2章 しらないこと
第4話 光揺らぐ
がやがやと騒がしい食堂の中。大きめの窓からは、暖かな陽射しが伸びてきている。ちょうど昼ごろだからか、人がたくさんいる。少し時間をずらして来るべきだったかな、と今更思う。大学の食堂なんて数年前に卒業して以来だ。見知らぬ場所なのに、どこか漂う雰囲気が懐かしく感じて、気が緩んでしまいそうだ。途端、お腹がぐうと鳴って、慌てて手のひらでおさえる。誰も聞いていないだろうに、少し恥ずかしくなる。
今日はご飯を食べに来た訳ではなかった。
ある人を探しに、再び私はここに来ていた。家から数駅で着く私立美大ーー杷野美術大学に。
私は辺りを見回す。着いた当初は、黄色のボブカットの男性なんてそんなにいないだろうと高を括っていたが、意外にキャンパス内にいた。前回芝生で会えたのが不思議なくらいだ、と何人めかの人違いが発覚した辺りで私は気付いた。そういえば、何科の人かも知らない。これでは探しようがないじゃないかと、途方に暮れてしまった。意気揚々と家を出た時に持って来た気概は、とっくのうちに萎んでしまっていた。だからせめてもの元気付けと慰めのために、私は食堂に来ていた。
そう、これは休憩、と自分に言い聞かせ、山のように積まれた淡い色のトレーを一枚持って、カラフルな格好の学生たちの列に紛れる。なんとなく、おしゃれな人が多い気がする。あと、奇抜な人も何度か見た。
よくサークルの人たちで、お昼食べてたよなあ、と学生時代を思い出す。くだらないことで盛り上がれて、合宿と言いながらも旅行にも行ったっけ。あの気弱な後輩は元気だろうか、と考えていると、前を見慣れた髪色が横切った。
まさか、と思い、通り過ぎた人物の後ろ姿を見る。黄色のボブカットに、サスペンダー。少しだけ見えた、通路を歩く横顔は、少し細めの目と太い赤縁眼鏡。
見つけた!と言おうとしたところ、「はい、食券出してねー」とおばちゃんに言われる。あ、はい、と返事をして、手で持ったままだった券を渡す。
キャンパス中央の広場が見渡せる、窓際の机に上町達はいた。突然現れた私に、上町は少しだけ目を見開き、途端不機嫌そうな表情に変わる。気づいたが気づかないフリをしてそっぽを向く。軽く片手をあげて、私は話しかける。
「お久しぶり」
「なぜまた居るんですか」
じろりとした視線を上町は寄越してきた。
「あ、おひさしぶりです」
朗らかな笑顔で佐々木はゆっくりと頭を下げる。
「あ、あの、こんにちは」
戸惑いながらも、傍に一緒にいた女の子は、栗色の内巻きにした髪を揺らして言った。小柄な子で、高校生や中学生と間違われそうだな、と思った。小さめの手をぎゅっと膝の上で握りしめている。こんにちは、と返すと、ぺこりとお辞儀をされた。小さな口を動かして彼女は言う。
「初めまして、紀国といいます」
「丁寧に、どうも。私は、倉阪 葵」
「で、何の用ですか」
上町は会話を割って入ってきた。
「実は、大事な話があって。放課後、ちょっと話につきあってほしい」
「嫌です」
「聞いておかないと後悔すると思うよ?」
私は試すような口振りで言ってみる。上町は視線を合わせない。以前、店で会った時よりも手ごたえがない。不安に思うが、ここまで来て後には退けない。佐々木も、いいの?と確認するが、特に返答はしない。紀国は上手く状況が飲み込めないようで、上町と私の顔を交互に見ている。
「まあ、いいや。また勝手に待つから」
言うだけ言って、私は彼らの元を去る。選択肢は「待つ」しかなかった。
どうしても、伝えなければいけない事がある。
このまま帰ってしまったら、きっと後悔する。
そう自分に言い聞かせながら、私は運良く1人分の席が空いていた長机の席にすべりこみ、ぱん、と手を合わせる。
***
倉阪の姿が遠ざかっていくのを見届けると、佐々木が話しかけてきた。
「さっきのって、この間話してたコンビニで働いてるひとだよね?」
「まあ、そうだな」
「初めて話す感じじゃなかったけど、どこかで会ったの?」
「まあな」
「へえ」
「気になるのか?」
「そうだね〜…うん。なんか、気になること言ってたけど、ほんとに話聞かなくていいの?」
「いいんだよ、放っておけば」
「そうかなあ」
「それより、そろそろ昼休み終わるぞ」
壁にかかった時計を指差して言う。
「え、もうそんな時間?移動しなきゃなあ」
佐々木は立ち上がりながら言う。
「上町くんときのちゃんは、次授業どこでだっけ?」
「わ、わたし、次は空きだから、アトリエ行こうかと…」
「自分も。じゃ、行くか」
あいかわらずのんびりとした様子の佐々木と、何故か少しそわそわし出す紀国と一緒に、トレーを下げて食堂を出る。
「あ、とろろだ」
紀国が嬉しそうに言う。食堂の出入り口の傍にある小さな小屋から、のっそりとした足取りで、小太りの茶トラ猫が出てきていた。眠そうな目で、にゃあ、と小さく鳴く。キャンパス内には、何匹かの猫が住み着いていて、学生達に可愛がられている。佐々木と紀国はしゃがみ込んで、とろろと呼ばれた猫を撫でている。とろろは気持ち良さそうに目を細めていて、幸せそうに見える。自分はその様子を数歩離れて見ていた。猫は苦手で、無意識に距離をとっていたことに気づく。小さい頃の記憶が一瞬、過ぎ去っては、消える。
「もう時間だけど」
自分が言うと、佐々木ははっとした様子で立ち上がる。
「じゃ、僕急ぐね!」
慌てて、講義棟への道を走っていってしまった。後に取り残された自分たちは、佐々木と、とろろの歩いていく姿を見送ってから、アトリエに続く階段を上っていった。
***
キャンパス内の図書館で見慣れない雑誌をめくって過ごし、陽が傾いた頃。ふあ、とあくびが出る。私は校門の脇の花壇の前で待っていた。道を挟んだ向かい側の空き地の空に、鮮やかな橙色の夕日が浮かんでいる。ぼんやりとそれを眺めていると、微かにチャイムが聞こえてきた。しばらくして、ぽつぽつと学生たちが歩いて来る。脇にある駐輪場から、自転車に乗った人も通り過ぎる。
すると、颯爽と赤色で細身のフレームの自転車が見えた。学生でも洒落たやつに乗ってるな、と思いながら見たら、上町だった。逃げられないようさっと目の前へと立ちはだかる。けたたましい、大きなブレーキ音が鳴る。あと数センチでぶつかっていたかもしれない。内心ひやりとしたが、咄嗟に思いついたから荒っぽいやり方でも仕方がない。無理矢理に進路を止められた上町は、若干舌打ちをした気がする。仮にも歳上なので敬ってほしいと思うが、振り回しているのは自分なのでおあいこだ。
「そこにあったファミレスで話そうか」
私は大学に来る道の途中で見た、ファミレスの看板を指差した。どこにでもある馴染みのチェーン店だ。
上町は自転車を降りて言う。
「あんた、物好きですね」
若干の皮肉。まあね、と受けて流す。
安っぽいチャイムが私たちを出迎えて、緑色のエプロンをした店員がやって来る。人数、禁煙を伝えて、窓側のテーブル席へと通される。辺りに学校があるからか、学生達の姿が目立った。高校生と大学生が多い。ぎゃはは、と少しうるさい声が中ほどのテーブル席から聞こえた。
「何か頼む?」
私は席に着きながら聞く。席にあらかじめ置かれていたメニューを、上町はちらりと見る。
「ドリンクバーがあればいいです」
長居はしないつもりらしかった。テーブルの傍らのベルを押し、店員にドリンクバー2つ、と伝える。特に嫌な顔はされなかった。学生が多いからなのか、ちょっとだけありがたかった。
各々飲み物を取ってきて、座り直す。ブラックコーヒーとサイダー。飲み物だけ見たら、大人と子どもで来たのかと勘違いされそうだ。窓の外はとっぷりと暗くなっていて、ぼんやりと黒く建物の影が象られていた。新しく開発された土地なのか、どの家も建設中らしかった。電柱に取り付けられた街灯が、所々道を照らしている。そして、時折何人かの賑やかな話し声が窓の前を通り過ぎる。
「で、話って何ですか」
早々に話題を切り出された。心の準備は上町を待っているあいだにしたはずだったが、私は、少し言い淀む。眼鏡の奥の目がじっとこちらを見ている。
「その、言いづらいことなんだけど」
「ええ」
「最後まで聞いてよ」
「はい」
「…紀国ちゃんが、通り魔に襲われる」
上町の動きが、一瞬止まる。
「授業の帰りか、分からないけれど、灯りの少ない夜道を歩いてる。そこに、後ろから誰かが、やってきて…襲われる。どんな人かは、分からない。ただ、とても動きが素早かったのに、体が大きかった事は覚えてる」
少し間を置いて、そして、微かにため息を吐いた。
友達が事件に巻き込まれると告げられるのは、気持ちの良いものではないだろう。分かった上で、私は反応を伺っていた。続けるべきか、返答を待つべきか。言い出したくせに、私は迷っていた。
上町は舌打ちした。先程より大きな音で。
「それ、本気で言っているんですか」
眼鏡の奥の目は苛立っていた。
「ええ」
「前に、言いましたよね?必ず起こるとも限らないと」
「覚えてる」
「こうなるかもしれない、と言い渡される側の気持ち、考えたことあります?」
少し怒っているような声で、上町は言う。私は唇を噛む。
不安な状況に陥らせる言動だとは感じていた。だけど、可能性があるということは、事情を知っているとはいえ、伝えておくべきだと思った。それは上町達のためなのか。そんな綺麗事でもないような気がした。
「考えていない訳じゃない」
「だったら」
「可能性があるなら、私は変えられる方に賭けてみたい」
上町は口をつむぐ。
信じたくない。
それはそうだろうと、私も思う。
事情をある程度知っているらしい上町はどう返してくるのかと、私はある種期待をして話題を持ち寄った。お互いに何も発さない時間が経つ。
けれど返答は、ぞんざいなものだった。
「じゃあ、自分は帰りますから」
上町は立ち上がろうとする。
私は虚を突かれた。
答えはあるようで無かった。
上町は、席を離れようとする。この間、2人で駆け込んだ店でのやり取りが思い出される。また置いていかれてしまうのかと思い、私は行く先を防ごうとした。呼び止めるために、私は口を開いた、その時。
上町の身体が、不自然にぐらりと傾いた。急に力が抜けてしまったかのように、膝ががくんと落ちる。バランスを崩して、手を伸ばさず、そのまま店内の床へと倒れこんだ。へ、と間の抜けた声が私の口から漏れた。
「ちょ、ちょっと、上町⁉︎」
駆け寄って肩を揺らしてみるも、反応がない。
どういうことだ。
近くの席に座っていた女の子達は、驚いた様子でこちらを見ている。頭の中が真っ白になり、店員さんを呼ぼうと顔を上げる。するとーー
「あれ、上町くん⁉︎」
聞き覚えのある声が、聞こえた。
***
電灯の照らす夜道を歩く。電灯はぽつりぽつりと頼りなく点いていて、時折点滅するものもある。上町は、佐々木くんに背負われていた。紀国ちゃんも一緒で、見通しの悪い道が多いためだろうか、道が交わる所に差し掛かるたび、車が出て来ないかをきょろきょろと確認している。佐々木くんが、きのちゃんありがとうねー、と言うと、紀国ちゃんは照れて笑った。2人の穏やかなやりとりとは対照的に、私は先程起こった事態が飲み込めないでいた。
上町が倒れた直後、現れたのは佐々木くんと紀国ちゃんだった。佐々木くんは何度か上町に呼び掛けをし、反応がないことが分かると、迷いもなく背負った。そして、
「アパートに向かいましょう」
と言った。何が起きたのか分からない私を落ち着かせるように、
「ついて来てください」
と柔らかな口調で言った。
足早に店内を去る佐々木くんと、それについて行く紀国ちゃんを回らない頭で見届けた後、私は支払いを手早く済ませて店を出た。
年数の経った、だけど小綺麗な白色をしているであろうアパートに到着する。夜なので、本来の色はいまいち分からない。それは6室くらいの大きさのもので、やけに足音を響かせる薄い金属製の階段を上り、通路を少し先に進んだ所、あるドアの前で立ち止まる。脇には203とかかれたプレートが貼られている。佐々木くんは上町のリュックから鍵を取り出し、これまた薄い部屋のドアを開いた。スイッチを手触りで探り、電気を付けると、整頓された室内が目に入った。木製の格子状の棚が壁の一面にあり、もう一面には動植物や、ミルクを落とした直後のコーヒーのグラス、木漏れ日、朽ちかけた壁などの写真が、無造作に乳白色のテープで貼られていた。その下にあった簡素なベッドの上に、佐々木くんは上町をそっと下ろしたーーすると、ほぼ同時に上町が目を覚ました。
「あれ、」
言いかけて、止める。
「大丈夫?」
すぐさま、佐々木くんと紀国ちゃんが呼びかける。上町は目を擦って、何度か瞬きを繰り返す。手の甲を顔の上に掲げて、そしてかすかなため息をつく。暫くして、鋭く息を吸って言う。
「大丈夫」
手をついて、起き上がって言う。
部屋の中をゆっくりと見渡して、私の姿を見つけると、ばつが悪そうな顔をした。重そうな口が開かれる。
「すみません。驚かせてしまいましたよね」
平たく気持ちのこもらない声音だったが、突然の謝罪に、私は面食らってしまった。
「いや、気に……しなくていい」
私は首を左右に振る。私は何と言ったら良いかわからなかった。黒髪が遮って揺れる。
「その、怪我とかはない?」
「特には」
「そう……良かった」
先程まで眠っていたことが嘘のように、上町の受け答えははっきりとしていた。佐々木くんと紀国ちゃんは、よかったー、と顔を見合わせている。普通だったら、救急車を呼んで対処しそうなものだ。だけど、そうしなかったと言うことは…こういう事は、何度か起きているということなのだろうか?
1人置いてけぼりにされているようで、私は頭を巡らせて考える。
ねえ、と聞こうとして、私は口をつむぐ。普段だったら、立ち入って聞くところだった。店での上町の様子を思い返す。
聞きたくもない。
そんな意思表示が少し見えた気がした。
引き際と立ち入りの具合が、私は今でも分からない。中間の方法を選んで余白を作るしか、打開策は考えられなかった。
とりあえず、佐々木くんたちがいる前で、話の続きは出来そうにない。思いついて、私は鞄に入れていたペンとメモ帳を引っ張り出す。手早くメモをすると、1ページだけ千切ったそれを、私は上町に突き出した。
「話の続き、ここに電話してくれたら話すわ」
私は賭けに出た。上町はすこしだけ目を見開いた。
受け取ってはくれないだろうと予想していたので、近くのテーブルにそれを置く。それじゃ、と言って、足早に私はアパートを後にした。目の前で起こった出来事を思い返しながら、元来た道を通っていく。帰り道は苦労したが、どうにか駅前の通りに出て、家へと帰った。
翌日。
朝食を終えた頃に、見覚えのない電話番号から私のスマートフォンへと着信があった。恐る恐る通話ボタンを押し、もしもし、と問いかける。暫くの間のあと、
「昨日の」
呟いた声が聞こえた。上町からの電話だった。
「聞いた話の続きだけど」
「うん」
「それは、いつ起きる?」
その言葉を聞いた瞬間、ふ、と体が持ち上がったような心地がした。
そうこなくちゃ、と私は勢いづいた。
***
時刻は夜19時頃。
電灯の少ない住宅街。昨日通ったところとは、似ているけれど違う道。私達は気付かれないように、彼女の小さな背中を追いかける。紀国ちゃんはどこかに向かっていた。上町の話によると、今日は5限まで授業があったのでこの時間に帰宅だという。住宅街は細い道がいくつもあり、交わるところが複雑になっているためどこを歩いているのかが分からなくなりそうだった。地図アプリを立ち上げて確認するも、ここまで細かい道だと、現在地の印は定まらず頼りないものでしかなかった。
段々と、風が強くなってきていた。天気予報では、夜になるにつれて風が強まるとのことだった。辺りの植木の葉がざわついて、黒い影になって揺れている。
電柱や家の影に隠れながら、私達は背中を追う。私は記憶の中で見た街並みを必死に思い出そうとしていた。何か、特徴のある家や、標識はなかったかどうか。映像の端から靄がかかって、おぼろげな形に変わろうとしているのを掴もうとする。うんうん私が悩んでいると、不意に、上町が私の肩を叩く。何事かと見ると、首を振ってあっち、と方向を示した。紀国と私達の間の道から、ひょっこりと2つ、何らかの影が出てきた。私と同じくらいの背と、膝あたりの背で四足歩行のもの。私は身構えたが、電灯の下に歩いてきたそれらは、散歩中のおじさんと犬だった。犬はすらりとしているが逞しい脚をしていた。警察のドラマで見た事があるような犬種だった。ひょこひょこと歩く犬は、つやつやとした瞳を持ち、真っ直ぐ歩く先を見つめる。そうして、紀国の姿を見つけるとーーぴん、と首筋を伸ばした。
突然立ち止まったため、飼い主がどうした?と犬を見る。途端、弾かれたように犬は走り出した。飼い主は驚いて、その拍子に持っていた手綱を放してしまった。振り返りもせず一心に、犬は紀国の背中めがけて走って行く。
私が見たのは、通り魔ではないのでは?そんな考えが頭を過った。もし、夢で見たあれが、人でなくて。
あの犬だとしたら?
夢で見た事がそのまま起きるとは限らない、と上町に言われたことを思い出す。
まずい、と私は思った。
もし、あの犬が紀国を襲ってしまったら。
上町が、どうした、と呼びかけてくる。私は何も言わずに走り出した。待て、と言った上町の言葉を蹴散らして、私は道へと飛び出す。急いで犬の後を追う。
軽やかな四足歩行で、犬は飛ぶように駆けていく。全力で走るも、なかなか距離は縮まらない。普段からもっと運動しておくべきだったな、と頭の片隅で考えながらも、精一杯走る。しんと静まり返った住宅街の道を、2つの息遣いと足音が走り抜ける。電灯の白い光が視界の端でちらつく。気管が狭くなったように感じ、息をするたびに喉を鋭いものが通る心地がする。足はじんと痛んで、履いてきたスニーカーの紐はいつの間にか解けてしまっていた。走りづらいが、止まる訳にはいかない。距離は中々縮まらない。気持ちだけが焦って、体がついて来ない。不意に、犬が一声鳴いた。その鳴き声に、紀国は振り向く。犬と紀国との距離は、あと5メートル。駄目、と口を開いた、その時。
「モナカ!」
紀国はぱっと柔らかな笑顔をみせた。へ、と私は間抜けな声を出す。
モナカと呼ばれた犬は、思いきり紀国に飛びつくと、手をぺろぺろとなめだした。紀国は受け止めるが、勢いあまって一緒に倒れこむ。モナカは尻尾をぶんぶん振って、嬉しそうだった。紀国は、わ〜、お散歩中だったの?と話しかけている。慌てて、私は脇道の塀へと身を隠す。幸い、姿を見られてはいないようだ。こっそりと、私は1人と1匹の様子を伺う。私の後を追ってきたらしい飼い主が、息を切らしながらやってきた。
「やあ、ごめんね。最近あんまり会えてなくて、久しぶりに見かけたものだから、モナカも嬉しくなっちゃったみたいだね…」
飼い主は頭をかきながら言った。気のよさそうな、小太りのおじさんだった。
「いえ、私も、会えて嬉しいです…!まさか、こんな所で会えるとは思ってもなくて…ちょっとびっくりしてしまいました」
モナカのラブコールを受けながら、ぺこりと、紀国は頭を下げる。
「……あれ、そういえば、俺の前を走っていった女の人が居たけど、何処行ったんだろうな」
びく、と私は身を震わせる。気付かれないように、そろそろとその場から離れる。
いくつかの道を適当に曲がって進んで、だいぶ遠くまで来たかな、と思い一息ついた所で、ばったりと上町に遭遇した。急に現れたから、変な声を出してしまった。
「待てって言ったんですが」
「ごめん、聞こえなかった」
「あれ。紀国の近所の家の犬で、毎朝挨拶してるからか相当懐かれてるようですよ」
「そうだったの…。襲われるかと思って、助けなきゃ、って思って…走り出しちゃった」
はあ、と上町はため息をつく。
「早とちりもいいところですよ」
「そんな事情知らないし、しょうがないでしょうよ」
でしょうね、と上町は言って、駅の方向へと歩き出す。私はつっかかる物言いに腹が立ったが、今回立ち会ってくれた事を思い出して、まあ、いいかと思い直す。上町を追いかけて、隣に並んで歩く。
「心配して損した」
「まあまあ、無事でよかったじゃない」
明らかに不機嫌そうな顔で上町は私を一瞥した。私は気づかぬふりをして続ける。
「しっかし、犬が好きなんだなー、紀国ちゃんは。すごい嬉しそうだった」
「そうですね」
他愛のない会話をしながら、細い道から広い道へと歩いていく。車の通りも多くなってくる。歩道に立っている電灯の元に、羽虫が何匹か集まっているのが見える。
上町が、ふと小さく呟く。少し、忌々しそうな様子で。
「あいつの言う通りだった」
大きな虫が灯りに当たって、ばち、と音がした。
今、何と言った?
上町の方へ振り向く。
なんですか、いきなり、と訝しげな視線をこちらに寄越してきた。
「今、上町、なんて言った?」
「あいつの言う通りだったな?」
「あいつって、誰?」
「昔っからの友達。やけに知った顔して話すけど、勘が鋭いやつが1人いる」
なんだか引っ掛かりを感じた。
「……その人に、何か言われたの?」
「何って」
「今回の、通り魔もどき事件のこと」
「まあ、少しは」
「……その人って、夢と、関係がある?」
「………いや、ないんじゃないか」
何か薄い壁を立てられた気がした。隠されたラインを探って私は歩み寄る。私は何故引っかかりを感じたのか、正体が分からずに戸惑ってしまった。何か手がかりが欲しくて、私は探る。
「じゃあ、その人の名前、教えてよ」
「なんで教えなきゃならないんだ」
「べつに、良いじゃない。何か後ろめたいことでも?」
私がそう返すと、上町は視線を逸らした。けれど私は退かずに、じっと視線を投げかける。一度こちらを振り向いたが、また逸らす。
目を合わせないまま、渋々上町が答えた、
その瞬間。
ごお、と一際大きな風が吹いた。
私の長い黒髪が舞上げられて、私は思わず目をつぶった。耳は澄ましたが、風の音と雑音しか聞こえなかった。風が弱まったかと思ったところで、上町は歩き出した。
全く名前は聞こえなかった。
「ねえ、待ってよ!全然聞こえなかったからもう一度言ってよ!」
「ちゃんと言ったよ」
歩きながら上町は返事する。
「どこが、よ!風の音しか聞こえなかったわ」
面倒臭そうな顔をして、上町は立ち止まる。そうして、振り返る。もう一度言われるその名前を、私は聞く。
だが、それは。名前には程遠い音だった。
ただの、雑音だった。
どういうことなのか。
でたらめに発された音ではなく、口の形は何らかの言葉を表しているはずだった。読唇術というのがあるけれど、極めていなくとも、何の言葉を発しているか、ある程度は予測がつくはずだ。だけど、見ているのに、確かに目で見ているのに。
見たものと、頭の中が上手く繋がらなかった。認識できない違和感が、私の頭で渦を巻く。
立ち止まる私を置いて、上町はどんどんと歩いていってしまう。
出来損ないの、手がかりのかけらで考える。
それはどこかで聞いたことのあるような雑音だった。街中の雑踏、誰かの話し声、店員と客のやり取り、道に流れる音楽。どれでもあるし、どれでもない。起伏のある音で、機械音ではない。特有の意味をもつ何かしらではあった、誰かの名前。
人に呼ばれる誰かの名前。
確かに耳に届いている音なのに、頭の中で形にはならずに溶けてった。
風がびゅう、と鳴いて通り過ぎてった。
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