16-1:孤城の別棟
その渓谷は
だが、『狭間』のすぐそばに軍事拠点を置くと、相手をいたずらに刺激することになり、両者としても得策ではない。そのため、『狭間』から一定の区間に互いの緩衝地帯を設けることで、
一見穏やかに見えるが、日々緊迫した状況下にある『狭間』の緩衝地帯を抜けた先に、四大天使の一人、熾天使ウリエルが所有する孤城のひとつがある。
サフィルス城と呼ばれるその城は、純白の城壁と、城の四方に立つ円柱形の城壁塔の色鮮やかな青の屋根が特徴的で、緊迫感に包まれた緩衝地帯とは不釣り合いなほどに優雅な
狭間と対面するように建つサフィルス城は、左右を小高い丘に挟まれており、正面には城の姿を映し出す手鏡のような小さな湖があった。
その湖の畔に、サフィルス城を取り囲む樹木に紛れ、石造りの小さな別棟が隠れるようにひっそりと建っていた――
「ハルちゃん、今日も昼食を残したわね。食欲はまだ湧かないかしら?」
そう言いながら、サキュバスは心配そうにハルの顔を
日の光が反射してまばゆく光る湖をぼんやりと眺めていたハルの視界の端に、サキュバスの艶やかな髪が映った。
サキュバスさんの髪って、サラサラしていてきれいだな……。
室内テラスに射し込む日差しを受けて、サキュバスの髪色は亜麻というより白銀に見える。
窓ガラスから見える背景と重なるように、ハルは自分の髪が目についた。カールのかかった
私もあんなふうに真っすぐの髪ならよかったのにな……。そういえば小さい頃、お父さんが「おまえのくせ毛は母さん譲りだな」って言っていたっけ。お母さんか……。どんな人だったのかな?
「ハルちゃん? 大丈夫?」
自分の誕生と引き換えに命を失った母に思いを巡らせていたハルは、サキュバスの心配そうな声で現実へと戻された。
あ……いけない……。
ハルは取り繕うようにニコリと笑う。先ほど、サキュバスが何と言っていたのかを思い出しながら口を開いた。
「大丈夫。人間界では、毎日薬草を採りに放牧地へ行っていたでしょ? きっと運動不足なのかも。そのうちに食欲も戻ってくると思う」
「そう? それならいいのだけれど……」
サキュバスはそれ以上何も言わず、ため息交じりで
ハルとサキュバスが住むこの石造りの家は、
石造りといっても、外観は隣のサフィルス城とそろいの白の外壁で、室内は温かみのあるクリーム色の
室内テラスと続き部屋になっているリビングルームの中央には、三人掛けのグレーのソファーが二脚、ローテーブルを挟んで置かれていた。
ハルの様子を気にしながらも、サキュバスはテラスから離れ、リビングルームのソファーに腰を下ろす。
見知らぬ地で見知らぬ者に囲まれた生活になじめないことが原因のひとつだった。だがそれ以上に、育ての親が
人間界を出発する前、ウリエルは「
ルシファーは、
しかし、時間の経過とともにウリエルの言葉は確かなものとなっていく。
この石造りの別棟にいる天使たちは、常にハルを手厚くもてなした。そんな彼らから、嫌悪や悪意といった負の感情を一度も感じ取ったことがない。そして何より、夢魔であるサキュバスに対しても、ハルと同様に
夢魔のサキュバスだけが、ルファの夢の中に入れるため、彼女の様子を知っている。
ハルは何度かルファの現状を尋ねるが、その
サキュバスの態度から、教えられない理由があるのだとハルは察する。おそらく、これ以上いくら聞いても無駄なのだろうと。
リビングルームのソファーに座ったサキュバスが、ローテーブルに置かれた読みかけの本を手に取った。
それを横目で見届けたハルは、窓の外へと視線を戻す。
サフィルス城のすぐそばにある石造りの別棟は、その存在を隠すように森の中に建てられていた。
森の木々の隙間から、鏡のような湖の水面がキラキラと光って見える。そこには『宝石のような青』という名に相応しい美しいサフィルス城と、その周りに生える色鮮やかな緑の木々が、天と地を逆転させて映り込んでいた。
本当にきれい……。
しかし、目を見張るような
テラスに腰掛けるハルは、胸に光るしずく型のペンダントに触れる。ルファとの別れ際に預かった、彼女の『心』が入っているロケットペンダントだった。
ルファ……。
心ではルファの名を呼ぶが、ハルはミカエルを思い浮かべる。
銀色の短髪に切れ長の赤い眼。一見すると冷淡に見えるが、優しい笑顔の熾天使ミカエル。彼はルファの双子の弟なのだと、
思い返せば、漆黒の長い髪と切れ長の赤い眼をしたルファの笑顔は、どことなくミカエルに似ている。だからなのか、ラジエルに教えられる以前から、ハルは、この二人の強いつながりを感じていた。
例えるなら、夜空に静かに佇む満月のルファと、大地を
ハルはどういうわけか、そんな二人をひどくうらやましいと思ってしまう。
「ハル、ごめんな。上層での仕事がひと段落着いたら、すぐに戻って来るから」
そう言ってハルの頭を
忘れちゃった……のかな?
ハルは眉間にしわを寄せて目を
そんなことない。ミカエルが私を忘れるわけがない。
頭では分かっているが、胸が苦しくなる。
ルファのこと、ミカエルのこと、これからのこと。先が見えない不安で、わずか十歳のハルの心は今にも押し潰されそうになっていた……。
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