34-2:裏切り
ガブリエルが俺の足元に放った朱色の巻物は、自分の『魂の系譜』だとハル自らが答えた。
そんな馬鹿な……と、俺はガブリエルを見る。すると、彼はわずかに首を縦に振った。
そのため、ヒトの魂の歴史ともいえる系譜は、無垢の子には持ち得ない。それにもかかわらず、俺の足元に転がる朱色の魂の系譜は、ハルのものだと言う。
俺は握りしめていた剣を庭の芝生へ突き刺し、魂の系譜を拾い上げた。
巻物を縛る深紫色の
内側がクリーム色の紙がダラダラと地面に垂れ、小さな山ができたころ、その名が目に飛び込んできた。
『ハル・エヴァット』
人間界では使われることのないエノク文字で書かれたその名に、震えを抑えながら手をかざす。
空中に映し出された画面には、グレイ・エヴァットとラナ・カーディフの娘として生まれたことが、水色の文字ではっきりと記載されていた。
だが、ハルの誕生が記されて以降、魂の系譜にはなぜか何の情報も記載がない。
「どういう……ことだ?」
俺は巻物を手にしたまま、ルシフェルを見た。
「……」
顔面が
「ルファ!?」
慌てたサキュバスは膝をつき、彼女を支えるように肩を抱いた。
ガブリエルが冷たい口調で言う。
「おまえたちが人間界で接触したあと、その場にいたヒトが何者であるか、調べるのは当然であろう? ハル・エヴァット嬢の魂の系譜を見つけるのは、容易いことだった」
「……ウリエル……か……」
人間界でハルとともに行動していたとき、俺の居場所を知っていた唯一の天使はウリエルだった。
俺の頭の中で、屈託のない笑顔をこちらに向ける赤髪の天使を思い出す。
「ウリエルを非難するのは誤りだ。そもそも、おまえの行動が根本的におかしいのだから」
ちらりとよぎった俺の思いを、ガブリエルが見透かすように否定した。
「……」
そう、ウリエルを非難するのは筋違いだ。
本来ならば、ハルが無垢の子だと気づいた段階で、俺はすぐさま
だが俺は、ルシフェルのそばから離れたくない、という己の欲を優先させた。ルシフェルからハルを取り上げたくない、などという都合のよい理由までつけて。
ウリエルが俺の所在を確認するのは当然で、そのときに、ルシフェルやハルの存在に気づくことは明らかだった。そして、それをガブリエルへ報告することも。
奥歯を
「それにしても、ごく普通のヒトの子であったハル嬢を、どうやって『無垢の子』に仕立て上げた?」
ガブリエルの問いに反応し、俺も再びルシフェルを見た。
俺が抱いていた疑念は、ハルの魂の系譜により確信へと変わる。彼女は、やはり神が創り出した『無垢の子』ではなかった。
それはつまり、ルシフェルがハルを無垢の子に変えた、ということになる。しかし俺が知る限り、そんな技も魔法も存在しない。
「……」
ルシフェルは
ガブリエルが続ける。
「彼女の魂の系譜は、誕生以降白紙の状態だ。通常は、彼女の十年分の記録が載っているはず。もし、貴様が彼女の魂を汚していれば、系譜は黒で侵される。だが、シミ一つない状態が保たれている。つまり、貴様は彼女の魂を汚していない。にもかかわらず、彼女には魂の系譜と対となる座位がない。貴様は、彼女の魂に何をした?」
「……」
「答える気はないか……。まぁそれもよかろう。だがこうなった以上、貴様をこのまま
そう言ったガブリエルは、ルシフェルに向かって片手を突き出した。
「ガブリエル!!」
俺はガブリエルの前に立ちはだかろうと、その場から動こうとした。
その瞬間、俺の視界の端に鈍く光るものが映る。
俺は反射的に地面へ突き刺していた剣を逆手に取ると、向かってきた何かを振り上げた剣身で受け止めた。
ギリギリと金属が擦れる音。
見ると、能天使カマエルが、俺に向かって剣を振り下ろしていた。
「カマエル……」
俺は目を見開いてカマエルを見る。しかし彼は、こちらに顔を向けることをなく口を開いた。
「お見事です、ミカエル様。ですが、これ以上は動かないでいただきたい」
「なぜ……」
驚く俺に、カマエルは不快そうに顔を
「なぜ? それは私がお尋ねしたい。なぜ、
「なにを……言っている?」
俺はカマエルが非難する意味が分からず、交わる剣の隙間から尋ねた。
カマエルは剣の力を緩めることなく、ちらりと俺を見る。
「あなた様が長年、人間界でルシファーを探し回っていたのは、裏切り者にとどめを刺すためではなかったのですか?」
「!?」
その言葉に
そういう……ことだったのか……。
ガブリエルは、この機をずっと待っていたのだ。
俺が
それは、ルシフェルに深い恨みを持つ天使たちに対する配慮であると同時に、俺を最高位天使の座から引きずり降ろすために、じっくりと時間をかけて作られた包囲網でもあった。
カマエルは、まるで苦痛に耐えるような表情で話を続ける。
「われら能天使は、われらの受けた屈辱と無念をあなた様が晴らしてくださると、ずっと信じておりました。ガブリエル様から、そうではなかったと聞かされても、私はにわかに信じられなかった……」
「……」
「しかし、あなた様と行動をともにし、実際にこの目で見て、ガブリエル様のお言葉が真実だと分かりました。ミカエル様、あなた様はいまだにあの醜悪な悪魔に、お心を奪われている」
俺は……なんて愚かなんだ……。
俺の剣は、徐々にカマエルの剣に押し負ける。
「あなた様は、よくお分かりになっていたはずです。あの悪魔のせいで、われら能天使が同胞たちをこの手で滅ぼしたことを! あの悪魔のせいで、辛酸を
カマエルの怒りが俺の胸を貫いた。それと同時に、俺の力は抜けていく。
力強さが消えた俺の剣に合わせるように、カマエルも自分の剣を引いた。
俺はだらりと腕を下げると、剣の柄から手を放す。
バウゥン
くぐもる音を響かせ、庭の芝生に埋もれるように俺の剣は下へと落ちた──
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