悩みは楽園にもある
秋風ススキ
本文
画廊の展示スペース。人混みの中に見えたあの人は、本人だとしたら、十数年ぶりに会う人。だけどあの人の姿は、前に会った時とほとんど変わらない……
詩織は中学生の頃、数学は苦手であったが、中学2年生の1年間は数学の授業が楽しみであった。その1年間、沙織のクラスの数学の授業を受け持った男性教師が、高橋先生という名前であるが、授業中に色々と面白い話をしてくれるからであった。下らない世間話や生徒をいじるトークの類ではなく授業の内容に関わりのある話である。
たとえば幾何学でピタゴラスの定理について説明した際には、その定理の発見者として伝わるピタゴラスについて、そしてその人物がリーダーを務めていたピタゴラス教団について、歴史や思想史に相当する内容を簡潔にまとめて話してくれた。
「ピタゴラスは古代ギリシャの人だね。実用的な測量と結び付いた幾何学はもっと昔の古代エジプトやメソポタミアの文明でも盛んで、ピタゴラスの定理に相当する知識も既に得られていたそうだけど、ピタゴラス教団の人は数や図形に神秘的な要素があると認識していたという点が新しくて、それから測量や建築のような実用を離れた純粋に理論的な学問として数学に取り組む行為の先駆けとしても、特別な地位を占めているんだ」
その語り口は優しくて、本当の大人っぽさを感じさせるものであり、なおかつ少年のように楽しそうであった。
「でも色々と奇妙な決まり事を持っている集団であったことでも有名で。たとえば豆を食べてはいけないというルールがあったそうだよ。ピタゴラス教団の人は生まれ変わりを信じていて、生まれ変わりという考え自体は古代の思想として珍しくはないのだけど、ピタゴラス教団では豆の1粒1粒を人間の魂の生まれ変わった姿だと思っていたらしい。それで、豆を食べないというルールを自分達に課していた」
元気の良い男子生徒が、
「ひえー。それじゃ豆腐も納豆も食べられないね」
と言い、その先生が、
「そうだね。でも古代ギリシャには豆腐や納豆は無かったと思うよ」
と、答え、クラスが笑いに包まれたことを、詩織は特によく覚えている。
高校に入っても数学はあまり得意ではなかったが、他の科目の成績はなかなか良く、生活態度も真面目であったので、詩織は推薦で私立の名門大学に入ることができた。生活態度の真面目さは少し度が過ぎていて、図書室で過ごす時間が多く、似たような文学少女やおとなしいタイプの女子生徒と話すことが多少はあったが、男子生徒と話すことはほとんど無かった。
大学は文学部であり専攻は美術史であった。その関係でフランス語とイタリア語も学び、古典ギリシャ語と古代ギリシャ哲学も学んだ。その古代ギリシャについての知識も活用して、卒業論文は古代地中海世界の絵画と彫刻を主題にして書いた。
卒業後は国立大学の大学院に進むことになった。その大学には美術史の学部や研究科は存在せず、歴史学部と研究科の内部で文化史というかたちで美術の研究もされていた。詩織もそこの研究室に入ったのであった。
詩織は東京の出身であり、大学も都内の私立であったが、その国立大学は地方の大学であった。詩織は大学院入学を機に初めて親元を離れて一人暮らしを始めることになった。
その引っ越しのことなどで忙しい時期であったため参加をためらったが、中学時代のクラスメイトたちが同窓会を開くことになり、詩織も呼ばれたので参加することにした。
会場は洒落たレストランの貸し切りであった。男子も女子も来ていた。詩織は女子数名のグループに交ざることができた。それで他の集団に接近しては、少々の会話を交わし、また別の集団の所に行くのである。会話の内容はまず、それぞれの現在の状況についての報告であった。大学を出て来月から会社勤めという人と、既に働いている人と半々くらいであった。中学時代に詩織と時々話した文学少女は、女子大を出て、既に婚約者がいるとのことであった。
「だからしばらく料理学校に通うのよ。詩織はすごいね」
「いや、別に。すごくはないよ」
元気の良い女子生徒が、
「あら。すごいわよ」
と、話しかけてきた。さっきまで男子たちと話していた人であった。
「わたしは大手のIT企業に就職するけど」
「すごい」
「何の研究をするの?」
「ええと。古代ギリシャやローマの美術について研究しようと思っているわ」
「そっか。あんたって、高橋先生のこと好きだったものね」
「え、ちょっと」
会話の内容が段々と思い出話に移る頃合いであった。
「あの先生の授業の時は明るい表情していたもの、あんた」
「確かに面白い授業だったけど」
「特に古代ギリシャのことがよく話に出て来たよね。わたしはあまり興味ないから、むしろ退屈で印象に残っているのだけど。まあ、あの時点でもうアラサーくらいだったからね、あの先生。わたしたちは10代前半だったのだし、好きになってもなかなか、ね」
「ええと」
「あの先生のその後について、わたし少し知っているのだけど、知りたくない?」
「え、ええと」
「失踪したそうよ。わたしたちが卒業した2年後くらいに」
「うそ」
「本当よ。わたしも詳しいことは知らないけど。事件性のあるような失踪の仕方ではなかったから、ニュースにはならなかったみたい」
同窓会の残りの時間、詩織はずっとそのことを考えていた。料理も少しは口に運んだのであるが、味も分からなかった。
同窓会でのことが原因となって古代ギリシャのことがきらいになるということは無く、詩織は順調に研究生活をスタートさせた。彼女は学部卒業と同時に学芸員の資格を取得していて、指導教官になった人の仲介で、地元の美術館でバイトもするようになった。
そうして気付いたら30歳になっていた。博士号を取得したのが28歳の時であった。ポスドクとして研究室に残ることはしなかった。バイトをした美術館は、正式な学芸員としては採用してくれなかった。その美術館は主に近代の西洋絵画と日本の近現代の画家の作品を収蔵、展示している美術館であり、それは詩織の専門分野とは異なるので、彼女が正式採用されないのは仕方ないとも言えた。
学芸員として働くことは狭き門であり、それを真剣に目指している人は学部生や院生として専攻する時代や研究する画家を決める時点で、求人のことまで見据えているものなのである。たとえば国内に、そのジャンルにあてはまる常設展示をしている美術館が幾つもあるようなジャンルに属する画家や芸術の潮流を専攻していれば、それらの美術館で雇ってもらえる可能性は高くなる。
残念ながら日本には、古代ギリシャやローマの美術作品を収蔵、展示している美術館と博物館の数は少ない。だから競争が激しいし、毎年求人を出しているとも限らない。欧米の美術館まで範囲を広げれば仕事が見つかるかもしれないが、海外の美術館で働くことを目指す人の多くは学生や院生の内に留学をする。また詩織の両親は、詩織が国内の別の土地に住むというだけでも心配したのに、海外となるともっと心配するであろう。
これらの理由は半ば以上が自分への言い訳であった。
詩織は親元に帰った。そして学生時代の知り合いから翻訳の仕事を回してもらって、それに取り組む生活を始めた。それらの知り合いには出版社や編集者に勤めている人がいて、ちょっとした原稿を日本語に訳す仕事をくれるのであった。雑誌に載せる数ページ分の文章の仕事や、単行本を大勢で翻訳する際の一員としての仕事であり、小遣い稼ぎ程度の収入であった。
「たまには外出しなさいよ」
母親からそう言われて、詩織は数か月ぶりに電車に乗った。その数か月間は、たまに近所のコンビニに行くくらいなのであった。
部屋にいる間もネットを通じて情報は得ていて、都内の画廊を幾つか調べていた。それで、壺を色々と扱っている画廊があると知った。安土桃山時代の日本の陶器の壺も、宋代の中国の磁器の壺も、それから近世ヨーロッパや古代ギリシャの壺も扱っているとのことであった。詩織は訪れてみる気になった。他に行きたい場所も無かった。
5回建てのビルが丸ごと、その画廊であった。元は不動産業にITを取り入れたビジネスを日本でいち早く開始して儲けた人物が画廊の代表であり、ビルのオーナーであった。その辺りの情報はネットで調べて知っていた。
エントランスにある案内によると、西洋の壺は3階に展示されているとのことであった。詩織はエレベーターで3階に向かった。
平日の昼過ぎだというのに賑わっていた。何百万円、何千万円もするような壺を買いに来る客は、平日に9時5時で拘束されている訳でもないのかもしれない。自分としては、うっかり壺を壊すようなことが無いよう気を付けないといけない、と詩織は思った。
近代のイギリスやフランス、オーストリアで作られた美しい絵で彩られた壺が幾つかあったが、詩織はあまりそういう壺は好みではなかった。
足早に進む。金属製の壺を見つけ、しばらくその前に立って、じっと見ていた。その壺は他の人にはあまり人気が無いようであった。装飾のしっかりした壺であるのに、他に立ち止まって見る人はいないのであった。
通路の反対側に大きな白い磁器製の壺があり、その前には人が絶えなかった。新たに集団がやって来て、その声が賑やかであったので詩織は何となく振り向いた。中高年の男女の集団であった。
その人たちの間を通り抜けるように、30歳くらいの男性が歩いて行った。画廊のその階の入口の側から来て、奥へと進む方向へと歩いて行った。
詩織は固まった。
「高橋先生」
と、思わず小声で言ってしまった。それから、まさか、と心の中で言った。あの先生は、今ではもうちょっと歳を取っているはずだわ。
後を追うように歩き始める。
部屋の奥まった場所。古代ギリシャの壺が幾つか並べられているスペース。人の姿は無かった。おかしいな、こっちに来たと思ったのだけど、と詩織は思った。
「あら。綺麗な壺」
他の壺はどれも精巧なイミテーションであるという説明が壁のパネルにあったが、その1つだけは本物であるとも記載されていた。素朴な絵が焼き付けてある大きな壺であり、口の部分が大きかった。人間がそこから中に入ることができるくらい大きかった。
「中に入ったということは無いわよね」
と、心の中で言いながら、詩織は壺の中を覗き込んだ。空洞と、壺の内側が見えるだけであった。
画廊の中をしばらく歩きまわってみたが結局、先ほどの人を見つけることはできなかった。疑問を残したままであったが、あまりウロウロして不審な客と思われるのも怖いので、詩織は帰ることにした。そう言えば防犯カメラは無いみたいね、ここ、と、ビルを出たところで詩織は思った。
その2週間後。学部時代の先輩から電話で連絡を受けた詩織は、その先輩に指定された喫茶店に来ていた。翻訳の仕事を紹介してくれている知り合いとは別の人であり、会うのは数年ぶりであった。
「前に会ったのは教授の出版記念パーティーの時だったかしら」
「はい」
「わたし美術品関係の会社を作ったの。親族に出資してもらってだけどね。美術作品についての雑誌を、ネットと紙媒体の両方で展開する会社。美術品を所蔵している人に頼んで、写真集も作るの」
「すごい」
「あなたも社員として参加してくれないかしら」
「良いのですか? わたしなんて」
「もちろん。美術の歴史についてちゃんと知っていて、ただの感想ではない文章を書ける人に来て欲しいの」
とりあえずオフィスを見て欲しいという先輩に案内されて店を出る。オフィスがあるのは大きめの一軒家であった。喫茶店から歩いて約5分の場所にあった。
「少人数で行うからね。普段の仕事はこの部屋で行っているの」
その1階の広い部屋には机が幾つか並び、パソコンも数台あった。
「2階には美術品を幾つか置いてある部屋があるの。親族から相続した物や、開業祝として貰ったもの。見て頂戴」
と、案内されて2階に上がる。パーティーも開けそうな部屋に、西洋の甲冑やブロンズの彫刻が置かれていた。壁には油絵が数点かかっていた。それから部屋の隅に、大きな陶製の壺があった。
「あれは」
「あなたの専門分野。古代ローマの時代の壺よ。実用的な目的で作られたものだから装飾が少なくて、美術品としての価値は低いそうだけど」
その時、先輩の携帯電話が着信音を出した。
「あら、ごめんなさい」
「どうぞ出てください」
先輩は少し電話の相手と話した後で、詩織に向かって、
「ちょっと仕事の関係の人が近くに来ていて、会いたいと言うの。ちょっとさっきの喫茶店で応対してくるわ。悪いけど、あなたはここで待っていてちょうだい」
「はい」
「その壺が本物かどうか、鑑定しておいれくれたら嬉しいわ」
と、笑顔で言ってから、先輩は部屋を出て行った。
偽物ということはないだろうと思いつつ、製作された年代や場所が分かるかもしれないと考え、詩織はその壺に近づいた。中に人がすっぽり入ることは無理そうであったが、口の部分は大きく、人の頭を通すくらいの大きさはあった。
詩織はなんとなく中を覗き込んだ。
「おーい」
なんとなく声を出した。
そうすると身体を強く引っ張られた。壺の中へと吸い込まれるように引っ張られた。
気付くと、田園風景の中にいた。
「これは。まるでアルカディア」
アルカディアとは、元は特定の場所を現す地名であるが、転じて理想の田園風景、理想郷を現すようになった言葉である。西洋美術のモチーフとして、古代から近代まで多くの作品に描かれた。緑豊かな中で、牧人や貴族が楽しそうにしている姿を描くのが基本である。その美しい風景の中にあえて骸骨などを描くことにより、死は決して逃れることのできないものであるということを表現した作品も多い。メメント・モリ、死を忘れるな、という精神であり、「我(=死)アルカディアにもあり」という意味である。そういう、ひねりを利かせた表現が成立するくらい、アルカディアというものは、かつての西洋文化において馴染み深いイメージだったということである。
「やあ」
背後から話しかけられた詩織は振り向いた。突然の声だったので驚いてもよかったはずであるが、むしろ懐かしい気分であった。声の主は、彼女が中学2年の時の数学の教師、高橋であった。
「先生」
「久し振りだね」
「あの、2週間ほど前に」
「ああ。ぼくも気付いたのだけど、あの時は急いでいて」
「ええと」
「とりあえずこの場所について説明しよう」
高橋は近くに生えている木から果実をもぎとり、1つを詩織に手渡した。
「ここは、一種の魔法によって実現された理想郷さ」
古代ギリシャのアテネなどの都市国家の栄光は、マケドニアによるギリシャ統一の頃にはもう失われていて、アレクサンダーの帝国が崩壊した後、ローマが勢力を増し、やがてギリシャも併呑した。その結果、ギリシャの文化人がローマ貴族の子息の家庭教師になるなどのかたちで、ローマ人によるギリシャ文化の受容が進んだ。そのローマも内部の混乱や周囲の異民族からの圧迫によって弱体化し、東西に分裂。西ローマ帝国の方は比較的早い段階で滅んでしまった。東ローマ帝国はその後も1000年ほど続いたが、その領土は現代のギリシャや東欧、トルコに相当する地域であり、東洋的な専制君主としての性格が強い皇帝が治めているという社会の体制も含め、元のローマとは大きく違ってしまっていた。
時代をアレクサンダー大王の栄光の直後くらいの時代に戻すと、アレクサンダーが征服した土地の1つであるエジプトは、彼の部下であった人物が王となって治めるようになっていた。プトレマイオス朝の始まりである。首都の名前はアレキサンドリア。アレキサンドリアという名前の都市は、大王が征服した土地のあちこちに作られたのであるが、特にエジプトに作られたそのアレキサンドリアが繁栄において群を抜いており、経済と文化の中心となり、後世の人がアレキサンドリアと言った場合には、まずその都市のことを指示していると考えて差し支えないほどになった。
アレキサンドリア図書館という名前は有名である。当時世界に存在した全ての書物について、現物あるいは写本を収蔵することを意図した大図書館であった。研究の拠点でもあった。
プトレマイオス朝の女王であるクレオパトラがローマのカエサルなどと接近して、権力の安定を図り、最後には敗れて自殺し、プトレマイオス朝が滅びた後も、アレキサンドリアは繁栄していた。幾何学について、数少ない定義と公理から出発して様々な定理を導き出す書物であり、近現代に至るまで幾何学の学習において利用され続けた『言論』を書いたユークリッドも、アレキサンドリアの住民であった。別の人で、蒸気の力で回転する装置や原始的な自動販売機のような装置を発明した人も、アレキサンドリアの住民であったという。
人によっては、微分積分に相当する数学上の知識と技術も、当時既に得られていたと主張するほどである。
ここまでは議論や異説もあるだろうが一般的な歴史学の範疇の話である。
実は古代アレキサンドリアには、もっと高度な、現在の科学技術ですら到達していないような知識と技術が存在した。その知識は、ローマの貴族や賢者の一部にも共有されていた。そうした技術の1つが、この世界とは別の空間を作り出す技術であった。
そう、高橋は詩織に語った。
ローマの衰退は、そうした技術と知識をもってしても如何ともしがたいものであった。人口が減少し、それに対して版図が広すぎるという要素。多くの市民が、あえて大帝国を維持したいとは思っておらず、熱意がないという要素。ある意味、種の寿命にも似た、集団としての寿命が訪れているかのようであった。
そして高度な知識と技術を持つ人々はエリート主義であり、苦労して大衆を救うことよりは自分たちだけの楽園を作り上げることの方に興味と意欲があった。
「それで一部の人々が楽園を作り上げたのさ。まず空間を作って、そこに土を持ち込み、品種改良によって作り上げた木を植えて。そして移り住んだ。通路は壺」
「じゃあ、わたしがさっき調べていた壺も。それからこの前、画廊にあった壺も」
「その通り。わざわざ少し昔の様式を真似た物も含めて、沢山作ったらしい。そうやってこの世界に移住した。おおよそ1万人ほどだったらしい」
小鳥の鳴く声が聞こえた。
「移動に使った壺は、領主化した貴族や、知識人仲間で元の世界に戻ることにした人に預ける他、一般人に金を渡した上で、土に埋めるよう頼んだりもしたらしい。事情があって元の世界に戻る必要が出てくるかもしれないし、ちょっと用事で行くということもあるからね」
「なるほど」
「まあ、壺を使う以外の行き来の方法も開発されたけど。実はこの世界の中では時間の流れがゆっくりというか、人間が歳を取るのが遅くなる。天才や秀才がじっくりと研究開発に取り組むこともできるから、多くのことが実現されるのさ」
「だから先生も」
「その通り。あの頃は君の倍以上の年齢だったけど、今や肉体年齢で言えば同じくらいだろう。ちなみにどうしてぼくがここにいるかだけど、この世界の人は時々、外部から新しい人を入れるのさ。有望そうな人間にこちら側から接触するのが主だ。古典ギリシャ語やギリシャ文化に通じている人間が選ばれやすいらしい。異なる言語の間での会話を補助する魔法もあるけど、できれば魔法抜きで会話できる人間が良いらしいね。文法や単語を知っている人間ならば、実際の会話をすることですぐに習熟することができる」
「そうか。先生はギリシャがお好きでしたものね」
「ああ。自分を見つめ今後の人生のことを考えてみようと思いヨーロッパ旅行に出たのだけど、ある村を訪れた際、大切に保管されている壺があるという話を聞き、見に行くことにした。実はその話をぼくにしたのが、この世界の住民で。ぼくにこの世界を案内してくれた上で、移住を希望するかどうか尋ねた」
「そして移住されたのですね」
「そうさ。親や友人たちには悪いことをしたと思うけどね。この世界の秘密は濫りに話してはいけない決まりになっているし、言っても信じてはもらえないだろう」
「はい」
「移住して当分は、向こうの世界に行ってはいけない決まりでもあるからね。この前はぼくの初めての、いわば里帰りであって、久し振りに映画を見たりファーストフードを食べたりした」
「先生ったら。それにしても素敵な世界ですね」
「これから食事の時間だ。仲間に紹介するよ。一緒に食べよう」
「はい」
10名ほどでテーブルを囲んでの食事であり、楽しい食事であった。その場の会話は古典ギリシャ語が少し変化した言語によって行われていた。詩織は、自分では話すことはできなかったが、聞き取ることは結構できた。
20年くらいかけて書いている長編詩がいよいよ完成しそうだとか、知り合いが作曲に凝っていて近々、仲間と一緒にそれらの曲を披露する演奏会を開く予定であるとか、そういう会話であった。
「寝そべって時々吐きながら続けるような不健康な食事は、この世界では元々やっていないそうだ。健康的で上品な世界なのさ」
食事が終わって、再び2人きりになり、樹々の下を散歩し始めた時に、高橋は言った。
「君のこれまでの人生について教えて欲しいな。真面目そうな生徒で、ぼくの話を熱心に聞いてくれていたから、印象に残っていたのさ。そして、どういう大人になるのかも少し気になっていた」
詩織は話した。高校のこと。大学のこと。大学院のこと。美術館でも少し働いたこと。しばらく前から翻訳の仕事も少ししていること。
「充実しているね」
ここで高橋は真面目な顔になった。
「さて。君が壺を覗き込んだ時に、こちらからも働きかけをして、それで君はこっちの世界に来た。そういう補助があったにしても、1人でこっちの世界に入って来られるくらいだから、君にはこの世界に移住を希望するならそれができる資格はある。そしてぼくは、こっちの世界である程度認められているから、新しい人を1人入れるくらい可能だ」
「はい」
「どうする? もし、こっちの世界に住むということになると、向こうの世界の時間にして10年間くらいは、向こうに行くことはできなくなる。いったん向こうに行って愛読書とか大切な写真とか幾つかの物を持って来ることは可能だけど、知り合いへの別れの挨拶はしてはいけない。また、」
「そうですね」
すごく魅力的な話だと思った。恋を楽しむこともなく過ぎ去ってしまった10年の歳月も、初恋の相手とお似合いの年齢になるための時間となったならば、幸運のための必然だったことになる。
「でも、ちょうど先輩から、楽しそうな仕事に誘われたところなのです」
詩織はその経緯を話した。
「なるほど。ちなみに、この世界への移住の話は、たとえば現時点で断って3年後にまた誘ってくれるように頼むとか、そういうことはできないから。自分で決断してね」
「はい」
彼女は悩み始めた。真剣に悩んだ。やがて高橋は、
「2週間前のあの時に、声をかけておけば良かったかもしれないね」
と、言った。
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