一日も経っていないのに、彼をこうも気に掛けるのかわからぬまま、由峻は続きを促した。
「交換条件は何ですか」
まかりなりにも命を狙われている以上、現実とハイヴ・ネットの並列処理では、現実世界の比重が大きくなる。
いつものくせで声を出して、距離を隔てた場所に居るはずの老人と会話していた。
――交換条件などあるわけがないだろう。君の処遇は、人類連合の管轄になった時点で格段に向上する。以前、完全融合型操縦シェルを提案していただろう? あれが評価されたようだ。我々は皆、何の責任も義務も負っていないものに、それを求めるほど恥知らずではない"
それに、とイオナが笑う。歓喜のニュアンスだ。
よもや山羊の獣頭を歪ませているわけではあるまい。
――元よりそのつもりで差し出した餌だろう? 自由を勝ち取るための取引材料、すぐにでも兵器転用が可能な異種起源テクノロジーの詳細な解説図面。私の手配した教育も無駄になっていないようで何よりだが、あまり他人を試すような真似はしない方がいい。北米や上海の工作員が群がってくることまで予想していたかね。おかげで、水面下では愉快なことになっていたよ。
想定の範囲内だった。
最終的に「軟禁しておくにはリスクが高すぎる」と判断させるに至ったのであれば、由峻にとっての目的は達せられている。
否――これはシルシュの判断プロセスか。
自身の覗かせる冷徹な行動が、生来のものなのか、母の人格情報に由来するのか、彼女自身にも定かではない。
「あなたは一体、どこの誰の紐付きなのかわからない人ですね」
イオナ=イノウエは〈ダウンフォール〉の混沌の中、人類に味方した超人戦力として、日本中を駆けずり回った第一世代亜人種だ。
その来歴を思えば、情報機関や政府筋とパイプの一つや二つがあってもおかしくはない。
だが、由峻の知る限り、この老人が純粋に人間の味方だったことなど一度もなかった。
そういう意味では人類連合、ひいては〈異形体〉の側の人間に思えた。
――長生きの秘訣は秘密の管理だ。そういう意味では、君は昔よりずっとしたたかになっている。覚えているかな。新東京に移される前、この国の城の古い史跡へ抜け出したときがあったろう? サイキックの少年と出会っていたはずだ。
サイキックの男性と過去に出会っていた経験。
そんなものが己にあったかと自問自答するように探り、すぐに該当する記憶に行き着いた。
まだ幼かった日の思い出だ。
導由峻が偉大な母親の意識と混濁する前の、ささやかで忘れられない景色。
〈異形体〉トリニティクラスターが根を下ろした街で、大人たちを出し抜いて、観光地だった史跡を歩き回った日のこと。
偶然、本当に偶然だ。
自分と同じように大人から逃れてきた少年を見つけ、気付けば話し込んでいた。
決して恵まれているとは言い難い、ありふれた異種の不幸に身を浸していた彼に、幼かった由峻は深く同情した。
自身の出生を否定した少年へ向けて、自分が問いかけた言葉。
それに対する、赤面したくなるような少年の返答。
あのとき、きっと自分は心地よかったのだと由峻は思う。
何の下心もないやりとりに、子供らしいよろこびを見出していた。けれど、それだけなら今の今まで引きずったりはしなかった。
問題はその後だ。
自分を連れ戻すため、無人機がやってきたとき――実のところ彼女は既に諦めていた。
だというのに。
彼は迷いなく、見ず知らずの娘を助けるため、死ぬかもしれない道を選んだ。
その姿に由峻は強い衝撃を受けた。
それは見え透いた偽善や、強い同胞愛のもたらす自己犠牲でもなかった。
少年は、自身の生のすべてに期待していなかった。
生まれながらにして精神と肉体が常人と乖離した、異種の行き着く自然体の反応。
どうしようもなく、あの男の子は人間ではなかった。
それでも、誰かが傍にいてあげるべきだったのに。
素直にありがとうと言いたかった。しかしその献身に頼ったら、彼が破滅すると悟ってもいた。
それでは救われないと思ったから、少女は少年の決意を拒んだのである。
揺るぎない
まさか、とイオナの意図を察して息を呑む。
――君はかつて、彼と出会っているのだよ。少々、符号がそろいすぎていてね、今回の組み合わせ自体が私の目的だ。例外中の例外が、同じ時代に揃って生まれたのだ。
――〈異形体〉と超常種の関連性を思えば、これを偶然と放って置くのは論外だとは思わないかね?
意外なほど、衝撃は思ったより少なかった。その代わり、由峻は
果たして自身が囚われの鳥のつもりで過ごした年月が、何者を救ったというのか。
その鬱憤を叩きつけるように問いかけた。
「あの日、わたしの前に現れた少年は、躊躇いなく人間を害そうとしていました。ですがそれは、決して彼自身を幸せにする道ではなかったはずです。イオナ=イノウエ。あなたは、進んで人間狩りをするよう導いたのですね」
気付けば、やりとりのほとんどが、言語を介したものに回帰している。
――返す言葉もないな、
この老人の露悪趣味は苦手だと、強く思う。
由峻の信じる綺麗事と相容れぬ価値観だが、弟子たちが稼いでくれた信頼と時間が何よりも貴重なのだ、とイオナは考えているらしかった。
五年でも一〇年でも構わない。
稼いだ時間で異種の生きる場所を整えればいいのだと。
掴むべき未来のため、他者の命を道具として消費する悪を是とするもの。
イオナ=イノウエは紛れもなく人でなしだった。
だが、そんなことはどうでもいい。
幾ばくかの動揺と憤りに乱れた心を、たった一つの目的に最適化する。
よりにもよって、この自分が――その気になれば戦う力も手に入った導由峻が、二度も同じ人物に犠牲を強いている。
誰よりも何よりも、彼女自身の理性がそれを許せなかった。
ハイヴ・ネットワークへの連結を解いた。イオナがどんな思惑でこの話を持ち出したかなど、最早気にするまでもない。
あの老人は、どう動こうと構わないと思っているだけだ。ならば、由峻のすべきことは一つだけ。逞しい二本の山羊角を誇るように、顔を上げて決意を口にした。
「非力を理由に見過ごす苦痛に比べれば――何者に成り果てるかなど些事に過ぎません」
それは自己犠牲と似て非なる、一種の確信だった。
亜人やサイキックの一部が超人と呼ばれた根本的理由は、自身の肉体、精神の変容すら掌握してみせると言い切る傲慢さにある。
彼女はさしたる切っ掛けも修練もなく、その領域へ踏み込む生来の人外だった。
母の残した索引から、必要な手順を読み取った。それに付随する余計な記憶と感情を遮断し、技術だけを五体へ行き渡らせることに集中する。
〈異形体〉による超物理現象の限定的展開は問題なし。
続けて、停滞フィールドに伴う二次災害の中和方法を引き出す。
澄み切った意思が、琥珀色の瞳を力強く輝かせた。
敵の亜人、アニラが空けた大穴へ向けて歩き出す。
五感による索敵に異常なし。迷いなき跳躍。瓦礫を踏み締め、燃えるようなプラズマの爆炎へと一直線に駆け抜ける。
思ったよりも遠い距離だったが問題ない。今の自分ならば、造作もなく到達できる距離だ。
手が届くはずだと信じた。
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