第2話・鵜ノ澤姉弟的にちじょー

 「帰ったわよ」


 自宅でもないのに何を言っているのか、と我ながら思わないでもないなー、とぼやきながら吾音は、自分達に割り当てられている学監管理部室に、入る。

 ただし、自宅でもない、という感想には少しばかり語弊がある。何せ、中で待ち受ける顔ぶれは、自宅と違いは無いからだ。


 「よー、姉貴ー。ご機嫌良さそうで結構なこった」

 「これが機嫌良さそうに見えるのか、おまえは」


 眉間のシワを右手の親指と人差し指でつまみつつ、吾音はパイプ椅子に座りながらダーツに興じている次郎を睨み付ける。


 「いやだってさ。ただいまー、なんて言う姉貴珍しいじゃん。そりゃ…っと、機嫌がいいように思えても、当然ってもんじゃねーの?」


 そういえばコイツ、ダーツの的しか見てねーな。

 吾音はツカツカと部屋の真ん中に歩み入ると、


 「…っと、わぁあぶねっ!!」


 次郎が投じて部室の真ん中を滑空していたダーツの矢を横から引っ掴んだ。


 「遊んでる場合かってーのよ。交渉は決裂したわ。次郎、あんたそのまんま続行しなさい」

 「…いやそりゃ予想通りっちゃあ予想通りなんで別に構わんけどさ。それより姉貴、ケガしてね?」


 矢を掴んだ吾音の右手を指さしながら、次郎が聞く。


 「退屈紛らしでやってるダーツの矢を掴むなんて、止まってるハエつまむより簡単だわ。こんなもんでケガなんかしないっての」


 と、後ろ向きに、ダーツの矢を放り投げる。さすがにブルズ・アイに命中こそしなかったが、一応的の枠内には刺さった矢を見て、次郎は感嘆の口笛を吹く。


 「で、三の字は?」


 部屋の中を一通り見渡して、吾音は姿の見えない三郎太の所在を問う。

 もともと、使われなくなった視聴覚室を転用した学監管理部の居室は、一クラスが授業を受けられる程度の広さは充分にあり、僅か三人の部員しかいない管理部には不要なほどの空間を有する。

 高等部の旧校舎とはいえ、他に使い途などいくらでもありそうな教室を設備ごと接収した吾音の手腕(悪行とも言う)についてはいずれ語られることもあろう。


 「三太夫ならあっち」


 右手に相変わらずダーツの矢を構えたまま、空いている左手の親指を立てて背中を示す。


 「あっち?」


 吾音が次郎の指し示した方、すなわち視聴覚放送設備用のブース-今はただの物置になっているが-を見ると、三郎太がノートパソコンを開いて何やら作業中だった。


 「何してんの?あの子」

 「どーせ姉貴は手ぶらで帰ってくるだろーからってんで、調べ物ずっとやってた」


 この場合、吾音には二つ文句がある。

 一つは、三郎太は吾音が行ってきた自治会との交渉について、何も期待はしていなかったこと。

 そしてもう一つは。


 「…で、あんたは何遊んでいたわけ?わたしが上手いこと伊緒里のアホとナシつけて仕事がなくなると踏んでいた、と?」

 「いんや?全く」


 相変わらずダーツの的を片目で睨みながら、矢を指二本で挟み狙っている。


 「…ふーん」


 気のない返事の間に吾音は右の上履きを脱ぎ、手に持つと次郎の後ろに来る。そしておもむろに…。


 スパーン!!


 「あぎゃっ?!」


 と、弟の後頭部をはっ倒し、満足げに上履きをはき直す。


 「ふん。姉の働きを疑おうなんて、弟の分際で生意気だわ」

 「あ、あ、あ…」

 「うん?『あ、吾音お姉さま、どうかこのボクの出来の悪い頭をもう一度引っぱたいてせめて人並みに戻してください』ですって?いーわよ、もう一度と言わず二度三度…」

 「足に刺さったんだよ、このアホ姉っ!!」

 「ほえ?」


 後ろ頭に手をやりながら右の足を吾音の前に突き出す次郎。見ると、確かに甲のやや先にダーツの矢が刺さって…というか、上履きを貫通していた。


 「何よ。どーせ足には刺さって……ないんでしょ、っと」


 そんな状態にも露程も動じず、吾音は目の前の次郎の足から、矢を引っこ抜く。


 「あぃえぇっ?!」

 「ほら」


 矢の先にチラと目線をくれてから次郎に突きつける。その先端には血の跡もなく、ただ重そうな真鍮の鈍い光があるだけだった。

 ただ、成る程、これ位重いものなら手からこぼれ落ちて靴を貫通するのも無理はない。


 「いや刺さってたらどーするつもりだったんだよ!刃物持ってる人間どつくとか危険極まりねーわ!」

 「刺さってなかったんだから問題無いでしょーが。でももしケガしてたならこの優しい姉が贖罪の意識も強く朝から晩まで看病して、あ・げ・ま・す・わ」


 ご丁寧に投げキッスなどという、当節見ることもなくなった仕草を織り交ぜながらの弁解である。

 次郎も毒を抜かれた態で、口をもぐもぐさせつつも文句を呑み込むのだった。


 「…あによ。何か言いたいことでもあるの?」


 言いたいことというか、姉貴に一日中介護されたら何か吸い取られそうだ、と毒づくつもりだった次郎だが、それを言っても不毛な言い争い…自分が一方的に言い負かされそうであったため、代わりに口にしたのが、


 「というか何で俺の足に刺さってねーって分かったんだ」


 との疑問である。どう見ても足を貫通している図だったものを、よくもまあ躊躇なく引っこ抜いたものである。

 だが吾音の方は、といえば。


 「そんなの決まってんでしょ」


 手の中でクルリと矢を回し、羽の部分を次郎に向けると、吾音は「燃える赤」の異名には似つかわしくない、ごく親しい者にしか見せない柔らかい笑みを浮かべて言った。


 「次郎は男の子で、姉に変な心配させないだろうし。ホントに刺さってたらやせ我慢するでしょ」

 「………」


 ずっけーな、とぼやいて次郎は矢を奪い取った。

 いやそもそも吾音が次郎のドタマを引っぱたいたりしなければ、ダーツの矢を足下に取り落とすようなこともなかったのだが、それを言うのは無粋というものなのだろう…少なくともこの何処かズレた姉弟にとっては。


 「ま、おねーちゃんには敵わないってことよ。生まれた順番で負けたのが全てなんだから、諦めなさいな」


 穴の空いた上履きと、得意げな姉の顔の間で視線を往復させていた次郎だったが、何やら言いたそうなその顔に不興でも覚えたか、怪訝な顔で吾音は次郎を言咎める。


 「次郎?下克上でも謀ってんならオススメしないわよ」

 「いや、そーいうわけじゃねえけどさ。どうせ姉貴にゃ敵わねえってすり込まれてっし」

 「あら、珍しく殊勝なことね。じゃあ何か不満でもありそうなその顔はどういうつもりでいるのか、聞いても構わないってことね?」


 構うも何も、いつもこっちの事情なんかお構いなしじゃねーの?…と言いかけたところだった。


 「…二人ともやかましい。仕事がさっぱり捗らないのだが」


 教室後背の設備ブースにこもっていた三郎太が手にノートPCを持って出て来て、口を挟んできた。


 「…なんだよ三太夫。取っ組み合いのケンカしてるわけでもねーのに、この程度で仕事出来なくなるとか、えらく細い神経してやがんな。っつーか、そっちのブースってこっちの音聞こえねーんじゃなかったっけ?」

 「三太夫ではない。三郎太だ。姉弟が言い争っているのを耳にして心穏やかでいられるわけがなかろう。音についてはこないだ姉さんが設備改造して、ブースにも声が強制的に届くようにしてあっただろうが」

 「…そうだっけ?初耳なんだが…」


 そう首を捻りながら次郎が吾音の方を見ると、若干気まずそうに頬を掻きながら吾音が言う。


 「あー、ブースで耳塞ぐよーな真似は許したくなくてねー。こっち側のスイッチ入れとくと音入るように改造しちゃった」


 学校の設備を勝手に改造するよーな真似をした割には、軽い弁解だった。

 だがそれを聞いた次郎は、怒るでもなく呆れるでもなく、やや顔を青くして吾音に問う。


 「…あのさ、それいつの話?」

 「スイッチ?自治会に顔出す前に入れといたけど」

 「いやそうじゃなくて。改造したのっていつのことかって…」

 「あー、次郎がなんか運動部会に出向してた時期だから…三月だっけ?」


 それを聞いて次郎は、今度は真っ青になった上に震える指で吾音を指さしながら言う。


 「…まさかと思うけど…姉貴、…アレ、聞いてた?」

 「あれ?さー、何のことかしら。三郎太、知ってる?」

 「知らんぞ。次郎が女子を連れ込んで口説くなんぞいつもの話だしな」

 「あ、あそ…ならいーんだけどさ…」

 「わたしと三郎太があっちで作業してる間にわたしの悪口で盛り上がってるなんて想像もつかないものねぇ」

 「しっかり聞いてんじゃねえかっ?!」


 道理であの後姉貴の態度が冷笑含みだったわけだ、とブツブツ言いながら次郎は背もたれを前にしたイスにドッカと腰を下ろす。


 「…それで話がふくらむのは分からんでもないがな、本人のすぐ傍で、しかも女子の気を引くのを目的にして心にもない悪口を言うのは感心せんな」

 「三の字の言い草も気に入らないけどさ、まあそういうわけよ。あとその時の…皖子かんこちゃんだっけ?アレも結構なタマだから深入りしない方がいーわよ。大学部の講師に二股かけるとか、地雷女もいーとこだったし」

 「うるせーやい…ってか姉貴、彼女のこと調べたワケ?」


 うっ、と言葉を詰まらせる吾音。

 怪訝な目でそれを見る次郎に、三郎太が捕捉する。


 「次郎は気が多い割に惚れ込むと周りが見えなくなるからな。万が一本気だったらヤバいから、と姉さんが言ったので俺が調べておいた」

 「要らんこと言わんでいいっ!!」


 吾音のローリングソバットが三郎太の尻に炸裂していた。

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