43-0:懺悔(本編外)

 ガブリエルは闘技場の壁に体を預け、ガランとした廊下をぼんやりと眺めていた。

 すべての力を使い果たし、今はもう立ち上がる気力さえ残っていない。


 場内よりはるか上で、爆音が何度も聞こえた。そのたびに揺れる天井から、ちりがパラパラと降ってくる。

 この振動が、真の魔王となったルシファーとミカエルたちの戦闘の余波であることは分かっている。

 しかし、天界ヘブンの命運をかけたこの戦い、もはや参戦する資格はない、とガブリエルは思っていた。



 もうよい……疲れた……。



 地獄ゲヘナの軍勢と対峙たいじするウリエルには、「あとで必ず合流する」と告げた。

 無責任な言葉だと自覚している。

 それでも、このままこの場で朽ち果てたいという願望が、ガブリエルの中で急速に膨れ上がっていた。



 くぐもった爆発音が再び響き、天井の破片がパラパラと落ちてくる。

 ガブリエルのうつろな目がそれを追った。なぜかそのとき、ハルの言葉をふと思い出す。


「わたしとルファはもう無理だけど……、ガブリエルさんは絶っ対に、ミカエルと仲直り、してね?」


 そう言われたのは、昨夜、ウリエルが所有するサフィルス城でのことだ。

 育ての親であるルシファーに裏切られ、ミカエルからも見放されたと思い込み、命のともしびを消すと決断をしたハルが、最後に残した言葉だった。


 彼女の決断は、ガブリエルが言葉巧みに誘導したものだ。

 ルシファーにせよ、ミカエルにせよ、ハルへの行為は、何らかの理由があってのことだろう。

 しかしガブリエルにとって、ハルはルシファーを壊す手段であり、彼女には『死』を選んでもらわなければならなかった。


 青みを含んだ白色のベッドの上で、大きな緑色の瞳に見つめられたガブリエルは、ハルに曖昧な笑顔でしか答えられない自分に吐き気がした。



 闘技場の白い壁には、ルシファーの結界を破壊するときにできたクレーター状の穴が、大小無数にあった。

 ハルとの会話を思い出すと、ガブリエルは、胸をきむしりたくなる衝動に駆られる。捨てたはずの天使の慈悲が、心の深淵しんえんからい出ようとするのだ。



 あれが……ヒトの慈悲……。



 自分とミカエルの仲を最後まで心配していたハルの寂しそうな笑顔が、ガブリエルの脳裏にずっとこびりついていた。

 それと重なるように、ルシファーの結界を破壊するよう命じた、ミカエルの強い視線を思い出す。


 分かっていた。

 ミカエルの言った「おまえにしかできない」の真の意味は、「おまえがしなければならない」だった。

 闘技場に閉じ込められた天使たちの目の前で、ルシファーが作り出した結界をガブリエル自らが破壊する。そうすることで、四大天使の一翼を担う熾天使ガブリエルの名誉と威厳が取り戻せる。

 ミカエルは、そう考えたのだ。


「仲直り、してね?」


 ハルの声が、幻聴のように聞こえてくる。


「無理だ……。もう元には戻れない……」


 昨夜、彼女に返せなかった言葉を、ガブリエルはつぶやいた。


 己の身に宿した悪魔に嫌悪しながらも、ガブリエルは天使から外れた道を長年突き進んできた。ついには、天界ヘブンの再構築の礎として、本来守るべきヒトの命をも利用した。それも、彼らの弱さに漬け込むという、最も卑劣な方法で。


 ルシフェルが謀反を起こした『あの時』以降、己の信念のために、あらゆる重罪を永遠に背負うと覚悟を決めた。

 それでもやはり思ってしまう。



 なぜ、こうなってしまったのだろう? と。



 皆から敬愛されていた長姉ルシフェルの非道な裏切り。唯一ルシフェルと戦えるがゆえに、情愛に満ちた心が壊れた長兄ミカエル。

 ガブリエルの大切なものが、『あの時』を境に、手からすべてこぼれ落ちていった。


 今にして思えば、天界ヘブンの安寧が真の目的ではなく、幼い頃、父と兄弟たちで過ごした穏やかな日々を取り戻したかっただけではないのだろうか?

 そう気付いた途端、今まで押し殺してきたものがせきを切ってあふれ出てきた。



 誰もいない闘技場の壁を背に座り込むガブリエルは、右腕で両目を覆い隠す。

 そのときだった。


「移動……なさらない……のですか?」


 爆発音と天井がひび割れる音しかしない廊下に、突然、か細い声が加わる。

 驚きのあまり、ガブリエルの体がビクリと跳ねた。

 腕を顔から離すと、薄墨色のシュートボブの天使がこちらを見ている。


「サリエル? なぜ……ここにいるのだ?」


 全員がこの場を去ったと思っていたガブリエルは、困惑気味に大天使サリエルを見上げた。

 黄土色の祭服を着た彼女は、不思議そうに首をかしげる。


「私……は、ラファエル様……の部下……です……から」


 先の情けない姿を見られたのかと思うと、ガブリエルは気恥ずかしくなった。サリエルから顔を背け、小さな瓦礫がれきの山を見ながら不服そうに口を開く。


「ならば、さっさと連絡塔へ向かえ。救護の天使は、兵士にとって必要不可欠だ」


「……」


 返事がないので、ガブリエルはゆっくりとサリエルのほうに顔を向けた。

 彼女はやはり怪訝けげんそうに首を傾げたまま、床に座り込むガブリエルの脇に両膝をついた。


「何を……」


 戸惑うガブリエルに向かって、サリエルは当然のように言う。


「今……最も……救護……を必要とする天使……は、あなた様……です」


「な……」


 その言葉に虚を突かれたガブリエルだったが、すぐさま顔をしかめる。


「それは、ラファエルの指示か?」


「いえ……。私……の……判断……です」


 軽く首を振ったサリエルは、ガブリエルの腕に手を添えると翼を広げた。

 彼女の触れたところからゆっくりと魔力が注がれ、傷が癒えていくのを感じる。



 相変わらず、意図の読めない天使だな……。



 大天使サリエルは、癒しの天使ラファエルの部下だ。医療に精通しているが、死者を冥界へ導くミカエルの補佐も担っている。生と死をつかさど稀有けうな天使。

 その彼女の治療を受けながら、ガブリエルは大きくため息をついた。


「私を……恨んではいないのか?」


 意図せずこぼれ出た言葉に、ガブリエル自身が驚いた。それと同時に、サリエルが何と答えるのか、興味が頭をもたげる。

 ガブリエルは、チラリと彼女の様子をのぞき見た。

 サリエルは視線をガブリエルの腕に向けたまま、わずかに眉をひそめる。


「なぜ……恨む……と、思う……のですか?」


 予想外のサリエルの返答に、ガブリエルは再び困惑した。


「おまえは……上官の……ミカエルの指示に従っただけだ。そうでなければ、魂の系譜を無断で持ち出すことなど、おまえはしない。それを知りながら、私はおまえを処罰した。おまえも分かっていたはずだ。それ故に、私を恨むのは当然であろう?」


 サリエルは顔を上げて、ガブリエルを見た。


「上官の指示……とは言え、私……は……規則を破り……ました。処罰……は、妥当……だと思い……ます」


「妥当……か。では、私のこの有り様も妥当だな」


 自虐的な言葉に、サリエルはか細い声で言う。


「そう……かもしれま……せん」


 ガブリエルの腕から手を離したサリエルは、遠くを見るように視線を上げ、ふぅと小さく息を吐いた。


「ルシフェル様が謀反を起こした『あの時』、最初に斬った能天使は、邪視のことを打ち明けた唯一の者でした」


 口調がガラリと変わり、過去を話し始めたサリエルに、ガブリエルは少し驚く。

 サリエルは、己の過去について公に話すことがなかった。その彼女が何を語るのか、ガブリエルは黙って耳を傾ける。


「邪視の能力は、ルシフェル様と契約を結んだ者の見分けがつきます。それと同時に、私の力を上位天使並みに高めるのです」


 それを知っていた能天使がサリエルを問題視したか、反乱軍へ引き入れようとしたのだろうか? そんなことを考えるガブリエルをよそに、サリエルはさらに続けた。


「最初の能天使を滅ぼしたあと、襲ってくる同胞を次々と斬りました。あのときの私は……」


 そこまで言うと、サリエルはうつむき唇をみしめる。


 おそらく、今まで誰にも話したことがないのだろう。ガブリエルは、サリエルが話し始めるのをじっと待った。

 ややしばらく間を置いてから、彼女は意を決したように重い口を開く。


「私は……己の感情を……切り捨てました。一瞬でも躊躇ためらえば、滅ぼされるのは私のほうでしたから。そして私は……謀反の許しを請う同胞までも、すべて……斬ったのです……」



 大天使サリエルは、下位天使で唯一、神の前に出ることを許された御前天使の一人だ。それは、邪視の能力を使った彼女が、たった一人で反逆者から同胞たちを守り抜いた功績をたたえてのことだった。

 しかしサリエルは、栄誉ある御前天使に喜ぶこともなく、事の経緯を公にすることもかたくなに拒んだ。

 今までの彼女の振る舞いに、ガブリエルはやっと納得する。


 サリエルは一息つくと、悲し気な表情でガブリエルを見た。


「大変失礼ながら……、今のあなた様を見ていると、『あの時』の自分を重ねてしまいます」


「……」


 最上位である熾天使と下位の大天使を同列とするような発言は、絶対的な階級社会の天界ヘブンでは到底許されるものではない。

 それを知らぬわけがないサリエルが、あえてこのような言い方をすることには意味がある。何かを伝えたいからこそ、今まで隠してきた事実をこの場で話しているのだ。


 ガブリエルが黙ったままサリエルを見ていると、彼女は気まずそうに言葉を続けた。


「ガブリエル様。何かを捨てることは、一度決心さえしてしまえば、さほど難しいことではございません。私のような下位の者にでも出来るのですから」


「……」


 ガブリエルは、思わず不快な表情になる。今までの覚悟が「容易い」と言われたような気がした。

 そんなガブリエルに対し、サリエルは申し訳なさそうな複雑な顔になる。


「ですが……、ミカエル様はどんなに絶望のふちに立たされても、どんなに身も心もボロボロになろうとも、誰かが求めれば、最後は必ず立ち上がり応じようとなさる。私には……とてもまねできません……」


 ガブリエルは反射的にサリエルから目をらし、拳を握りしめた。

 これがミカエルとおまえの歴然とした差なのだと、断言されたように思えたのだ。

 しかしガブリエルの気持ちとは裏腹に、サリエルは懇願するような口調になる。


「ガブリエル様、どうかミカエル様をお支えください。このままでは、あの方はまた壊れてしまいます。今は、暴走したルシフェル様を止めることに必死ですが、それが終われば、きっとまた……」


 思ってもみない言葉に、ガブリエルが顔を上げる。サリエルのうるんだ瞳が目に入った。


「……でき……ない」


 顔がゆがむガブリエルは、何とか声を絞り出す。だがサリエルが、すぐさま否定した。


「いいえ、あなた様ならできます」


 キッパリと断言するサリエルの頬に、一筋の涙がこぼれる。彼女は慌ててそれを拭うと、再びガブリエルを見た。


「先ほど、あなた様に『あの時』の私の姿を重ねてしまうと申し上げました。ですが、ガブリエル様と私では決定的な違いがあります」


「違い……」


 眉間にしわを寄せて考え込むガブリエルを見たサリエルは、涙目でニコリと笑った。

 ガブリエルが知る限り、彼女の笑顔を見るのは初めてかもしれない。


「ガブリエル様は、ミカエル様の弟君ではございませんか」


「……」


 あまりにも単純な答えに、ガブリエルはほうけた顔になる。

 サリエルは柔らかな微笑ほほえみを浮かべたまま、さらに続けた。


「ガブリエル様は、ミカエル様と同じように、求めに応じて必ず立ち上がってくださる。私は、そう信じております」


 その言葉に、ガブリエルは胸を突かれる。

 思わず下を向くと、水滴がポタポタと服の裾へと落ち、自分が泣いていることに気が付いた。


「私の罪は……許されるのだろうか……」


 サリエルの微かに笑う息遣いが聞こえる。


「ミカエル様は、ルシフェル様を、天界ヘブンへ連れ戻そうと奔走されたお方ですよ?」


 それを聞いたガブリエルが、思わず微笑んだ。


「そう……だったな」


 そのとき、頭上でくぐもった爆発音が聞こえた。天井の破片が、またパラパラと落ちてくる。

 両膝をついていたサリエルは立ち上がると、ガブリエルに手を差し伸べた。


「行き……ましょう……ガブリエル様。皆が……待つ、連絡塔……へ」


 いつもの口調に戻ったサリエルに、ガブリエルは内心苦笑しながらも、その手を取り立ち上がる。


 強く握れば壊れそうなほど、華奢きゃしゃなサリエルの手。だがそのぬくもりは、今のガブリエルにとって何よりも心強かった――

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