その6

「──悪いけど、少し個人的な話を訊きたいんだけど、いいかな?」


 その場に残っていた村咲が、キザムのもとに近付いてくると、キザムの耳元にそっと口を寄せてきた。これからする会話は他の生徒には聞かせたくない内容なのだとキザムも察した。


「日立野慧子さんのことですよね?」


 村咲から詳細を聞かなくとも、キザムには分かっていた。この村咲と慧子がどのような関係にあるのかは知らないが、あの非常時に突然心変わりして、キザムたちを助けようとしたのだから、当然浅からぬ関係があるのだろうと想像していた。どうやら、それは当たっていたらしい。


「ああ、そうなんだ。慧──いや、日立野さんは無事なのか?」


 名前で言おうとして、わざわざ苗字に言い換えて質問する村咲。キザムもあえて聞き返すことはせずに、軽く聞き流すことにした。


「日立野さんは理科準備室に隠れていたんです。ちょうど午後からの授業である理科の実験道具の準備をしている最中に、あの避難放送を聞いたそうです。でも避難に遅れてしまって、それで理科準備室で待機することを選んだみたいです」


 キザムは鹿水の名前は出さずに、上手く整合性のつく説明をした。今は落ち着いている村咲であるが、鹿水が慧子にしでかそうとしたことを聞けば、きっと冷静さを欠くと思ったのである。リーダー格の村咲が冷静さを失えば、ここの集団を指揮する人間がいなくなってしまう。それだけは回避しなくてはならない。


「そうだったのか……。とにかく、日立野さんがあの騒動に巻き込まれていないのなら良かったよ。それじゃ、そこで君たちが──」


「ええ、そうです。ぼくらがちょうど二階の廊下を逃げているときに、理科準備室から日立野さんの声が聞こえたので、一緒に逃げることにしたんです」


「それで慧──日立野さんは今どこにいるんだ? 一緒じゃないみたいだったが……? まさか、あいつらに──」


 村咲の顔が瞬間的に強張った。思い人の身を案じている顔である。


「大丈夫ですよ。日立野さんはぼくらと一緒に行動していた沙世理先生といます」


「沙世理先生?」


「ええ、日立野さんに会う前に、沙世理先生と合流していたんです。それで沙世理先生が日立野さんを連れて、先に校庭まで避難することになったんです」


「そういうことか……。沙世理先生が一緒ならば安心出来るな。本当に良かった……」


 ようやく村咲の顔に安堵の色が浮いた。それだけ村咲にとって慧子は大切な存在なのだということが窺い知れた。


 キザムにも同じように大切な存在がいる。その人をいち早く捜さなくてはならない。


「あの、ぼくらも聞きたいことがひとつあるんですがいいですか?」


 ようやくこちらの本題に入れた。


「もちろん、構わないよ。なんでも聞いてくれ。僕で分かる範囲のことならば答えるよ」


 村咲は最初に見せた堅い態度から一変して、今はとても親身になってキザムの話に耳を傾けてくれている。


「実はぼくらは一人の生徒を捜しているんです。今宮流玲というぼくらと同じ一年生の生徒です。日立野さんが階段を三階に上っていく流玲さんを見たというので、ぼくらも三階に来たんです」


「なるほど。それで危険を承知のうえで、わざわざ三階まで来たんだね。今宮流玲さんなら、たしか顔を見た覚えがあるよ」


 村咲は首を傾げて何かを思い出すような仕草を見せたあとで、はっきりとそう言った。


「えっ? 本当ですか? 本当に見たんですか?」


「ああ、見たよ。たしか彼女はクラス委員長をしているだろう? だから僕も彼女の顔を知っていたんだ」


 村咲が慧子と同じような感想を漏らした。これで希望が見えてきた。


「それで流玲さんをどこで見たんですか?」


「うん、それなんだけどね……」


 そこで村咲は言葉の語尾を濁らせた。


「まさか、流玲さんは怪我でもして──」


 キザムは身体を前のめりにして村咲に迫った。せっかくここまできたのに、流玲の身に何かあったというのでは遣り切れない。


「いや、そういうことじゃないんだよ。僕は三階で彼女の姿を見たんだ。怪我をしているようには見えなかったけれど、制服に血の跡が着いていたから、下の階で騒ぎに巻き込まれたんだと思って、三階の教室にとりあえず避難するように言ったんだけどね……」


「流玲さんは避難しなかったんですか?」


「ああ、人がたくさんいるところはかえって危険だから、自分は屋上に向かうって言って、そのまま階段を上がって行ったんだ」


 村咲が廊下の天井を自然と見上げた。学校は三階建てなので、この階の上が屋上となる。



 どうして流玲さんは屋上に向かったんだろう……? 人がたくさんいるところの方が安全だと思うけれど……?



 流玲の行動はいまいち解せないが、行き先が分かった以上、キザムもそこに向かうしかない。


「それじゃ、ぼくらは廊下の反対側に回って、そこから屋上に向かうことにします」


 キザムの背後で降りた防火シャッターをもう一度開けることは危険過ぎて出来ないので、もう一方の階段を使って屋上に向かうしかない。


「分かった。反対側の防火シャッターなら人が通れる分だけ開けても大丈夫だと思う。あちら側にはおかしな連中の姿はなかったからね。僕も防火シャッターまでは付いていくよ」


「ありがとうございます」


 キザムは礼を述べた。


「いや、こちらこそ日立野さんを助けてくれてありがとう。彼女のことだけがずっと気懸かりだったんだ」


 村咲が丁寧にお礼を返してきた。


「カケル、行こうか」


 キザムはカケルに声を掛けた。


「ああ……そうだな……」


 カケルの気だるそうな返事を聞いて、異変をすぐに感じ取った。


「おい、カケル、大丈夫なのか……?」


 廊下に座り込んだままのカケルの傍で膝を付き、俯くようにしているカケルの顔を見つめた。


 顔色が悪く、ひどく疲れたような表情をしている。額からこめかみの脇を通って、粘ついた汗が幾筋も滴り落ちている。呼吸も荒く、一定していない。パッと見ただけでは、カゼの症状に見えなくもないが、この症状がもたらすものの正体をキザムは知っていた。


 キザムは瞬間的にカケルの右足首に目を向けた。


「カケル……ひょっとして、さっき逃げるときに噛まれたのか……?」


 今まで怖くて聞けなかったが、この状態までなったら、もう本人に訊いて確かめるしかない。


「へへへ……。少しドジを踏んじまったみたいだ……。やつらに噛まれた瞬間に……足で蹴り付けてやったから……大丈夫だと思ったんだけどな……」


 顔を上げて無理やりに苦笑してみせるカケル。キザムを心配させまいとして、そう振る舞っているのだと分かった。


「──歩けるのか?」


「ああ、歩くくらいならばなんとかなるぜ……」


 そう言って立ち上がろうとしたカケルだったが、半腰になったところで、ふらっと斜めによろけた。


「危ないっ!」


 キザムは慌ててカケルの身体を支えて介助した。両腕にカケルの体重がずっしりとのしかってきた。


「カケル……少し休憩しよう……」


 今のカケルではとても歩けそうにないと判断せざるをえなかった。屋上に一緒に向かうのはおそらく無理だろう。


 しかし、それ以上に問題とすべき点があった。



 このままではいずれカケルは──ゾンビ化する。



 それはもはや間違いようのない事実だった。

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