出てきてくれない

 相変わらず、日中、というか、起きている間の出来事にモロ影響された夢を頻繁に見ている。こないだは寝る間際までラグビーを見ていたら、息子の保育園に数名の新しい先生が入って来られて、その一人がロングの赤毛のカツラを被った菊谷崇(先ごろ現役を引退した元日本代表主将、大体大卒、187cm、100kg)という夢を見た。ロン毛の菊谷は園児や他の先生から「菊ちゃんせんせい」と呼ばれていて、体操もしていた。笑顔で。

 そんなくだらない夢はいくらでも見るというのに、出演予定日を過ぎても閣下は近頃一向にわたしの夢に登場しない。それどころか、夢に実家の様子が出てきて、そこに父や母がいても閣下の姿だけはなかったり、わたしが閣下の「遺品」を整理していたり、ひょっとして夢の世界の方でももはや閣下は故人になってしまったのかと思うととても寂しい。『007は二度死ぬ』という映画があったがいやボンドでなくとも、ひとはみな社会的な死と生物的な死と、二度の死を死ぬのだ、という。誰からも思い出されなくなるのが社会的な死、心臓が止まるのが生物的な死、となると夢の中での死は前者に属するというか、その派生形というべきかと思うけれども、思い出すも何も夢はあちらまかせの自動操業(てゆーか個人的には夢の世界は独立して実際存在していると思っている)だから、わたしはこれを第三の死と考えたいの。でも夢っちゅうたらなんでもありな世界なのだから、どうせならあちらではいつまでも生きていて欲しいものである。

 

 この前、暮れに泉州の生きる伝説・はー太郎に会いに行ったときに、「おばあちゃん出演の夢」の話になった。はー太郎も、ゴリっゴリのおばあちゃん子なのだ。

 はー太郎はわたしよりも先におばあちゃんを亡くしている。それも突然だった。はー太郎からおばあちゃんの話はせんど聞いていたため、実はわたしはお会いしたことがないのによく知っているような気になっている。

 間隔は開いてきて、そうしょっちゅう見ることもなくなってきたけど、おばあちゃんは夢に出てくる、と公園のベンチではー太郎は言った。だからわたしもそのうちまた見られる、と慰めてくれた。

 はー太郎は近々引っ越しをすることが決まっていて、その準備を始めなければいけないのだが、物の処分、必要なものの選択を迫られる(しかも期限を切られて)というのは精神的に負担なものだ。毎日の生活に加えて余計な仕事が増えるというだけでもたいがいである。そうなってくると、夢におばあちゃんが登場する。

 ただはー太郎は意外とドライなところがあって、

「こないだも夢でウチが家の整理してたらおばあちゃんが横に立ってさあ、『あんた、何でもそんなにぼんぼん捨ててええんか? 思い出があるのに』とか言うねん。けどそれって、起きてる間に自分の半分が考えてることやからな、ああ、ウチの脳味噌がおばあちゃんに言わせてるねんな、って思って。おばあちゃんを出してきよったな! 脳味噌! って。そやし、そんなん言うても三月までに片づけなあかんねんから! っつって、全部捨てたった」

 なんて笑っていた。わたしならそうはいかないだろう。閣下が夢に出てきてそんなことを言ったならきっと、そのお告げに従って、手を止めてしまうに違いない。閣下が生きてるときにはちいとも言うこと聞かなかったのに、今さら「遅くさい」(←閣下の口癖)、というものである。

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