さん
色彩はそんなに沢山なくていい。
様々な建物の建つ、様々な広告が掲示された繁華街を、様々な服を着た人々が行き交う様子を見ていると気持が乱れる。少なくとも色彩が限られていればここまで嫌だと思わないような気がする。写真だって高画質カラーよりセピアの方がスタイリッシュで好きだ。
人は選択肢が多い程幸福感を得られなくなるそうだ。
たとえば二択ならばより良いと思った方を選べばそれで満ち足りる。ところが幾つも選べるものがあると、却って充足感を感じない。あちらの方が良いのではないか、それともこちらはどうだろうと迷い続ける事になるからだ。
だから、物事は極力シンプルな方が良い。
月の光を浴びて統一されたトーンに照らされた自分の肌を見つめながらハツはそんな事を考える。
目の前には皆橋駅。
──夜にはほんとうに力があるんだよ。
明かりすら点いていない。無料開放しているというのに、素っ気ない。
ハツが思っている以上に夜に力があるのだとしたら。
たぶん、夜の皆橋駅はもうひとつの世界への入口なのだ。
普段は雑多な駅にしか過ぎないこの場所も、闇と静寂しかない夜が訪れると漸く本来の姿を取り戻す。
夜は本来、決して怖いものではない。
危険なものでもない。
そう感じる人が多いのは、夜に乗じて動く悪い人の存在のせいであって、夜そのものは何も悪くない。正しく用いれば夜はこんなにも美しいのに。
「今晩は」
振り返ると左記子がすぐ後ろでハツを見上げていた。
「私の部屋ね、一階にあるの。だから抜け出すのは簡単なんだ」
聞いていないというのに、左記子はハツの隣で時々喋る。
「サンダルが二足あって、一足は部屋の引き出しに仕舞ってるの」
ハツは努めて電車の震動音のみ聞くようにしている。
「そのサンダル履いて、窓から抜け出すの」
揺れているのは電車なのか、外の光なのか。こうして座って見ていると段々分からなくなって来る。座席の端の肘掛けにもたれると、電車の揺れを密に感じることが出来た。
今晩はハツと左記子のほか車内には誰もいない。
いや。
今晩は──ではない。
たしか昨晩も。
その前はどうだったろうか。
──左記子が。
この事象に左記子が関わっている?
ハツは思わず勢いよく右隣の左記子に顔を向けた。
「どうしたの」
心底驚いたような左記子の顔がハツの視界一杯に映る。下睫毛の生え際までくっきり目に入る。
こうして左記子が電車に乗って来るようになる前も、他の乗客がいないという事は幾度もあった。というかそういう日の方が多い位だった。なにしろ時間が時間だ。それでもたまに乗っている人は四日に一度くらい居て、ハツはその人達に干渉していないから事情は一切知らないけれど、何らかの理由があって乗っているのだろうと思っていた。
それが。
──見てない。
左記子が来てからというもの、他の乗客を見た覚えがない。これは単なる偶然だろうか。
もう十日は経つ。
こんなに連続して他の客を見ないというのは経験した事がない。
「梅渓さん」
気が付くと左記子が不安そうにハツの肩を揺すっていた。
「平気?」
「平気」
ハツは元の体勢に座り直した。
「何かあった?」
「べつに」
なら好いけど──左記子は溜め息を吐く。
「なんか、梅渓さんが取り乱すっていうか、そういうの初めて見たから」
云い訳めいた事を口走って何度も目瞬きをする。
さっき生え際まで見てしまった、あの左記子の下睫毛が上睫毛と何度も重なりあう。
──どうでも好い。
他の乗客がいようがいまいが、左記子が現れてから他の客の乗車が途絶えようが、その変化が左記子と関係あるのかないのか、そんなのどうでも好いのに。
「ねえ」
「え?」
左記子が急に話し掛けてきたので、不覚にもハツはその声に応えてしまった。
「あのさ」
珍しくハツの方を見ないで外の夜を眺めている。
「皆橋駅が無料開放するっていうの、いつ知った?」
「分かんない」
憶えていない。
「じゃあ──どうやって知った?」
「分かんない」
「分かんない?」
何それ、左記子が訊き返す。
「分かんないってどういう事」
「分かんないは分かんないだよ。 理由が知れないって事」
左記子は怪訝そうな顔をする。
「じゃあ訊くけど、久貝さんは私と初めて会った時の事憶えてる? 何を喋ったとか憶えてるの? 」
ものごとの始まりというのは、多くの人が思うよりもっとずっと素っ気ない。気付いた時には既に始まっている。そしてそれはその後続いてゆく出来事が大きいか小さいかに関わりなくそうだ。
左記子は言葉に詰まっているようだった。憶えていないのだろう、当然。ハツは下らない質問責めから解放された。
電車は相変わらず運行し続ける。
黙って見ていると落ち着く。
規則的な震動音。
夜の色と光の色。
世界がちがう。この世界は。ハツの本来属している世界とは。
ハツは──。
「不思議」
左記子が空気の混じった掠れ声で独りごちる。
「夜も電車も、単体で充分力を持ってるのに。どっちかだけでも良いのに」
今度は本当に空気だけの溜め息を吐いた。
「交じりあうと」
そこまで云って左記子はハツに向けて柔らかく笑った。
「兼好もきっとこんな感じだったんだよ」
「え?」
「文章を書いて、書いて、止まらなくなって、ハイになっちゃって。 それが、狂おしいって事なんだろうね」
あやしうこそものぐるほしけれ。
「いろいろ
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます