278 ▽挿話・甲板上

 少女は部屋に戻る気にはなれなかった。

 息苦しい部屋にいると気が滅入ってしまう。


 外の空気を求めて、甲板に出ることにした。

 冷たい風が頬を撫でる。

 やや肌寒いが、ねっとりした空気で満たされた船室よりはずっといい。


 巨大な白い帆を持つ帆船であった。

 少女たちを乗せ、真っ暗な海を切り裂いて進む船。

 これはミドワルトと呼ばれる異なる文明圏から来た使節団のものらしい。


 少女は今まで、そのような世界があることすら知らなかった。

 とても気の休まる所ではないが、今は彼らしか頼れる者がいない。


 船の舳先へ向かい、手ごろなところで手すりに腰掛ける。

 そのまま上体を投げ出すように海面を見つめた。


 黒。


 山育ちの少女は、海というものを見たことがなかった。

 吸い込まれるような夜の森よりも深い闇色の海面。

 それを見ていると、不思議と心が落ち着く。


 しばらくの間、少女は何を考えるでもなく漆黒の闇を眺めていた。


「ああ、こんな所にいたのか」


 男の声が背中にかけられた。

 少女は振り返らずに海面を見つめ続ける。


 足音が近づいてくる。

 今、この船で自分に話しかけてくる人物は二人しかいない。

 片方は弟の大五郎。

 そして、もう一人は……


 足音がすぐ傍で止まった。

 少女は視線をゆっくりとそちらに向ける。


「こんな所にいると風邪引くぜ」


 菜の花色の髪の青年が少女を見ていた。

 言葉遣いは乱暴だが、優しい表情をしている。

 青年は少女の隣に並んだ。


「何を見ていたんだ?」

「海を……見ておりました」


 別に隠す必要もない。

 少女は正直に答えた。


「海が好きなのか」

「好きというわけではありません……何となく、眺めていただけです。山育ちなもので、海というものが物珍しいのです」

「そうか」


 青年がフッと微笑んだ。

 少女は視線を再び海面に落とす。

 星明かりを照らす遠くの海ではなく、すぐ側の真っ暗な海に。


「あまり身を乗り出すと危ないぜ」

「こうしていると、気持ちが落ち着くのです」


 少女はじっと海を見ていた。

 青年はそれきり何も言わなかった。

 ただ、黙って少女の側に立っている。


「あなた方には本当に感謝しております」


 闇を見ながら、少女は呟いた。


「もし、あなた方が通りかからなければ、私たちは確実に野垂れ死んでおりました。ですが……」


 少女は言葉を濁した。

 この青年は自分たちを気遣ってくれている。

 それはわかるが、心を開いて話すのは躊躇われる。


 彼らが使う『邪悪な力』が、少女にはどうしても引っかかっていた。

 あんなことが会った後だからこそ特に、自分と弟以外は全て敵に見えてしまう。


 青年は無理に続きを促すことをしなかった。

 代わりに、気遣うような言葉をかけてくれる。


「しばらく船旅が続くから疲れも溜まるだろう。不自由なことがあればすぐに言ってくれ」

「大丈夫です。助けていただいた身ですし、我侭を言うつもりはありません」

「ワガママなんて事はない。そもそもこっちが無理を言ってミドワルトに連れて行こうとしているのだから――」

「それに」


 少女は男の言葉を遮って言った。


「大五郎が……弟が一緒ですから。あの子がいればなにも辛いことなんてありません」


 何があろうと。

 それは少女の本音だった。

 そうだ、自分たちは助かった。

 弟と二人で生き延びることができた。


 それ以上、何を望むことがあるのだろう。

 それ以上――


「っ!?」


 突然、少女は胸に強いしこりを感じた。

 小さなうめき声を上げ、手すりから離れる。

 男が心配そうに背中を支えてくれた。


「どうした?」

「いいえ、なんでも……」


 やんわりと男の手から抜け出し、小さくかぶりを振る。

 胸のしこりはすでに消えていた。


 今のは……

 今のは、なんだったんだろう。

 一瞬の奇妙な感覚。

 すでに消えてしまったけれど、確かに強く感じた、あれは……


「本当に大丈夫か? もし体の具合が悪いなら、すぐに船医を呼んでくるぜ」

「なんでもありません……心配しないでください、疲れが溜まっているだけですから……申し訳ありませんが、部屋に戻らせてもらいます」

「無理はするなよ。俺はこれから一時的に船を離れるが、もし何かあれば医務室の室長に相談しろ。きっと相談に乗ってくれるはずだ」

「ありがとうございます、ぐれいろおどさん」


 少女は男に一礼すると、踵を返して足早に船内へと戻っていった。


 背中に視線を感じる。

 男が少女を見ているようだ。

 不自然な態度だっただろうか?

 だが、これ以上あの場に残るわけにはいかなかった。




   ※


 自室に戻るために廊下を行く。

 その途中で船員二人とすれ違った。


「ってー……」

「マヌケだなあ、自分の手を縫っちまうなんて」

「うっせー。裁縫は苦手なんだよ」


 男の一人は、糸の通してある針と修繕中らしい衣服を抱えていた。

 会話から察するに、裁縫をしている最中に誤って針で自分の指を刺してしまったようだ。

 指先からポタポタと赤い雫が垂れ落ちている。


「あー、消毒液とか部屋に残ってたかな」

「ほっとけほっとけ、唾付けときゃ治る。大げさなんだよお前は」


 少女は立ち止まり、通り過ぎていく男たちをじっと見つめていた。

 男の指から滴り落ちる、真っ赤な血を。

 その顔に笑みを浮かべながら。

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