27-2:泡沫の残り香

 イリーナと名を変えたラナは、やがてグレイと夫婦となる。

 真面目で朴訥ぼくとつな鍛冶職人のグレイに、娼館しょうかんで働いていた出所もよく分からないラナが嫁ぐことを、周囲は大反対した。

 しかし、両親を幼くして亡くしたグレイは、たった一人で生きてきたラナに共感し、彼女を包み込むように愛した。そしてラナも、グレイの想いに応えるよう、献身的に彼を支えた。

 そんな二人の姿に、周囲も少しずつ彼らを夫婦として受け入れる。そして、婚姻関係を結んだ翌年、ラナはグレイの子を身ごもった。


 ルシファーはその様子を、説明のつかない怒りをもって見守っていた――



 出産を迎えたその日、グレイとラナの住む小さな家は頻繁に人が出入りしていた。

 手持ち無沙汰のグレイは、一階のリビングを意味もなくウロウロとしている。


「少しは落ち着けよ。おまえのほうが先にまいっちまうぞ」


 グレイよりも背の高い年上の男が、彼の様子を見て苦笑いをした。


「でも……彼女のあのうなり声……相当つらいんですよ」


 不安げな表情を浮かべるグレイに向かって、深緑の布張りの一人掛けソファーに座った小太りの男が、パイプたばこをふかしながら笑う。


「そうさ、グレイ。だがな、俺たち男は木偶の坊みてぇに突っ立ってるだけしかできねぇんだ。嫁さんの苦痛に耐える声を聞いて、俺たちは男親になるんだよ」


「……」


 グレイは手を固く握りしめ、まるで祈るように二階がある天井を見上げた。



 二階の寝室では、町の女たちと産婆がベッドに横たわるラナを取り囲んでいる。

 ラナは定期的に襲ってくる陣痛を、その機が熟すまでいきむまいと耐え忍んでいた。


「ほら、イリーナ、力を抜いて。大きく息を吸うんだ。そんなんじゃ、腹の赤ん坊が苦しいだろ?」


 産婆に促され、イリーナと呼ばれたラナは何度か大きく深呼吸をする。

 生まれてくる赤ん坊のために湯を沸かして室温を上げているせいか、ラナの意識が朦朧もうろうとしてくる。

 部屋が薄暗く感じ、産婆の声も女たちの励ます声もどこか遠くへ消えてしまった。


「ラナ、時間よ」


 突然枕もとではるか昔に捨てた名を呼ばれたラナは、体をビクリとさせる。

 声のするほうに顔を向けると、遠い昔に見た漆黒の髪と六枚の飛膜の翼が生えた悪魔が立っていた。


「ルシ……ファー……」


 無表情でラナを見下ろすルシファーの深紅の唇を見た瞬間、彼女の中ですっかり忘れていた記憶が鮮やかによみがえる。母フェリシアの亡骸の傍らで、幼い自分は何を望み、誰とどんな契約をしたのかを……。


「まっ待ってルシファー……。まさか、じゃないわよね?」


 その言葉にルシファーは不快そうに顔をしかめた。


「なぜ今じゃないと思うの? 私たちは約束したはずよ?『あなたが最も愛を感じた瞬間に、私はあなたの命を奪う』と」


「そんな……」


 ラナは、なぜ今までこの重大な『約束』を忘れていたのだろうと考える。だがその答えは出てこない。

 心臓の音だけがバクバクと耳障りに聞こえてくる。これが自分の終焉しゅうえん。それが悪魔と契約した代償。けれど……。


「お願いよ、ルシファー。せめて、この子を産むまでは……」


 ラナのすがるような目つきに、ルシファーは苛立つ。

 それと同時に、ずっと抱いていた怒りの正体を、この場に立ってようやく理解した。


 ルシファーは、ラナと自分を重ねるように見ていたのだ。

 利用されるために創られ、身勝手に放り出された存在。自分もラナも選択肢を与えられず、そこに甘んじるしかない。それが永遠と続くのだとルシファーは思っていた。

 だが、孤独に苛まれるルシファーとは違い、ラナはグレイという深い愛情を持った伴侶を得る。

 ルシファーは、彼女たちの仲を壊すこともできたはずだった。だがそれをしなかったのは、彼女たちの行く末を見届けたいという思いがあったからだ。

 そしてラナは、幸せの中で最愛な人との子をはらむ。


 悪魔にとって、ヒトは単なる『餌』に過ぎない。

 だがルシファーにとってラナは餌ではなく、自分とともに業火を歩む者だった。

 だからこそ、自分を置き去りにし幸せの中で生きるラナに、ルシファーは一方的な怒りを抱く。そして彼女らの愛し子が産まれるまさにこの瞬間、ラナの命を奪うと決めたのだった。



 ベッドに横たわるラナの大きく膨らんだ腹を、ルシファーはチラリと見る。


「その子……生まれたとしてももたないわ」


「え?」


 ボソリと言うルシファーの言葉の意味が理解できず、ラナは眉をひそめた。

 だがそれ以上答える気のないルシファーは、嫌悪をにじませて言う。


「さあ、もういいでしょ?」


 納得できるわけもないラナが、身重の体を起こして怒鳴った。


「よくないわ! もたないってどういうこと!?」


 ラナのあまりの剣幕けんまくに、ルシファーは一瞬ひるむ。そして、どこかばつが悪そうに彼女から視線をらした。


「生まれた瞬間に……命が……尽きるのよ。私がそうしたんじゃないわ。その子は最初からそういう命だったみたいね」


「うそ……うそでしょ? この子はおなかの中で今も動いているわ! 死なせるために産むというの!?」


 責め立てるように言うラナに、ルシファーは複雑な表情で首を振る。


「うそじゃないわ。その子を迎えに、天使がすでに控えているもの」


 そう言うと、ルシファーは部屋の隅に目をやった。

 窓辺の片隅に、震えるように小さく身をかがめた天使がこちらを不安そうにのぞいていた。その天使は、格上の悪魔であるルシファーを恐れ、それ以上近づけないのだ。

 部屋の隅にいる天使を見たラナは愕然がくぜんとする。大きく息を吐くと、力なくベッドへと体を倒した。


「お願い……ルシファー……この子を助けて……」


 両手で顔を覆いながら涙声でラナが言う。

 その言葉に、今度はルシファーが目を見開いた。


「何を……言っているの?」


「ルシファー……」


「私は悪魔よ? ヒトの命を救う? もうそんなことはできないのよ!」


 声を荒らげるルシファーに、顔から手を離したラナは涙でぐちゃぐちゃになった顔で悲鳴のように叫ぶ。


「お願いよ! ルシファー!!」


「できない……無理よ……」


 ラナに対する嫉妬の怒りがどこかへ消えたルシファーは、苦しそうに首を左右に振った。


 いつものように自分の都合のよい部分だけを切り取って、ヒトの願いなど踏みにじればよかった。それが悪魔本来の所業なのだ。躊躇ためらうことなど何もない。

 だがラナの言葉は、なぜかルシファーを縛り付けた。


 ラナは懇願するように言う。


「この子は私の希望なの。今ならわかる。私はこの子を産むために、あの地獄を生きてきたの。だからお願いよ、ルシファー! この子が生きなきゃ、私の存在は無意味になっちゃう!」


 ルシファーは息をのんだ。

 かつていた光の世界で、自分が言った言葉を思い出す。



『あの人が壊れたままなら、私の存在は意味のないものになってしまう』



 ルシファーの顔は苦痛でゆがんだ。



 なぜこうも、ラナこの子と私は重なるの?



 ルシファーはラナの胸元に手をかざす。いつもと同じ、ヒトの魂を抜き取るときの動作だった。しかし、このときのルシファーの手は、自分でも信じられないほどにガクガクと震えていた。

 ラナは震えるルシファーの腕をガシリとつかみ、自分のほうへと引き寄せる。


「私の魂は、永遠に縛り付けても構わないから!!」


 満身の力で声を張り上げるラナを断ち切るように、ルシファーは彼女の胸元に自分の手を押し込んだ。

 ラナは大きく息を吸い込んだかと思うと、体を強張らせる。

 黒く穴の開いたラナの中から、ルシファーは金色の球体を引き抜いた。ルシファーの腕を掴んでいた彼女の手がドサリと落ちる。


「私にはもうその力はないのよ……ラナ……」


 顔を歪めたルシファーは、球体を持っていない手で自分の胸元を触った。

 銀色に輝くロケットペンダントに触れた途端、ルシファーは何かに気がつく。そして、ラナの魂を持つもう片方の手を見た。


「……」


 銀色のロケットペンダントをパチリと開ける。ルシファーの手は、その中身を掴んだ。

 握りしめたその手をラナの膨らんだ腹へと近づける。体の震えが止まらない。



 狂っている……。



 頭の片隅でそう思う自分がいた。だがもう一方で『それ』を後押しする何かがいる。

 ルシファーの震える手がラナの腹に何かを押し込んだ。それと同時に、産婆がラナの腹から赤ん坊を引きずり出す。


「おんぎゃーおんぎゃー」


「イリーナ! 産まれたよ! 女の子だ!!」


 産婆の声とともに赤ん坊は大きな産声を上げた。


 部屋の隅でその様子を見届けた天使はスクっと立ち上がり、宙へと舞い上がる。

 それに気づいたルシファーが、手のひらから召喚した黒光りする剣を天使に向かって素早く振り払った。悲鳴を上げる間もなく二つに切り裂かれた天使は灰へと変わり、風にまかれるように消え去る。


 そんなことが行われたとは気づかない部屋の中では、産婆に抱かれた赤ん坊が真っ赤な顔で張り裂けんばかりに泣いていた。

 ルシファーはその赤ん坊を、驚きのまなざしで見つめていた……。

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