その8

「──婚約者の馳蔵医師が関係しているんですか?」


 混乱の極みにあったキザムに変わって、カケルが鋭い指摘をしてみせた。


「風上くん、あなた、勘だけは鋭いみたいね──」


 沙世理の返答は、正解と言っているのも同じであった。


「勘『だけ』は余計ですけどね」


 苦笑を浮かべるカケルだが、沙世理を見る目は変わらず険しい。


「さっきも言ったけれど、馳蔵がいくら優秀な医師だとしても、二度も失敗をするわけにはいかないのよ」


「つまり、ここで流玲さんを殺して、すべてを隠蔽しようということですか? まったく、大人たちの考えることは、結局どいつもこいつも同じなんだな!」


 カケルが乱暴に言葉を吐き捨てる。


「勘違いしないで! 自分たちの欲を満たすために隠蔽するような連中といっしょにされたくないわ!」


 冗談めかしていた口調から一変、沙世理の声に初めて人間味が覗いた。


「あいつらは名誉や金の為なら、なんでもやる連中なのよ!」


「それのどこが先生と違うというんですか? 結局、どんな手を使ってでもして、馳蔵医師を守ろうとしていることに変わりはないじゃないですか」


「大違いよ! 私はお金にもノーベル賞にもこれっぽっちも興味ない。ただ、馳蔵の医師としての誇りを守りたいだけよ!」


「誇り? オレにはノーベル賞の為だと言っているのと、何も変わらないように聞こえますよ」


 カケルは一歩も引くことなく、舌鋒鋭く沙世理を責め続ける。


「──風上くん、あなたが未来でどれだけ馳蔵のことを調べてきたのか知らないけれど、馳蔵はただ地道に、本当に難病で苦しんでいる患者の為を思って、長い間ずっと研究一筋で遺伝子治療の開発に没頭してきたのよ。その結果が……その結果が……『ゾンビ』では、あまりにも悲しすぎるわ……」


 不意に、沙世理の視線がここではないどこか遠くの方に向けられた。人は大事な何かを思い返すとき、決まってそんな眼差しをする。そして、その大事な何かは、もう手の届かない遠いところに行ってしまっていることが多い。


 そのことをキザムはごく最近教えられた。カケルという親友を通して──。


「──沙世理先生、もしかしたら馳蔵先生は……亡くなられたんですか……?」


 キザムが導き出した解答は悲しいものだった。そして、その解答が正しいと沙世理の返事を聞く前から察していた。


「──馳蔵はいつも患者のことばかり考えていて、自分の身体のことには無頓着だったわ。医者の不養生とはよく言ったものよね。馳蔵と一緒に診察室で病名を告げられたときには、もう手遅れの状態だったの……。手術は困難で、余命だけを告げられたわ……。そして、馳蔵は自分が開発した治療法でたくさんの患者が元気になることを夢見ながら、ベッドの上で静かに息を引き取った。私はそのとき心に誓ったの。馳蔵が残してくれた『スキップ細胞』を使った遺伝子治療法の行方を、しっかりとこの目で見届けるとね。もしも、ここで今宮さんが生き残ってしまったら、『スキップ細胞』を使った遺伝子治療法の欠陥が世間にバレしてしまうことになる。命を懸けた馳蔵の努力が全部水泡に帰してしまうのよ。それだけはなんとしてでも防がないとならない。その為には、例え誰かを殺すことになったとしても、私は絶対にやりとげてみせる──」


「先生、その考え方は間違っています! そんなこと馳蔵医師は絶対に望んでいないはずです!」


 カケルが間髪入れずに声を張り上げた。


「あなたに何が分かるっていうの! 私にとって世界は、馳蔵がいたからこそ存在していたのよ。馳蔵のいなくなった世界は、もはや存在していないのも同じなの。だから、せめて馳蔵が命をかけて作り出した治療法だけは守りたいの! それがなぜダメだっていうの?」


「そもそも『スキップ細胞』を使った遺伝子治療法にも、欠陥があってダメだったはずじゃないですか。その治療法を守ることに、どんな意味があるんですか?」


「私にとっては守ることに意味があって、中身なんて関係ないのよ!」


 沙世理の言葉は無茶苦茶もいいところだった。説得力も皆無である。しかし、だからこそ──その言葉から読み取れる感情があった。


 沙世理はそれくらい馳蔵のことを大切に思っているのだ。


「──先生、オレは大切な誰かを失う悲しみを知っています。先生もオレと同様に、馳蔵医師を亡くして、初めて大切な誰かを失う悲しみを知ったはずです」


 カケルが辛い思い出を思い返すような口調で静かに語り始めた。


「だったら何だと言うの? 私にも諦めろと言うつもり?」


 それでも沙世理は強気な姿勢を崩さない。


「先生は大切な誰かを失う悲しみを知っているはずなのに、今度はその悲しみをキザムに背負わせようとしているんですよ!」


 未来の世界において、恋人と親友をいっぺんに失うという絶望を経験したカケルだからこそ言える、魂から生み出される説得力のある言葉だった。


「──そんなの……ただの感傷でしかないわ……。悲しみを消すには戦うしかないのよ!」


「先生、感傷出来る心を失くしてしまったら、それはもはや人ではなくゾンビと同じですよ──」


 心を失うということは飢えしか感じないゾンビと同じであると、カケルは断言したのである。


「────!」


 カケルの言葉を聞いた途端、沙世理がはっとしたように身体を硬直させた。カケルに向けられていた意識が、再びここではないどこか遠くに向けられる。そのまま沙世理はしばらくの間無言で立ち尽くしていたが、何かを思い出したのか、目元に光が生まれた。その光の粒がゆっくりと頬を落ちていくと、急に腰から下の力がいっぺんに抜け落ちたかのようにしてしゃがみ込んでしまった。服の下から黒い筒状の物体がカランと屋上に転がり出てきた。おそらく、学校に駆けつけた警察関係者から奪った拳銃に違いない。


 震える自分の身体を自らの両手で抱き締める沙世理。あるいは自分ではなく、心の中心に存在している馳蔵を抱き締めていたのかもしれない。


 強張っていた沙世理の顔から怖いものがすっかり抜け落ちて、そこに穏やかな表情が浮いていた。大切な誰かを思いやる、優しさと悲しさが同居したような表情。


 あれほど張り詰めていた緊張感がうそのように屋上から消えてなくなっていた。


 バラバラの方を向いていた四人の気持ちが、今、ひとつにまとまりつつあった。


 恐怖と混乱の時間は収束して、事態がようやく沈静化しかけたように思われた。


 だが、ゾンビカタストロフィーの恐怖はまだすべてが終わったわけではなかった──。

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