1-7 死


 そうやって開始されたデートの出来は、最低だった。

 合流してから、軽く街を歩き回ってからショッピングモールに入って、ウィンドウショッピングをした後、お茶でも飲もうかとドーナツチェーンに席を取った。

 会話はどれも上の空で、なにげない行動のたびにため息が口を吐き、ただ並んで歩いているだけでチリチリと胸が痛くなる。

 せっかく二人きりで出かけているのだからこんなの失礼だっていうのはわかっている。

 でも、隣を歩く彼女の美しい横顔を視界に収めるたびに、朝まで自分を突き動かしていた勘違いを思い出して叫びだしたくなるのだ。

 ほら今も、伏し目がちにチェーン店の安物のマグカップの縁を指でなぞる彼女を見てドキリと心臓の音が響く。

 あああああああああああああああ。

 つらい。

 はぁ。

「……ごめんなさい。無理やり連れてきちゃって、楽しくなかったかしら」

 オートマティックに流れ作業でため息を吐くと、安くて多彩なドーナツを売る店でテーブルの向こう側に座ったシビュラがついに口を開いた。

「いや、楽しくないってわけじゃ……」

 実際楽しくないわけではないのだ。むしろ彼女とは会話がすぐに弾むし、沈黙も苦じゃないし、何年来の友人とともにいるように楽しい。ただ、「でもこれってここにいるのが誰でも同じなんだよな」と思うと苦しくなるだけ。

「でも……会ってから何度もため息を吐いているでしょう?」

「それは……」

 事実だ。

 どうにか否定しようとしたが、口はもにょもにょと動くだけで、きちんとした言葉はなに一つ出てこなかった。

「いいのよ。きっと私がどこかでボタンを掛け違えたのでしょうから……」

 彼女は無力感に打ちひしがれるように、誰に言うでもなく小さく呟く。

 ボタンの掛け違い。

 知っている未来と知らない現実。

 起きている今が知っているとおりなら、彼女はこんなにもがっかりとした姿は見せないだろう。

 〝それは記憶ですから、一本道で、私が違う行動をとるとその未来は訪れません〟

 もしもそうであるなら――

「シビュラ。今のこの状況はと異なっているのか?」

「敏いのね。ええ、私はこれを知らないわ。どこで間違えたのか、私は未知の道を歩いているの」

 チッと思わず放った舌打ちが返事代わりになった。

 今この現在が彼女にとって既知でないというなら、この先の未来も。

 現在は過去に縛られ、未来は現在と地続きだ。今が違うなら、ずっと違うままだろう。

「じゃあ、もう未来視は使えないってことか?」

 自称超能力者は尋ねられてきょとんとした後、美しい顔から一切の表情を消す。

「そうでもあるしそうでないともいえるわ」

「はぐらかさないでくれ。まさかその名の通り、浮気者の神様から言葉を授からないといけないなんてことはないだろうに」

「……そうね。それじゃあ慎は、どんな未来が知りたいの?」

 焦る胸中を見透かしたように、真紅の瞳が俺を貫いた。彼女はただ尋ねただけだったのにその光に誘われるまま、口を開いてしまう。

「俺は……」

 耐えるように、既にぬるくなったマグカップを握りしめる。

 俺はなにを口にしようとしている? こんなこと知っているのは家族か、自分で嗅ぎつけた了一くらいだというのに。

 ――彩芽にだって伝えていないのに。

 どうして、彼女にだけはこんなに気を許してしまうのだろう?

「言いたくないなら言う必要はないわ。きっと、あなたが言っても言わなくても世界は大きく変わったりしないのだから」

 妙に達観したその言い様は、懺悔を語られる尼僧のようだった。

 それでも、その物言いには説教じみたところがなくて、張りつめていた糸がふっと緩む。

 そうだ。これは最初から単なる興味本位で、星が降ってくるくらいの確率でもしもが叶っただけなんだから、ダメでもともとだ。

 気を取り直してカップを呷った。

 それにしても、彼女の老獪な発想から鑑みると、意外と年上なのかもしれない。

「いや、いいんだ。別に隠すようなことでもないし」

 言っても言わなくてもどっちでもいいなら、わざわざ口を閉ざすほどのことじゃあない。

 本当に些細な――時間の問題。

 生まれつき手のひらに刻まれた皺が短かったとか神さまの振ったダイスがいかさまだったとかそんな風に語るしかない、どうしようもなく不可抗力の結果。

 それは、ほんとうは誰にだって訪れるおしまいのプロローグ。

「俺はもうすぐ死ぬんだ」

 言葉にすればただそれだけで済んでしまう。

 世界が終わるわけでも、たくさんの人が悲しむわけでもない。悪役もいなければ、正義の味方も現れない。どこにでもあるありふれた出来事で、誰にも予想できない稀有な現象なんかでもない。

 それでも、シビュラは目を丸くして驚いてくれた。

「死ぬ……?」

 慌てふためいて、俺を心配してくれた。

「それは……病気ってこと?」

「ああ」

 現代医療の力をもってすれば未来視の超能力者なんか現れなくてもわかってしまう。医者が言うには俺を動かす心臓はもうダメで、いつ爆発するかわからない。どこかの誰かの命を買わなければ、次の瞬間すべてが終わってもおかしくないらしい。

 だから、いつ死んでもいいように、俺は自分の生き方を定めた。

 〝失って惜しいと思うものは作らない〟

 にわか仕込みのポリシーはこんな風にふらふら揺れて、突然現れた女の子とデートをしたり、突っぱねた幼馴染と時間を過ごしたりしてしまうけれど。

 それでも、俺が死ぬことで悲しまなきゃいけない人間はできるだけ少ない方がいい。

「じゃあこんなところにいていいの? 入院とか……」

「もう治療する気はあんまりないんだ。完治するには何億円と集めて何百人を押しのけなきゃいけないし……そんな資格は俺にはない」

 〝あの時〟――俺はこのまま死に行く覚悟を決めた。

 もしも分かれ道があったとするならその時で、少なくとも今なんかじゃないんだ。

 突き放すような言い方だったからか、シビュラは目を伏せたまま黙りこくってしまった。

 沈痛な面持ちがむしろ俺の胸を刺す。俺が死んだあと、こんな人間が増えるなんてことはまるでごめんなんだ。

 もちろん、今だって。

 暗い雰囲気を払拭するように店員を呼んで、二人分のカフェオレのお代わりを入れてもらう。

 それから、ことさら明るい声を出して沈黙を打ち切った。

「それでもさ、死ぬのがいつかくらい知っておけたら心の準備ができるだろ? 俺が了一や緒方先生と一緒にやってたのはそれを教えてくれるような人を探していたからで、今日シビュラに訊きたかったことっていうのは、それなんだ」

 黙って俺の言葉を聞いていた彼女は重苦しく頭を振った。

「ごめんなさい。私には、あなたの未来はわからないわ」

「ま、そういってたもんな。すまん、忘れてくれ」

 ヒラヒラと手のひらを振る。もともと棚ぼた話なんだ。気にするようなことじゃない。

 しかし、シビュラの話には続きがあるようだった。

「違うの。私に未来がわからないのは今の状況を知らないからじゃないわ。それだけだったら、その未来におけるあなたの死を教えればヒントくらいにはなる」

「じゃあなんだっていうんだ?」

 もったいぶって、彼女は口を開く前に儚く微笑みかける。

 その一時だけ、喧騒がまっさらになったように感じて、それから、告げた。

「私も、死ぬのよ――今夜ね」

 な……っ!

 声もなくただ大きく口を開き、息を呑んだ。

 でも、それは本当に驚くようなことだっただろうか?

 十二月二十四日、俺と二人で出かけた彼女は、その夜命を落とす。それは俺自身がずっと危惧してきたことではなかったか。

 だが、もうとっくに。俺は彼女に自分の秘密を吐露する夜なんて知らない。これはもう、俺の知っている夜じゃないはずなんだ。彼女だって自分で言っていた。もうこの先の未来は占えない。知らないことは知らないんだ、と。

 自分の中で一斉に言葉が回った。混乱が冷静さを奪っていく。

 もしかしたら、俺の選択が彼女を殺すんじゃないか――違う!

 一旦落ち着こうと、俺は先ほど淹れてもらった湯気の立つカフェオレをすすった。それに釣られたように、目の前の彼女もマグカップを傾ける。

 次の瞬間。

 ガシャン! と硬い音が鳴り響いて、取り落されたカップが床に落ちる。

「ごほっ! げほっ! ……ぁは……!」

 え?

 大きくむせて口を抑えた人間が一人、椅子ごと床に倒れ込む。熱湯に近い液体と陶器の破片が広がる上に倒れ込んでも彼女は力なく呻くだけで、それを目の前で見ていた情けない男は、自分が口に含んでいるものと同じ飲み物が床を流れるのを、もったいないなあなんてぼんやりと眺めていた。

 空を飛び回る羽虫を追いかけるように視線が落ち着きなく風景を行ったり来たりして、引きつった眦から覗く紅の瞳と目が合って、ようやく、俺は取り乱すことができた。

「シビュラっ!!」

 ガタガタと立ち上がって、どろりとした水たまりに跪いて、手を差し伸べる。けれど、その手が彼女の蝋人形のような肌に触れる前にその目から光が消えた。

「あ……あ、あ…………!」

 やっと届いた手で華奢な肩を揺すっても、耳元で名前を叫んでも、その身体が再び動き出すことはなかった。

 ――シビュラは死んだ。

 俺の知っていたのとは違う死に方で――しかし、俺が知っていた通りに。

 こんなところに来なければ。

 ちゃんと断っていれば。

 彼女は――

 ――俺が、殺した……?

「ああぁぁああああああああぁぁぁあああああぁぁぁぁあああぁああああああああ!」

 そうして世界は慟哭に閉じる。


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