24-2:地獄(ゲヘナ)へ

 ウリエルがヒトとして過ごすエクノール邸は、丘陵地のふもとを切り開き、葡萄ブドウ畑を背負うように建てられている。

 彼の屋敷と前庭とは高低差があるため、レンガ造りの階段が二つの場所をつないでいた。その赤茶けた階段のそばに、ミカエルと同じ暗黒色のローブをまとった天使が立っている。

 ラジエルはミカエルたちからそっと離れ、一人神妙な面持ちで立つ灰赤色で短髪の天使のもとへと近づいた。


「カマエル」


 名前を呼ばれたカマエルは背筋を伸ばして右手を胸に当てると、ラジエルに向かって軽くこうべを垂れた。そんな彼を見てラジエルはほほえむ。


「かしこまる必要はありません。ミカエル様に同行するあなたには、私の代わりを務めてもらわねばならないのですから」


「ラジエル様の代わりなど、私が務まるとは思えません……」


 ラジエルよりも少し背が高く、ゴツゴツとした筋肉質のカマエルは、その身を小さくして首を振った。



 能天使カマエル――『神を見る者』という意味の名をもち、七大天使の一人。天空の外科医と呼ばれることもある。

 中位三隊の能天使と力天使で構成される天界ヘブン中層の軍は、主天使が指揮官だ。

 だが、能天使だけで構成されるウリエル直属の軍の指揮官は、このカマエルとなっている。



 周囲の雰囲気になじめず、どこか気後れしているカマエルを気遣うように、ラジエルは顔をほころばせる。


「私の代役を務めてもらわなければ困ります。ミカエル様の暴走をお止めするのがあなたの役目なのですから」


「はぁ……」


 カマエルは何と答えてよいかと困惑した顔で、頬骨の辺りを人差し指でかきながら笑った。



「誰がいつ暴走したって?」


 二人の会話に割って入るように、ラジエルの背後からミカエルが現れた。

 ラジエルは軽く首をかしげながら、そちらを見る。


「今回のミカエル様は、ことを少しいているように思えますが?」


「そうか? まぁ周りにはかなり無理をさせたかもな」


 そう言うとミカエルはニヤリと笑った。

 短期間で、しかも秘密裏に地獄ゲヘナ行きの準備をさせたこと思い出し、ラジエルもあきれ気味に首を左右に振って笑う。だが、すぐに真顔でミカエルを見た。


「ミカエル様、本当に……」


 そう言いかけたラジエルを、ミカエルは右手を挙げて制止させる。


「分かっている。おまえも、待っていてくれ」


 つい先ほどハルに向かって言った自分の言葉をミカエルに言われてしまい、ラジエルは一瞬面を食らった顔をした。だが、彼の言葉に応えるように大きくうなずく。


「えぇ、あなたを信じて待っていますとも」



 ラジエルの言葉に満足そうな顔をしたミカエルは、あらためてカマエルを見た。


「ウリエルからの命とはいえ、大変な任務だ。よろしく頼む」


 すると、カマエルはその場に片膝を突いて頭を垂れる。


「不肖、カマエル。身骨を砕いて、ミカエル様の御身のために働く所存でございます」


「……」


 カマエルは上官に対して最大の敬意を払ったつもりなのだが、ミカエルから何も返答がないので、そろりと顔を上げた。

 目が合ったミカエルがポツリとつぶやく。


「カマエル……かたい……」


「えっ?」


 カマエルは予想もしていなかった言葉を聞き、調子の外れた声を出した。


「いや、だってさ、これから死線を越えようとする仲だろ? だから、階級とか肩書とかを忘れてくれないか? そのほうが、俺が助かる。な?」


 そう言ったミカエルは、膝を突くカマエルに向かって右手を差し出した。

 最高位天使からの思いもよらない言葉に、カマエルは目の前に差し出されたミカエルの手を見つめたまま固まる。だが、いつまでもこのままでは無礼と思ったカマエルは、戸惑った表情のまま立ち上がると、自分の右手をズボンで拭きミカエルの手を握り返した。


「よろしくお願い……します」


「頼りにしているぞ、カマエル」


 ニッと笑うミカエルに対し、カマエルは緊張した面持ちで頷いた。

 その様子を少し離れたところで見ていたウリエルが、眉をひそめながら近づいてくる。


「ミー君さぁ、ウチのカマエルは任務に忠実なんだから、無茶させないでよ?」


 そう言ったウリエルは、ミカエルの肩に手を置いた。

 ミカエルは心外とばかりに、横に立つウリエルを軽く睨む。


「分かっているって」


「カマエル、ミー君が無謀なことを言い出したら、ほーんと断っていいからね?」


「はぁ……」


 返答に困ったカマエルは、ミカエルとウリエルを交互に見ながら人差し指で再び頬をかいた。



「そろそろゲートを開いて、いいのかしらぁ?」


 一人、天使の集団から外れ、園庭の芝生に立っているサキュバスが周囲に通る声で言う。

 それを聞いたミカエルが少し離れたところから「あぁ、頼む」と答え、サキュバスの近くへと歩き出した。


 ミカエルの言葉に頷いたサキュバスが軽く目を閉じると、彼女の背中から飛膜の翼が現れた。

 悪魔の力を解放したサキュバスは人差し指で地面を指し、そこから空へ向かって一本の光の線を引く。その線に両手をかけて左右に押し広げると、光の隙間がメリメリと裂け、そこから黒の空間がぱっくりと口を開いた。次の瞬間、地獄ゲヘナ特有の黒ずんだ空気が人間界こちらへと流れてくる。

 少し離れたところで転移ゲートの設置を見守っていた天使たちが、不快な表情を見せた。


 ゲートの固定が終わったサキュバスは、すぐさまハルのもとへと小走りで駆け寄る。そして、ハルのそばでひざまずいた。


「必ずルファを連れてくるからね」


「うん」


 ハルはそう言うと、サキュバスにぎゅっと抱きつく。彼女もハルの頭を愛おしそうに優しくでた。


 二人のそばにいたミカエルが、サキュバスと入れ替わるようにハルの前で片膝を突く。


「ハル、行ってくる」


「うん。私、信じているから。だから、無事に帰って来てね」


「あぁ、必ず」


 そう答えると、ミカエルはハルをそっと抱きしめた。


 すでにゲートのそばにいたカマエルが暗黒色のローブについているフードを被り、ミカエルとサキュバスに向かって声をかけた。


「参りましょう」


 黒い口を開けたゲートの中へ、サキュバスを先頭にカマエルが続く。最後にミカエルがゲートをくぐる前に、辺りを見回すように振り返った。


 心配そうにこちらを見るハル。彼女の後ろで支えるように立つラジエル。その横で複雑そうな表情をするウリエル。

 彼らの視線すべてを受け止めたミカエルはニッと笑うと、黒のフードを被りゲートへと飛び込んでいった――



 ルファは……ルシフェルは、なぜハルの母と祖母の魂を喰うに至ったのかは分からない。その真実をどう扱えばよいのかも、俺はいまだに決めかねている。

 ただ、ハルが知るべきことではないと感じていたし、ルシフェルのハルに対する愛情は本物だと思いたかった。

 秘密の箱は閉じたまま、彼女たちがそっと離れてくれることを俺は願っていた。


 それにしても、いまだに俺の疑問は何一つ解決していない。


 ルシフェルは、なぜ天界ヘブンを裏切る謀反を起こしたのか? そこに神の関与はあったのか?  俺は、神の手のひらで踊らされて……いた?


 疑惑で付いた黒いシミは俺の奥底にこびりつき、簡単には消えてくそうにない。

 ひとつ言えることは、ルシフェルの謀反と無垢の子であるハルの存在は、何かつながりがあるように俺には感じられるのだ。


 これらすべての鍵は、地獄ゲヘナに捕らわれているルシフェルが握っている。

 だが、問うたところで、彼女はすんなりと答えてはくれないだろう。



 あいつルシフェルは、何を隠している?



 金木犀キンモクセイの香りが漂う漆黒の髪とあの華奢きゃしゃで柔らかな肌の感触を思い出し、俺の胸は非常識にも妙に高鳴っていた……。

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