第1章 ファースト・オブ・ザ・デッド
その1
教室の壁に設置されているスピーカーから明るいチャイムが流れてきた。黒板の前に立つ英語の教師が自分の腕時計に目を向ける。
「じゃあ、今日はここまで。次回は形容詞についてやるからな」
英語教師の声は、しかし、生徒たちの耳には届かなかった。生徒たちの心はすでに昼食の方に向かっていたのだ。
英語教師はやれやれという風に首を振りながら教室を出て行った。
それを待っていたかのように全力で廊下へ飛び出していく男子生徒たち。食堂までの短距離走の始まりである。スタートダッシュが遅れてしまうと、昼食を求める生徒たちの長い列に並ばなくてはならなくなるのだ。
幸いなことに、
もっとも、食堂に行くことになったとしても、短距離走には加わることは出来なかった。キザムは身体的な理由で激しい運動が出来ないのだ。その為、部活も運動部ではなく、美術部に所属している。もっとも、幽霊部員といってもいいくらいの出席率であったが。
「今日は野球部の連中、やけに張り切って走って行ったな」
キザムの席に歩み寄ってきていた
「野球部は放課後に他校との練習試合があるみたいだから、エネルギー補給が欠かせないんだと思うよ」
「それじゃ、おれたちも午後の授業に向けて、エネルギー補給をしないとな。さあ、ご飯を食べる準備をしようぜ」
カケルが手に持っていたコンビニのビニール袋を机の上に置く。
「ああ、ぼくもお腹が空いたよ」
カケルの話に合わせるように、キザムも通学カバンから弁当箱を取り出した。机の上に弁当を広げる。母親お手製の弁当である。
「おっ、相変わらず、キザムママの作る弁当は美味しそうだよな」
カケルはキザムの隣の席に座り込むと、キザムの弁当箱を覗き込むようにした。
キザムの弁当はただの弁当ではなかった。キザムの身体のことを考えて、母親が栄養に細心の注意を払って作った特別な弁当なのだ。今日はキザムの大好物である卵焼きが入っていた。
「カケルはいつものお弁当なんだね」
「まあな。これがオレの口には一番合うからな」
カケルが机に広げたのは、コンビニで売られている唐揚げ弁当である。それも大盛りサイズのものだ。カケルの両親は共働きなので、弁当はいつもコンビニで調達してくるのだった。だからというわけではないだろうが、カケルはいつもキザムの弁当の中身をチェックしてくるのだ。
「さて、オレたちもさっそくランチタイムに入るとするか」
「うん、そうだね」
キザムとカケルは学校生活の中で一番の至福の時間に突入した。
他愛も無い話をしつつ、昼食の時間をまったりと満喫する。
この時間は、キザムにとってかけがえの無い時間であった。小学校時代のほとんどを病院内の院内学級で過ごしたキザムは、普通の学校に通うようになってからも、友達という存在になかなか巡り合えずにいた。キザム自身、どうやって友達を作ればいいのか分からなかったし、周りの生徒たちも長期入院していたキザムとの付き合い方に躊躇している風であった。
中学に上がってからもその傾向は変わらずに、友達らしい友達は結局出来ず仕舞いで、そのまま卒業することになってしまった。高校に入っても、きっとまた友達のいない学校生活になるんだろうと半ば諦めの気分でいたのだが、そんなキザムに初めて出来た友達がカケルなのだった。
カケルはキザムと違い、今風の外見と性格をした高校生だった。そんなカケルがなぜ自分の友達になってくれたのか初めは分からなかった。カケルはクラスはおろか、学校中の人気者になれるほどの明るくて親しみやすい性格で、なおかつ女性を引きつける容姿を兼ね備えていたのだ。
「カケルはなんでぼくみたいな人間の友達になってくれたんだ?」
だからあるとき、こちらから訊いてみた。
「友達になるのに理由なんていらないだろう? それとも逆にキザムに訊くけどさ、友達になるには理由がないとダメなのか?」
その言葉を聞いたとき、はっとしたのを今でも覚えている。キザムは友達を作ることを深く考える余り、変に理屈的になっていたのだ。
それからというもの、カケルとはなんでも気兼ねなく話せる仲になった。毎日の学校生活が楽しくなった。
キザムは自分の病気についても包み隠すことなくカケルに話した。自分の病気について自分からクラスメートに話すのは、それが初めてのことだった。
カケルはキザムが病気のことを話しても、顔色ひとつ変えることがなかった。むしろ、だからどうしたんだ、という風な顔をしていた。逆にその反応が、キザムにとってはすごくうれしかった。今まではキザムの病気のことを知ったクラスメートは誰もが、どう接していいのか戸惑いの表情を浮かべるのが常だったのだ。
とにかく、今の楽しい学校生活を送るうえで、カケルの存在はなくてはならないものになっていた。
「そうか、野球部は放課後に試合があるんだ。オレたちはどうする? 野球部の試合を冷やかしでもいくか?」
唐揚げ弁当をきれいに平らげたカケルが話し掛けてきた。カケルはどこの部にも所属していない。所謂、帰宅部というやつである。カケルの運動神経を知っているキザムにしてみれば、なぜ部活に入らないのか不思議でならないが、きっとカケルは自由でいたいのだろうと考えていた。なによりも、カケルが部活に入っていないからこそ、一緒にいられる時間がたくさん出来るので、キザムにとってはありがたいことだった。
「そうだね、今日は美術部の活動も自由参加だから、暇つぶしもかねて野球の試合の見学でもしようか」
身体的に激しい運動が出来ないキザムだったが、スポーツを観戦するのは大好きだった。
「オッケー。それじゃ、決まりだな」
カケルがうれしそうな笑顔を浮かべる。見る者すべてを明るくさせてくれる、そんな気持ちの良い笑顔だった。
現に、教室にいる女子生徒のうちの何人かは、明らかにそれと分かるくらいはっきりと好意的な視線をカケルに向けていた。もっとも、当のカケル自身はキザムと話すことに夢中で、自分に向けられている女子の視線には気付いていないご様子である。まさに青春時代を象徴するかのようなワンシーンだ。
しかし、そういうところがまたカケルらしくて、素直に好感を持てるところだとキザムは思っていた。
二人のランチタイムは終わったが、昼休みはまだ三十分以上残っていた。普通の高校生ならば、ここから午後の授業が始まるまでの間、ぐたぐたと無駄話でもして時間を過ごすのだが、キザムの場合はそういうわけにはいかなかった。
小学生のときに難病治療の手術を受けたキザムは、食事の後に免疫を高める飲み薬を飲まなくてはいけなかった。そして薬を飲んだ後は、しばらく安静にしていなければならなかった。
その為、昼食後に薬を飲んだ後は、保健室で休むのが日課となっていた。ずっとカケルと話を続けていたかったが、こればかりはどうしようもない。
でも、そんなキザムのことを、嫌な顔をせずに受け止めてくれるのがカケルであった。
「キザムくん、薬はもう飲んだの?」
気軽な口調でキザムに話し掛けてきた生徒がいた。クラス委員長をしている、
「今から飲むところだよ」
キザムは通学カバンの中から薬を取り出した。薬は全部で五種類ある。この薬がキザムの免疫作用を高める手助けをしてくれているのだ。言うなれば、命の素とも言えるくらい大事な薬であった。
先にカプセル剤の薬を飲み、次に粉末状の薬を飲む。最後に水筒に入れてきたミネラルウォーターを口いっぱいに含んで、一気にお腹へと流し込んだ。
「さあ、これで薬はちゃんと飲み終わったよ」
キザムは一応確認の意味も込めて流玲に言葉を掛けた。
「それじゃ、保健室でゆっくり休んできてね」
流玲がニコッと愛らしく微笑みかけてきた。普段はクールな印象のクラス委員長という雰囲気であるが、キザムの身体のことについて話すときだけは、非常に物腰が柔らかかった。それだけキザムのことを気にかけてくれている証拠なのだろう。
流玲とはある出来事を通して仲が深まった。入学して間もない頃、まだ高校生活に慣れずにいたキザムは午前中の授業中に体調を崩してしまったことがあった。そのときに保健室まで付き添ってくれたのが、誰あろうクラス委員長を務めている流玲だった。それをきっかけとして、流玲とも気軽に話すようになったのである。
「カケルも流玲さんも、ありがとう。それじゃ、少し休憩してくるから」
キザムはカケルと流玲に礼を言って、教室を出て行く。
「あっ、キザムくん……」
不意に背後から流玲に声を掛けられた。
「えっ、なに? ぼく、忘れ物でもしたかな?」
慌てて後方を振り返ったが、そこにはなぜか顔を俯けている流玲と、イスに座ったまま意味深な笑みを浮かべるカケルの姿があった。
「う、う、ううん……なんでもないの……。ただ……午後の授業に遅れるようだったら……わたしから先生に話しておくから……それが言いたくて……」
委員長らしくないどこか途切れがちな口調だった。
「うん、流玲さん、いつも本当にありがとう。ぼくも自分の体調と相談して、教室に戻ってくることにするから」
どこか不自然さを感じなくもなかったが、もう薬を飲んでしまった後なので、これ以上話を続けるわけにいかなない。結局、そのまま保健室に向かうことにした。
「……から……室に……ちゃえば……だよ……。ちゃん……自分……持ちを……伝えな……」
後方からカケルが流玲に話している声が聞こえてきたが、声量が小さすぎて内容までは聞き取れなかった。
────────────────
「失礼します」
最初に室内に向けて声を掛けてから、保健室のドアを静かに開けた。
「ああ、土岐野くんね、こんにちは。今日の体調はどうかしら?」
机の前に置かれたイスに座っていた若い女性が、器用にイスをくるっと回転させて、キザムの方に体ごと向けてきた。白衣姿がこれ以上ないくらい外見とぴたりと合っている。今年学校に赴任してきた、新しい養護教諭の
沙世理が赴任してきてからというもの、保健室の理由者数が格段に跳ね上がったという、まことしやかな噂が校内を駆け巡っていた。もっとも、それも当然だと頷けるほど、類稀な容姿を備えているのが沙世理だった。
キザムも最初こそ若い養護教諭とどう接すればいいのか戸惑っていたが、いざ話してみると、その外見とは裏腹にとてもざっくばらんで話しやすい性格だったので、保健室にも気兼ねなく来られるようになった。
「いつもと変わらず体調は大丈夫ですよ」
「よろしい。人間、体調が良ければ、それだけ幸せになれるんだから。くれぐれも仮病なんて使っちゃダメだからね」
沙世理は保健室の奥に向かってわざとらしく言った。
「えーと、一番奥のベッドは使用中だから、土岐野くんは手前か真ん中のベッドを使ってくれる」
どうやら、一番奥のベッドには沙世理目当ての生徒が仮病を使って横になっているみたいだ。
「はい、分かりました」
キザムは仕切り代わりになっているカーテンを引っ張って、ベッドが並んだ保健室の奥へと進んでいった。
「さてと、少し一休みしようかな」
上履きを脱いで、一番手前のベッドにゴロンと寝転がる。そのまま目を閉じて、夢の世界に運ばれるのをじっと待つ。
ほどなくして、キザムの精神はゆっくりと眠りの王国に導かれていった。
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