冥界のザクロ

kasyグループ/金土豊

第1章 生命の代理

北海道帯広市の中心街から南西へ25キロほど行った場所に、


その建造物はあった。




食肉対策研究センターというのが、その建物の名称である。


約16ヘクタールという広大な敷地の周囲は、高さ3メートルという


フェンスで囲まれている。




純白の外観を持つ研究所自体は広さ7ヘクタール、


地下2階、地上5階建てという巨大なものだった。


上層階の西の窓からは、十勝幌尻岳が望め、眺望も素晴らしい。




建物の南側は乗用車500台を収容できる駐車場があり、


南東側には、これも巨大な畜舎があった。


畜舎には肉牛約200頭、豚約100頭を飼育している。


その家畜へ供給するための、体育館を思わせる、


膨大な飼料保存用の倉庫は北側に建てられていた。






この食肉対策研究センターは政府の外郭団体で、


ある研究のために設営された。




その研究とは5年前から実行された、<人口肉>の開発プロジェクトである。




<人口肉>とは、人工的な環境下、遺伝子工学によって、


細胞を培養することで生産される食肉のことだ。


クローンとはまったく別次元からのアプローチで、生命の宿っていない


純粋培養された<肉>を製造しようというものだ。




すでに<人口肉>なるものは製造されている国は存在している。


しかし、それは肉繊維の無いもので、ハンバーグなどに使われているのが


現状だ。この食肉対策研究センターでは、血の通った本物同様の食肉を


製造する目的をコンセプトとしている。






この<人口肉>の研究開発の目的は、大きく分けて5つある。




1つは近年上昇を続ける輸入肉の増加だ。


そのため、日本国内の畜産業者は、経営に喘いでいた。


現在、外国からの輸入肉は牛肉で6割、豚肉で4割に至っており、


それは年々その割合を増やしている。


(鶏肉では、2割ほどで、まだ大きな脅威とはなっていない)


それだけに経済的観点から見ても、畜産業の復興は急務ともいえた。




それに<人口肉>開発が成功すれば、数頭の優秀な食肉用家畜を


安全に飼育していれば、屠殺することなく、


可食部の細胞さえあれば、それを培養して理論上は


無尽蔵に製造できることになる。


この技術を畜産業者に付与・教育することによって、


広大な牧場や大量の飼料にかかる経費を大幅に削減可能にする。




2つ目は、肉食を常に必要とされている、


主に西欧諸国との経済的な有利性を掲げている点だ。


それは最初の目的への、逆説的転換である。


もし世界の先進国に先駆けて<人口肉>の製造が可能となれば、


巨大なマーケットを手に入れることになり、


多大な輸出による利益は莫大なものと予想された。




そして3つ目は、倫理上の問題だ。


これは1つめの理由にも関係してくる。


食肉用の製品を製造することはすなわち、屠殺―――


他の哺乳動物の生命を奪うことを前提としている。


特にそれらの食用肉を常食として、


必要不可欠にしている西欧諸国に対しては、


その非情的、暴虐的とも見えかねない行為は、


国際世論の非難の的になっている事実は、


決して小さなものではなかった。


最近は世界各国に増えつつある、


ベジタリアンやヴィーガンと呼ばれる、


菜食主義者もしくは完全なる菜食主義者を主張している人々の


潮流は、大きなうねりとなりつつあり、


決して無視できないものになっている。


これが家畜を屠殺することなく、食肉を生産することができれば


良心の呵責を感じることも、払拭されることになる。




4つ目は食糧危機問題である。現在、世界の餓死者数は


年間で8億500万人にも及んでいる。


食肉は人間の食生活にとって、絶対条件ではない。


だが、国や民族の違いに関わらず、


米や麦など穀物を食さない人はほとんどいない。


周知のごとく、パンなども小麦から作られる。




それに対して、家畜が食べる穀物の量は膨大で、


その穀物を飢餓に苦しむ人々に与えれば、


約20億人を救えるという試算が出ていた。




5つめは地球環境への懸念である。動物性食材は、


タンパク質の37%、カロリーの18%しか


提供していないにも関わらず、


世界の農耕地の83%、地球温暖化のガス58%、


水質汚染の57%、大気汚染の56%を占めていることが、


今日ではわかっている。




つまり地球環境にとっての費用対効果が、あまりにも非効率的と


いわざるをえないということだ。


これが現在の100分の1以下の家畜頭数で賄えるとなれば、、


この問題も解決されると考えられた。




これら日本国内畜産業の保護、そしてその経済発展と、


国際的な環境問題を一挙に解決することが期待されるのは、


この食肉対策研究センターの研究している


<人口肉>開発如何にかかっていた。


それゆえ、日本のバイオテクノロジーを結集した研究ともいえた。


と同時に、極秘の最高国家機密として、ごく限られた人々にしか


このプロジェクトは知られていない。




この食肉対策研究センターの上層部である5階部分は、


研究所所長のオフィス、コンピュータ担当者、経理部や総務部、


そして各省庁から出向してきた


官僚のオフィスや居住区などが整えられている。


研究施設は地下2階にあり、地下1階部分は、


研究者らの居住区となっている。




居住区は、勤務する研究員やその他の人材が快適に暮らせるよう、


レクリエーション設備やスポーツジムも完備していた。


それは上層階だけではなくて、地下の研究室も同様に設けられている。




そしてここには厳格な大原則があった。それは特別な理由が無い限り、


この研究所の敷地からは外出することを禁じられていたのだ。


それは外部への情報流出を最大の懸念としてることに他ならない。


そのため、外出の際も、その身分、役職に関係なく、


厳しい身体検査が行われる。


データの持ち出しは厳禁であり、口外することも同様で、


義務違反をすれば、特定秘密保護法に抵触することとなっており、


厳しいペナルティが科せられることになっていた。


インターネットも幾重もの強固なセキュリティを施されていて、


ネット上にへの情報流出、外部からのサイバー攻撃に備えられている。






「順調に細胞増殖をしているようだな」




眉村喜市は顕微鏡の接眼部を覗きながら、瞬き一つせず言った。


今、レンズを通して見ているのは、


北海道産黒毛和牛の体組織であった。




彼は人口肉研究開発部の主任である。


中年にさしかかる歳ではあったが、


髪には白いものがわずかに混じっている。


精悍な顔つきの男で、それに見合うように身体もスリムだ。




「ええ、ゲノム解析が早く済んだことが、功を制しましたね」




そう答えたのは、冨野有希だ。


彼女は3年前に首都大学遺伝子工学科を


卒業したと同時に、この研究所の助手として参入した女性だった。


肩まで届く黒髪を、束ねてポニーテールにしている。


年齢より若く見え、可愛らしい顔立ちだ。




二人とも、白衣を着ていた。他の研究員も仕事にかかる時は同様だった。


ここには他に4人の研究員がいた。


総員6名という、巨大プロジェクトとは思えない少人数だ。




その理由には、少人数であれば機密の漏えいを危惧を、


最小限に抑えられることにある。


それに、いかに広大な地下施設でも、


1日のほとんどの時間を研究にあてている場合、そのストレスは


無視できない。人数を必要最小限にすれば、それを軽減できるのでは


ないかという研究所所長の豊田宗厚の考えが反映された形だ。




「でも、ぐずぐずしてられませんよ。


アメリカに先を越されちゃ元も子もないですからね」




眉村と冨野の会話を聞いていたらしい男が、


二人のいる第一研究室の自動ドアから入って来るなり言った。




彼の名は小松悠太郎。黒毛和牛のゲノム解析をやってのけた、


若き研究員だ。


頭の側面を刈り上げた2ブロックの髪型に、丸い顔をしている。




眉村は顕微鏡から目を離すと、ため息混じりに言った。




「たしかにそうだ。一刻も早く、


WIPO(世界知的所有権機関)の


PCT(特許協力条約)で国際特許を申請しないとな」




そもそも国際特許というのは概念上のことであり、


確固たるものは存在しない。


だが、世界的に影響を与えると予想される発明などを


保護する目的で、補償された国際条約―――それがPCTだ。


現在、その締約国は152ヶ国に及んでいる。




「そうですよ。年間30億円以上の研究予算を


もらってるんだから、結果を出さないと」




小松は苦笑を浮かべながら、皮肉を言った。




眉村の視線は、小松が持っている手のひらサイズのアルミ合金製の、


冷却ポットに注がれた。それは生体を壊すことなく、


二酸化炭素で冷却保存できる特殊なものだ。




「それは何だ?」と眉村。




「新しい成長因子を改造、抽出しました。


これで増殖が加速されるかもしれません」




と小松が答えた。




「改造?どうやって?」




眉村は両目を細めて訊いた。




「それは後で、説明します。光瀬先生たちに連絡しましょう」




そう言うと、小松はにんまりと笑った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る