5話:角ある竜 前編



 狭い室内に、緊張した空気が立ちこめている。

 それもこれも、朝の会話としては重い話題のせいだった。

 自分から振った話題とはいえ、些か予想外の流れであった。

 塚原ヒフミはこれでも良識派を自認するUHMA局員であり、悪趣味に他人の過去を詮索する趣味はない。

 内心、居心地が悪いまま黙考すること二秒。


「穏やかじゃありませんね。中々、複雑な家庭問題って奴ですか」


 軽い口調ながら、彼の目は笑っていない。一体どういうことなのか、ヒフミが問いかけたときだった。

 唐突に、部屋のロックが解除される。二人が思わず目を向けると、重装備の兵士が開いた扉の向こうから顔を覗かせていた。

 昨晩から世話になっている、年かさの男だ。

 この手の戦闘部隊に属する隊員としては、引退寸前の年齢と言っていいだろう。


「隊長がお呼びだ、部屋を出る。荷物を残さないようにしてくれ」


 思い掛けない報せだった。

 喜ぶより先に眉根をひそめる少女を横目に、グレーのコートを小脇に抱えて立ち上がる。

 椅子が床を引く擦過音。ぎきぃ、と甲高い音が立ち、導由峻しるべ・ゆしゅんをせき立てる。

 これ幸いとヒフミは雰囲気を切り替え、いつもの韜晦とうかいした調子に戻る。

 その顔に胡散臭い笑顔を貼り付け、先ほどまでの話などなかったのように振る舞った。


「騎兵隊の到着ですよ」


 前時代的かつ古典的慣用表現――さっぱり意味が分からない、と小首を傾げられる。

 おそらくUHMAのエージェントが、こちらの位置特定に成功したのだろう。

 

 部屋を出て歩かされること数分。

 今度は目隠しされることもなかったし、エレベーターの表記をじっくり観察できた。どうやら、二人が軟禁されていた部屋は地下施設だったらしい。

 エレベーターの中には、先導の兵士一人を合わせても三人しかおらず、脱走するなら好機と言えた。

 尤も解放されつつある現在、そうする意味はほとんど無いのだが。

 上の階層を行く途中、陸戦無人機が警備するエリアを抜ける。二足歩行の恐竜のような機影は、世界で一番多く投入されている機体『ラプトル』シリーズの警備モデルだ。

 かつて、ヒフミが助けようとした少女を連れ去った機体と同じ機種。

 青年の横を歩く亜人の娘は、その姿を興味深そうに眺めている。こうして好奇心に瞳を輝かせる姿を見ていると、先ほどまでよりずっと幼い印象だ。


「こうして実用されているラプトルを見るのは初めてですか?」

「そういうわけではありませんが……結晶細胞を利用したデバイスには、わたしも関わっていますから」


 数少ないヒフミが知る由峻の情報にも、彼女が異種起源テクノロジーの研究に関わっていることは記されていた。

 飛び級で大学の研究室に入る才媛である。

 専門分野の会話になると、ヒフミにはお手上げかもしれなかった。


「ラプトル型無人機は、人工筋肉そのものが演算処理装置として使われているんです。考える筋肉――実装されているのはシンプルな人工知能ですが、その制御方式は結晶細胞を利用した無人兵器の基礎となっています」


 急に饒舌じょうぜつになるところを見るに、彼女の専門はこの手の制御システムらしい。

 ヒフミは道具を使う側ではあっても、作る側ではないので深い話はできそうになかった。


「ぞっとしませんね。万が一ストライキを起こされたら、人工筋肉を利用できなくなるかもしれない」

「思考する結晶細胞という意味では、異形体も亜人種も無人機も変わりません。そのときは話し合いでもしましょう。幸い、人間には知恵があります」


 やや悪戯っぽい微笑みが、一〇年前、塚原ヒフミが憧れた少女の振る舞いと重なる。

 何というか、身につまされる思いだった。仮に由峻がヒフミの執着する『思い出の君』だとしても、彼は名乗りをあげられない。

 時間は残酷である。

 輝かしい記憶も、幼き日に抱いた誇りも、その後の保証をしてくれるものではなかった。

 ましてや彼は人でなし。人外の力を以て人外を制圧する――分相応の身に落ち着いた今、ヒフミにあるのは乾いた義務感だけだ。

 結局のところ、あの日の出来事を問わないのは、彼自身の弱さに端を発している。友人の高辻馳馬にいわせれば、変なところでロマンチスト。女々しい苦悩に口の端を歪める。

 まったく、なんて様だ。


「大丈夫ですか」


 軽い自己嫌悪に陥っていたところ、気遣わしげな声が耳朶を叩いた。

 気付けば、由峻に顔を覗き込まれている。一々、どこか無防備な仕草の娘だった。わざとやっているのなら大したあざとさだが、天性のものだろうか。

 一言で言うと調子が狂う相手なのだ。

 冗談めかして終わらせるには、由峻には美貌がありすぎた。切れ長の、ややつり上がった両目と、アンバーのような透き通った黄褐色の瞳。

 きめ細やかな白皙はくせき、すっきりした鼻梁びりょうの線は美しく、唇は紅を引いたように赤く蠱惑的だ。

 ヒフミも色々と辛い。

 表面上は胡散臭い笑みを崩していないものの、掌にはじっとりと汗が滲んでいる。

 平常心、禅の心だ! と己を鼓舞すること数秒。

 自分は仏教僧には成れないな、と諦めかけたとき。


「……中々、仲が良さそうで結構なことだが」


 合成皮のソファーと長テーブルの前に佇む進藤孝一郎が、くたびれた制服姿で二人を生暖かい目で見ていた。

 先導していた兵士の方も、上司の横で同じような目線をこちらに向けている。

 いつの間にか、施設の地上部分――それもロビーに到着していたらしい。

 広々とした空間はごく普通の受付といった風情の場所で、身体検査のためのセンサー類が堂々とおかれていることを除けば、目新しさのない空間だ。

 どうやら二人の世界に没入していたことに気付き、そそくさと姿勢を正す由峻。

 今さら恥ずかしがっているあたり、天然の気がある娘だった。

 それにしても昨日の今日の出会いとは思えない距離感だなと、ヒフミが訝しんでいると追い打ちが来た。


「まあ。ほどほどにしてくれると嬉しい」


 若干、気を悪くした青年は穏やかな笑顔のまま毒を吐いた。


「まず女の子を軟禁しない。僕たちはそういう成長をするべきだと思うんですよ」


 砲艦外交を是とする人類連合、その下部組織UHMAの一員がいうとただの嫌味である。

 心なしか、進藤が頬をひくつかせたのは気のせいではあるまい。


「そこらで許してやりたまえ、ヒフミ」


 慇懃いんぎんさと寛容さに満ちた、低い男の声。

 進藤の後ろから現れたのは、身長二メートル近い山羊頭の巨漢である。


「……イノウエ先生?」

「宮仕えというのは大概、理不尽極まりないものだよ。何より、今回は幸いにも、私の手が届く範囲内で済んだのだからね」


 ぬけぬけと言ってのけたイオナ=イノウエ――今回の護衛を依頼した張本人が、窮屈そうに身を屈めて歩み寄ってくる。

 まるで時代劇のような格好だ。

 藍色の和服の上に漆黒の羽織姿、その出で立ちは大時代極まりない和装であり、足下だけ革のブーツの和洋折衷が、かえって男の異相に溶け込んでいるのだから皮肉なものだ。


「どうして、あなたがここにいるんですか」

「イノウエ氏は、我々の民間協力者だ。今回の事件を解決するに当たって、UHMAとの窓口を務めてくださった」


 進藤孝一郎が、表情の読めない仏頂面のまま喋り始める。

 左脇の丸めたコートをテーブルに置くと、由峻へソファーに座るよう促す。

 長話になると示したつもりだったが、彼女は首を横に振ってそれを断った。

 この賢角人の娘にも、何やら思うことがある様子であった。


「そもそも、今回の件は不審な命令が多すぎた。UHMAと話がついたはずの、導由峻の身柄拘束。さらに当日の不自然な交通規制……つまり、だ。これは我々にとって最も憂慮すべき事態を意味している。治安を預かる日本当局に、敵の協力者が入り込んでいる」

「もちろん、不穏分子の洗い出しは情報機関の仕事だ。UHMAと即応部隊にとって重要なのは、彼女を狙った襲撃を今日一日、どうやって切り抜けるかという点だろう」


 話を引き継いだイオナが、教鞭を執る教師のように訥々と語り出す。


「即応部隊は彼女と君を解放し、その取りなしは私が受け持つ。彼らとて身内から犠牲を出したくないのだ。この通り、没収された備品も返却される」


 つかつかと近づいてきたイオナが、その分厚く大きな掌の上に何かをのせている。

 掌大の通信端末と、ヒフミの愛用する丸眼鏡だった。

 手渡しで返された物品を前に、ヒフミは何とも言えない顔をしていたが、やがて意を決したようの丸眼鏡をポケットに仕舞い込み、通信端末の状態をチェック。

 こちらをモニターしている相棒へ呼びかけた。


「馳馬。そっちでは状況を把握してるのか?」

『おー、繋がった。昨日、我らが管理官様から状況説明があってな。安心しろヒフミ、そっちに向けて増援が出発したところだ』

「わかった。――正直に答えてくれ。今回のオペレーション、ずっとイオナ=イノウエの介入で成り立っているんだろ?」


 どう考えても、一連の流れは強引で不自然なのだ。

 この程度の隠し事はお互いにしないはずだという信頼があった。

 音声出力は会話モード――つまり周囲に聞かせるための会話だ。こちらの意を汲んだ相棒は、正直な答えを返してくれる。


『そのようだな。お前さんが軟禁されてる場所を特定して、昨日のうちに即応部隊と話をつけたらしい。ちょうどいいや、目の前のお師匠に尋ねてみろ。今なら喋ってくれるだろうさ』


 馳馬からの援護に感謝しつつ、目の前にそびえ立つ山羊頭の老人を見た。

 半人半獣、第一世代亜人種でありながら人間社会の側に立った男。

 おのれの恩師、イオナが何を考えてこんな茶番を仕組んだのか、是が非でも問いたださねばならなかった。

 自分でも驚くほど、静かな声が喉からひり出される。


「つまり、最初からこうするつもりだったんですか」


 たった一晩で零から交渉を成功させるなど、如何に百年の時を生きた亜人であろうと不自然極まりない。

 一回きりのやりとりで成立するのは、互いに条件の摺り合わせが出来ているときだけだろう。

 たとえば塚原ヒフミの異能、〈結線〉で他者を操るなら話は別だが、イオナはそういう細工はしない男だ。

 必然的に、事前の打ち合わせが出来ていたと考えるべきだった。


「無論、こういう厄介な状況を想定し、進藤隊長とは以前から交流していたとも。結果的に敵の動きの方が早かったのは、言い訳しようもないミスだったがね」

「あなたらしくもない。はかりごとをするなら、せめて手駒には事情を飲み込ませておくべきでしょう」


 この師あっての弟子だ。

 実際問題、ヒフミは自分が利用されただけなら冷静でいられる自信があった。

 問題はただ一つ、まだあどけなさの抜けきらない導由峻を、その隠謀に巻き込んだことである。

 胸中の不快感は大きい。

 その感情が、自分にとって特別な少女だからなのか、単に部外者を利用する節操のなさに怒っているのか、定かではないけれど。

 そのときだった。

 進藤孝一郎やイオナと対峙する青年の後ろに控えていた娘が、一歩、前に踏み出す。

 二人の剣呑なやりとりを見守っていた由峻が、静かに声を上げた。


「イオナ、つまらない隠し事をしたものですね」


 透き通った声音に、嫌悪の感情が滲み出ていた。

 そういえば、イオナにとって由峻は『古い友人の娘』だったなと思い出す。

 しかも世代が違うとはいえ、種族まで同じ賢角人なのだ。ヒフミの知らない関係があっても不思議ではない。その割りに親しさよりも、相性の悪さが一目でわかるのも確かだが。


「最初から、隠し事にする意味もないでしょうに」

「ふむ。では巻き込むのかね」

「もう十分に巻き込んでいます。元より、そのつもりなのだと思っていましたが」


 由峻はそう言い捨てて、どこかうれいを孕んだ眼差しでヒフミを見やる。


「塚原さん、巻き込んでしまったのは私の方です。どうか、少しだけお時間をいただけませんか?」

「構いませんよ。さっきの話の続きと洒落込みましょうか」


 琥珀の瞳に込められた力強さに呑まれ、気付けば首肯していた。

 自分は、つくづくこの娘に甘いらしい。万が一、ハニートラップだった日にはどうしたものかなと思案したが、血なまぐさい報復しか思い浮かばなかった。

 あまりにもあんまりだった。

 愕然がくぜんとしているヒフミの内心も知らぬまま、由峻は気持ちを落ち着けるようと悪戦苦闘中だ。

 両手でスーツの裾をぎゅっと握り締め、二度ほど深呼吸。閉じられた眼が開かれ――事の発端が語られ始めた。



「すべての始まりは私の母――第一世代の亜人、シルシュの行いにありました」









「シルシュは日本列島の〈異形体〉が生み出した、最初期の亜人です。人類を遙かに超える活動期間を持つ彼女にとって、文明社会を力ずくで破壊する同胞は好ましく映らなかった。そこで、母はまったく別のアプローチをかけることにしました」


 この世界は今なお、侵略の最中にある。

 人類連合のような共生派の組織と、神話主義者に代表される過激派は異種がもたらした変化の光と影に過ぎない。そもそも光があるかすら曖昧なのだと、由峻は思う。

 緩やかな同化の形を借りた侵略と、人間社会を破壊し尽くす征服――いずれにせよ褒められた行いではあるまい。

 第二世代の出自を思えば、そう思考すること自体が皮肉であった。


 賢角人。狩猫人。猛翼人。


 三大種族とも呼ばれる、最も代表的な亜人たちは、本質的に人類にとって優しくない存在だ。

 人類という種の交配システムにまで手を伸ばしうる、侵略の尖兵。

 人間の基準で十分な美貌を持つ第二世代亜人は、かくあるべくして生まれた存在であり、それこそが列島に根を張る共生派〈異形体〉――トリニティクラスターの意図するところだった。

 そして第二世代をデザインした張本人こそ、由峻の母なのである。


「シルシュは彼の文明崩壊の最初期から、〈異形体〉との全面戦争が終結した後まで、様々な形で人間社会に干渉しています。無人兵器を大量生産する体制の確立など、長期的に人類の延命に役立った事業は数知れず、必然的に敵対する亜人も多い人でした……それだけ大きな影響を残した彼女が、その晩年、成し遂げようとした研究があります」


 彼女も百年近い時を生きてきた亜人だ。

 その膨大な量の知識と経験は、種族の持つ情報リンクを通じて、由峻に継承されている。

 一〇代のはじめ、彼女は母の蓄積してきた記憶と知識に初めて触れた。それは毒のように精神を蝕む情報の渦であり、何故、自分が軟禁され続けたのかもそのとき悟った。


「現状、人間は〈異形体〉と対等ではありません。その元凶こそ、彼らの持つ環境改変能力です。熱核兵器を無力化し、大規模な地上緑地化や、恒常的な資源供給を可能とする力。それが、〈異形体〉を絶対者たらしめているといっても過言ではありません。〈ダウンフォール〉を生き延びた北米や欧州の凋落も、元を辿ればすべてここに集約されます」


 絶対的な環境改変能力を誇る〈異形体〉の登場により、核兵器は報復できない人類を虐殺する以外、使い道のない兵器に成り下がり、民族紛争で戦術核が用いられるという凄惨な切っ掛けを経て、人間社会はその脆弱さを露呈させた。

 これに乗じて神話主義者が暗躍する中、蛮行の後始末に奔走したのは異種共生を唱える〈異形体〉であり、広域に拡散した放射性物質の浄化を通し、彼らは人類から一定の信頼を勝ち取った。

 否、信じられなくとも――身を守るにはそうするほかないのだ。穏健派〈異形体〉との同盟抜きに国家の安全保障は立ちゆかない。

 そういう時代だった。


「……〈異形体〉の絶対性を削ぐ研究、ってことですか?」

「ええ。母はずっと、現在の一方的な力関係を嘆いていました。最終的に管理社会しか生み出せない悪しき土壌である、と」


 ヒフミの問いに、重々しく頷いた。後頭部から伸びた山羊角が、ずっしりと重い。

 苦味が舌の上に広がる中、由峻はまるで他人のように母の名を口にしていた。その所業を口にする度、胸の奥が冷えていくのがわかった。

 彼女自身、はっきりしない曖昧な感情がそこにあった。


「そこで彼女は、〈異形体〉の中枢へ直接通じる門を作り出しました。人間の手に、彼らの力を引き渡して対等にするために」


 もうおわかりですね、と呟いて。

 ソファーとテーブルを挟んで並ぶ男たちへ、導由峻は落ち着いた微笑みを投げかける。




「――〈異形体〉へ接続しうる鍵であり唯一、彼らの思考そのものを理解しうる翻訳機。それが私の肉体なのです」




 沈黙。

 それはヒフミにとって、些か信じがたい話であった。そもそも二二世紀の地球では、〈異形体〉が絶対不可侵の存在であることは一般常識の類。

 過去半世紀、〈異形体〉の牙城を崩そうと人類は足掻き続けたが、ついに終戦まで、一矢報いることさえ叶わなかった。むしろ一方的にしてやられた結果、地球上の文明は崩壊しかけたのである。

 最小でもキロメートル級の巨体を誇る、超物理現象の申し子たち。それが〈異形体〉という地球外知性体であり、人間には手出しできない絶対者だ。

 その落とし子たる亜人とて、やはりそれは同じこと。頭を吹き飛ばされれば人間は死ぬ、ぐらいの当たり前なのだ。


 突然、そういう道理を覆されたとして――いきなり信じろ、という方が無理だった。


 しかし、由峻の斜め後ろに控える孝一郎とイオナを見れば、己を担いだ狂言の類でないことぐらいわかる。両者ともに真剣な顔で、年若い二人の会話を見守っていたからだ。要するに、非常識な厄介ごとなのだ。

 途方もなく荒唐無稽な話だが、由峻の言葉を解釈すればこういうことになる。


 地球上の全人類を一方的に蹂躙出来るだけの存在と、取引するための貴重な足がかり。


 それは、言ってみれば悪魔の取引に似ていた。

 一度、その存在を知ってしまえば取り返しのつかない選択を迫られ、どんな道を選ぼうとまともな結末は期待できない。

 人類の戦略兵器を一方的に無力化する力と、〈異形体〉の自制を取り払った無尽蔵の資源生産能力。

 何の制限もなくその力を振るえるとなれば、多少のリスクは承知の上で無茶に走る勢力は腐るほどいるだろう。

 たとえ自分で使う気がなかったとしても、他人の手へ渡すわけにはいかない宝物。

 そう考えれば、UHMAと日本政府の間できな臭い約束があったとしても不思議ではない。

 とはいえ、由峻の語る秘密――シルシュなる亜人の遺産はその性質上、真偽を確かめた人間もいないのではなかろうか。


「塚原さん、私の担当を外れていただけませんか」

「おや、そこまで嫌われてました?」


 由峻は首を横に振った。

 後頭部の山羊角が、重量感を伴って左右に揺れる。


「いいえ。確かに多少、目に余る言動はありましたが――あなたは悪い人間ではないのでしょう。そんな人が、私のために傷つくのは耐えられないのです」

「ははあ……我が侭って奴ですか。残念ながら、良識ある大人としては引けませんよ」


 ヒフミの正直な感想は、どいつこいつも大げさすぎやしないか、というものであった。

 しかし彼の普段の不真面目な態度が災いしたのか、予想外の展開が、彼を待ち受けていたのである。

 最初に反応したのは、導由峻だった。逞しい角を右の人差し指でそっと撫で、少女は困惑した表情を浮かべる。


「人の体臭を嗅いだり、躰を触ったりするのも良識のうちなのですか?」


 昨日と今日、一泊二日の間に塚原ヒフミが行ったセクハラの告発だった。

 効果覿面こうかてきめんだった。早速、進藤孝一郎とその部下一名が、変質者を見る目でヒフミを睨み付けてくる。

 服の下でだらだらと冷たい汗を掻き、辛うじて平静を取り繕った。自身の表情筋すら完璧に操りつつ、もしこの世に神がいるのなら、と塚原ヒフミは夢想する。

 そいつはきっとろくでなしで、なげやりな試練を与えているに相違ないのだ。

 ヒフミは勿論、唯一神を報じる信仰者ではない。したがって唯一神を罵倒する理由も特にないので、やり場のないいきどおりを腹に飲み下した。


「いきなり誤解を招く言い方で、社会的に抹殺されようとしてるんですが」

「すいません、つい……そういう追い詰められた顔にこそ、人の本質が滲み出ますね」


 何故か嬉しそうだった。

 無自覚だとすればかなり不味い。涼やかな微笑みを浮かべる、秀麗な乙女の台詞だと思いたくはなかった。

 正直なところ、依然、この娘の性分は得体がしれないの一言に尽きる。

 〈異形体〉にアクセスできる特異体質だとか、そういう要素を抜きにして、ヒフミの知らない世界を生きているのだ。

 右往左往する年上の男を見て、何が楽しいというのだろう。その法悦を理解してしまったら、後戻りできない気がして青年は戦いた。


「これっぽっちも謝る気ありませんよね。勿論、僕もうっかり破廉恥な奇行に出てしまいましたが、その都度、謝罪を――」

「ええ。ですから愉快犯なのでしょうね。我ながら度し難い感性ですが」

「知りたくない世界だ」


 理不尽さに頭を抱えたくなった。

 抜けるように白い肌を、ほんのり朱色に染められても対応に困る。何故なら、確実に甘酸っぱい理由ではないからだ。


「よくわからんが。性犯罪までいっていたなら、ジョークで済ませず刑務所にいってくれ」


 進藤孝一郎は顔をしかめたまま、理性ある大人らしく頷いてみせた。

 わからないなら口を開くなよ、と憤りを感じたが、ヒフミは驚異的平常心で、自己の表情筋を制御し続けている。

 作為的な胡散臭い微笑みは、一見すれば彼が堪えていないように見える証だ。その実、割りと精神的に追い詰められているのはご愛敬。

 いつの間にか、塚原ヒフミを取り巻く状況は悪化している。


「不当な拘束だって犯罪ですよね。いやあ、僕の堪忍袋かんにんぶくろってどのぐらい膨らむんでしょうね」

「ヒフミ、彼らは君の奇行に対して隔意を抱いているのであって、行為の違法性は問題ではないのだ……ふむ。由峻は君のことをそう嫌ってはいないようだし、道義的には彼らの方が問題だがね」


 聞き捨てならない台詞をこぼしつつ、イオナ=イノウエは超人犯罪即応部隊へ矛先を向けていた。

 一体どの口でモラルについて語るのか、定かではない。会話の流れからすると孝一郎たちはとばっちりもいいところだが。


「師匠、追い打ちをかけるふりをして取引相手を貶してませんか」

「司法が仕事をしないとき、報復と称し、仇を死ぬまで滅多打ちにするのが人間だ。私は理性的だろう?」

「極端な例を持ち出して、自己正当化するのやめましょうよ。何故か、同族嫌悪が湧いてきて嫌なので」


 茶番めいたやりとりの後、深々と溜息をついた。


「どのみち、乗りかかった船です。導由峻しるべ・ゆしゅん、君にどんな事情があるにせよ、僕は君を守ります。いいですね?」

「……どうしてですか? 私はもう、私の目の前で誰かが傷つくのは嫌です」


 聞きようによってはエゴイスティックな発言だが、それは、彼女の嘘偽らざる本音なのだろう。

 自分自身が厄災の元凶ともなれば、割り切りの一つや二つは生まれて然るべきだ。そして、由峻にとっての一線は、自分の目の前で起こった出来事かどうかなのである。

 だが、それでも。

 由峻の言葉は今さら過ぎて、思わず笑ってしまいそうだった。危険と縁のない任務など、UHMAの超人災害対策官にはありえない。

 一度、関わってしまったのなら、区切りよくなるまで傍にいた方がいい。


「目の前で、不幸せになりそうな子を放っておかない。そのぐらいの、つまらない良心ですよ」


 冗句めいた語り口と裏腹に、それは、塚原ヒフミにとって嘘偽りない本音であった。

 人ではないものにとって、この世界は残酷だ。

 秩序は人間にとっての常識や安全を前提にしているから、その類型に当てはまらない異物に対し、どこまでも冷淡になる。

 そのあり方は決して悪ではない。むしろ一個人で都市の存亡を脅かす存在など、受容される方が不自然なのだ。

 それでも彼はこいねがう。

 人ならぬ命にも、人並みの幸せがあっていいはずだと、恥知らずにただ祈る。新種としての価値観を築けないまま、逸脱者として生きてきた男は、年若い後進の幸福を願わずにはいられなかった。

 どこか含みのある発言に対し、由峻が口を開きかけた刹那。



――轟音。



 激しい揺れが足下を襲った。

 地震とは異なる一回きりの大きな衝撃。

 急ぎ働かせた超常種としての知覚器官が、さらなる異常を感知する。急激な情報信号――結晶細胞の共鳴現象の増大。第一世代特有の無線操作が、結晶細胞への破壊的コマンド群を送り込んでいた。


「全員、伏せろ!」

 

 ヒフミが叫んだ瞬間、二度目の衝撃が来た。

 鉄筋コンクリート製の壁が呆気なく吹き飛び、巨大な瓦礫片が横殴りに飛来する中、すぐ傍にいた少女へ覆い被さる。背中に鈍い痛みが走り、頭部へ何かが突き刺さる。

 ガラガラと崩れていく建造物の音だけが、いつまでも耳に残った。




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