その2

「失礼します」


 最初に室内に向けて声を掛けてから、保健室のドアを素早く開けて中に入った。


「ああ、土岐野くんね、こんにちは。どうしたの? そんなに勢い良くドアを開けたりして? 何か急いでいるの?」


 机の前に置かれたイスに座っていた若い女性が、器用にイスをくるっと回転させて、キザムの方に体ごと向けてきた。養護教諭の白鳥河沙世理である。


「すみません。先生にとても大事な用事があって急いで来たんです」


 キザムは単刀直入に話を切り出した。あの悪夢はただの夢なんかではなく、まさにこのあと起こる現実であると、今ははっきりと分かっている。だとしたら、時間の猶予はそんなに残されていない。いち早く沙世理に事情を説明して、協力してもらわなくてはならないのだ。


「どういうことかしら? だいたい土岐野くん、あなたまだ昼食も食べていないんでしょ?」


 沙世理はキザムの真剣な顔付きを見て多少は気にしてくれたみたいだが、まだ何がなんだかよく分からないといった感じである。


「昼食はまだですが、それよりももっと大事なことなんです」


「そこまで言うのであれば、とりあえず話を続けてくれるかしら」


 沙世理が腕組をして、話を聞く体勢に入る。


「──その前に、先生、ぼくが今から話すことを聞いても絶対に驚かないで下さいね」


 そう前置きをしたあとで、キザムはこれから校内で起こるあの『大惨事』についてさっそく話し始めた。


「今は平和な校内ですが、昼休みが終わる頃に大事件が起こるんです。いや、事件というレベルではありません。もはや『大惨事』といってもいいくらいの、とんでもない事態が起きます。生徒の中にもたくさんの怪我人が出ます。中には重傷の生徒も出ます。でも、前もって準備しておけば、その『大惨事』は防げるはずなんです。いや、絶対に防がないとならないんです! その為には、先生の協力が必要なんです! ──お願いします。ぼくに力を貸してください!」


 キザムはそこまで一息に話すと、最後に深々と頭を下げて協力のお願いをした。


「──何か悪いクスリをやっている、なんていうことは土岐野くんに限ってないわよね……」


 沙世理の目が養護教諭の目になる。キザムのことを疑ってはいないが、まだ信用もしていないといった風である。


「いきなり信用しろと言っても無理なのは分かっています。でも、ぼくにはこんなあからさまなウソをついてまで、わざわざ先生をダマす理由なんかひとつもありません。だから、ぼくの話を信じてもらうしかないんです!」


 キザムは視線を逸らすことなく、沙世理の瞳の奥を覗き込むような真剣な眼差しで沙世理と対峙した。あとはこちらの誠意を見せるしかないのだ。


 二人の眼光鋭い視線が空中でぶつかり合う。


 先に目から力が抜けたのは沙世理の方だった。目から力が抜けるのと同時に、肩からも力が抜け落ちて、ふっと軽く息をついた。


「──分かったわ。土岐野くんの話が本当かどうかは正直まだ半信半疑なんだけど、養護教諭としては、生徒に怪我人が出るのを黙って見ているわけにはいかないからね。──いいわ、その話に乗ることにするわよ」


 沙世理の瞳が一転して、今度は柔和な目付きに変わった。


「ありがとうございます!」


 思わず沙世理の手を握ってしまいそうになるくらいの嬉しさが心中にこみ上げてきた。


「それでもっと詳しい話は聞かせてもらえるのかしら?」


「すみません、実は詳細な点はぼくもまだよく分からないんです……。ただ、何らかの原因で『大惨事』が発生することだけは確かなんです」


 キザムは正直に打ち明けた。もちろん、ここで死んだ生徒が生き返るという話を持ち出すことも出来る。しかし、せっかく自分のことを信じてくれた沙世理だって、死者が生き返るなんて話を聞いたら、さすがにキザムのことを疑うに決まっている。


「つまり、これから何らかの惨事が起きるけど、あなたはその原因は知らないが、結果だけは知っていて、だから、その惨事が起きるのを何としてでも止めたいということなのね?」


 キザムの突拍子もない話を瞬時に頭で理解して、なおかつ冷静に分析までしてのける沙世理だった。その頼もしい頭脳を目の当たりにして、キザムは沙世理に協力を頼んで正解だったと思った。


「はい、そういうことです。今はそれがベストな選択だと思っています」


「分かったわ。それで、私はいったい何をしたらいいのかしら?」


「その『大惨事』が起きる場所は分かっています。学校の二階です。だから今からそこに向かって、事態に備えて見回るつもりです」


「──ふふふ、なんだか大事になってきたわね」


 大惨事の中身を知らない沙世理には、まだ若干の余裕が見受けられた。キザムはそのことをここでわざわざ指摘するつもりはなかった。沙世理もキザムが見たあの地獄のような光景を目にすれば、おのずと真剣になるはずだから──。


「でも、その前にひとつだけ、土岐野くんには私の指示に従ってもらうわよ」


 沙世理が途端に厳しい顔付きをした。


「えっ? 指示、ですか……?」


「そう。お昼に飲んでいる薬をちゃんと飲むこと。二階に向かうのはそれからよ」


 なんとも養護教諭らしい指示だった。確かにキザムは話に夢中になってしまい、薬を飲むことを失念していた。


「はい、分かりました」


 通学カバンから慌てて薬と水筒を取り出した。いつもは弁当を食べた後に薬を飲むのだが、今日は弁当を食べる時間すら惜しいので、薬だけ服用することにした。水筒の水と一緒に五種類の薬を一気に飲み込む。


「──先生、飲みましたよ」


「よろしい。それじゃ、二階に向かうとしましょうか」


 沙世理がイスから立ち上がりドアの方へと歩き出す。キザムもその後に続く。


「あら、どうしたの?」


 沙世理が保健室のドアを開くと同時に驚いたように声を上げた。


「先生、どうかし──」


 沙世理の背後からドアの方に視線を向けたキザムは、視界に見知った顔を見つけた。クラス委員長の流玲である。


「あれ、どうかしたの流玲さん?」


 顔を少し俯けたようにしている流玲に声を掛けた。


「う、う、うん……。カケルくんに聞いたら、キザムくんが保健室に行ったって教えてくれて……。もしかしたら体調が悪いのかなって……」


「ああ、カケルにちゃんと説明しなかったからな……」


 キザムは先を急ぐ余り、説明不足のまま教室を飛び出してしまったのである。


「私は廊下にいるから、話は二人でしてね」


 沙世理は廊下に出ると、反対に流玲の背中を押して、保健室に入るように促した。


「土岐野くん、男の子なんだから逃げちゃダメよ」


 沙世理は流玲の背中越しに、なぜか片目を閉じてキザムにウインクをしてきた。どうやら、キザムと流玲の仲を誤解しているらしい。



 先生、流玲さんとぼくはそういう関係なんかじゃ──。



 心の中で言い訳めいたことをつぶやいたそのとき──。



 そうだ! あのとき流玲さん、保健室のベッドで寝ていたぼくにキスをしてきて──。



 鮮明に状況を思い出した。惨事のことばかりに頭がいっていて、あの保健室での一件のことをすっかり忘れていたのである。



 そういえば流玲さん、昔からぼくのことを知っているような感じでつぶやいていたけど……。



 キザムは改めて目の前に立つ流玲の様子を観察した。教室で見るときと違い、なんだかモジモジしているように見える。いつもの落ち着き払った委員長の姿はそこにはなかった。


「あ、あ、あのさ……ぼくは、大丈夫だから……。なんだか、逆に気を遣わせちゃって悪かったね

……」


 成り行き上、キザムは自分から弁解染みた言葉を発した。


「ううん……大丈夫ならいいの……。少しだけ気になっただけだから……」


 流玲が小さく頭を振った。


 そのまま二人の間に沈黙の時間が流れる。キザムとしても保健室のベッドでのキスの一件があるので、なかなか次の言葉が出なかった。ここで、なんであのときキスをしたの、と聞くことは無意味である。あのキスシーンが実際に起きるのは『この後』なのだ。それに、そもそも流玲の記憶には、キザムとキスした記憶などないのである。だからこそ、余計に話に詰まってしまう。


「──それじゃ、わたし、教室に戻るから……」


 流玲が振り返り、ドアに手を掛けたが、そこで不意にキザムの方に振り向いてきた。そして──。


 キザムの唇に温もりを持った柔らかい肉感的な感触が走った。


「あっ! えっ?」


 キザムが間の抜けた声を発している間に、流玲は保健室から飛び出すように出て行ってしまった。 


「いいわね青春時代って。私ももう一度青春時代を謳歌したいなあ」


 まるでこうなる事態を予め分かっていたかのような口振りで沙世理が楽しげに言う。



 まったく、沙世理先生の方こそ時間をループして、こうなることを知っていたんじゃないのか。



 思わず心の中で愚痴るキザムであった。むろん、本当に沙世理が自分と同じように時間をループしているとは思っていない。大人ならではの観察眼でもって、二人の間に起こることを予想していたのだろう。


「さあ、お姫様の応援も貰ったことだし、私たちは二階へと向かいましょうか」


 沙世理は意気揚々と廊下を歩き出す。


「ちょっと先生、待ってくださいよ……」


 唇に残る淡い感触に心惹かれつつも、キザムは急いで沙世理の後を追いかけるのだった。

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