第15話 花弁( 2 )
——そんな大事なこと、どうして今まで忘れていたんだろう。
薫は昔から、自分を表に出さないところがあった。桜子もときどき顔を見合わせるくらいで、薫を特別意識したことはない。
彼が幼いときに両親と生き別れ、祖父の内弟子の家に引き取られたということ以外、ほとんど何も知らない。でも薫は、桜子にとって唯一のいとこだった。だからこそ幼い頃は、彼を弟のように可愛がっていたのだ。
——今も、あのお宮にいるんだろうか。
桂木は桜子に何も言わなかったが、あの口調が暗にそれを示すようだった。あの日以来、秋津彦はお宮に行くことを禁じたため、清乃と顔を合わせにくい桜子は律儀にその言いつけを守っている。
でも祖父がいっこうにこの場所に現れない以上、問いただす相手は薫しかいなかった。手刀で意識を失ったことを思うと気まずかったが、そうも言ってられない状況だった。
このまま何もしないでいたら、些細も分からぬまま縁談をとりつけられてしまうかもしれない。それは充分あり得ることなのだ。
桜子がお宮に行く決心を固めながら、目の前の桜の木を見つめていると——その花弁にまぎれるように、近づいてくる一つの影があった。
初めは気にとめなかった桜子も、それが誰だか分かった時には、思わず
「薫」
音もなく歩いてきたのは薫だった。彼はそこに桜子がいることを既に知っているような迷いのない仕草で、まさに近づいてくるところだった。
それを見て桜子は、勢いよく立ち上がった。袴の上に降り積もった花びらが、するりといくつも滑り落ちてゆく。
「ちょうどいいところに現れてくれたわね。私はあんたに聞きたいことが山ほどあるんだから」
視線を交わせるところまで近づくと、桜子は容赦のない口振りでそう言った。今日は天狗の面はつけていない。
薫は桜子を見ると、色の白い顔を伏せて言った。
「あの日は桜子さんにも、悪いことをしたと思ってる」
桜子はその言葉に毒気を抜かれる気がしたが、かまわずに言った。
「その言葉で済むと思ってるの。私は本当に頭にきたんだから」
薫はくすりと笑ったようだった。
「桜子さんは、いつも怒ってるね」
そう言われて、桜子は二の句が継げなくなった。それは薫の表情に
——そうだ、こういう顔をする少年だった。
改めて知るとやけに新鮮な気がして、桜子は一瞬目が離せなくなった。
「ここにやって来たのは、わけがあるんだ。このまま桜子さんがここにいても、無事じゃすまなくなることが分かったから」
突然の話に桜子は言葉を失い、その驚きを隠さずに薫に聞いた。
「待ってよ。大変なのは、むしろそっちでしょう。お宮の方に詰めていなくていいの」
黄昏に染まる夕日を背に、その表情はよく見えなかった。薫は静かに言った。
「ちょっと色々事情が変わってね」
桜子は一度口にしようとした言葉を呑み込み、逡巡して答えた。
「薫のお父さんが、一連の出来事に関わっているんでしょう」
薫はその言葉を聞いても、特に目立った動揺は見せなかった。
「現時点では、たぶんそうだろうね。僕も驚いている。色んな物事が、いっぺんに進んだんだ」
薫の口からそう聞いた以上、桜子ももう後にはひけなかった。
「ちゃんと全部、わけを話してよ。じゃないと、私もどうしたらいいのか分からなくなる」
薫は、陽が沈みゆく西の空を見やった。
「ここで会えてよかった。桜子さんは帰った方がいい。家族が心配する」
「でも」
言い返そうとする桜子を、薫はさえぎった。
「夜になって月が昇る頃、可能なら今夜、ここに来てほしい。そうすればいくらかわけを話せると思う」
急な申し出に桜子は戸惑ったが、その困惑もわずか一瞬だった。桜子は薫に迷わず頷いてみせた。
「分かった。でも、なんでこの場所なの?」
薫の目が、にわかに細くなった。
「分からない? この場は昔からずっと守られている。もっと言えば、僕の生まれる前から。この桜の木の下は撫子さんの張った結界が、まだ残っているんだよ」
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