ヴァルキュリア

歩兵

第一話 神に魅せられた女

 それは明らかに巨大だった。


「あ、ああああ……」


 誰かが悲鳴とも分からぬうめきを漏らす。すると、辺りにいた学生やスーツを着た社会人は蜘蛛くもの子を散らしたように私の横を過ぎ去っていく。中には逃げることもできず、その場でへたり込み粗相をしている女学生もいた。


 そんな阿鼻叫喚あびきょうかん最中さなか、私は一人で立ち尽くし、その巨大な何か得体のしれない生物を見つめていた。右手で握っていた学生鞄の持ち手も放し、ただただ見つめていた。


 やがてフッと頬に何か伝った感触がしたが、私はそれを拭うために手を上げることができなかった。その感触は一つ、二つ、三つと増えていき、段々と流れる感覚が短くなり最後にはとめどなく流れ続けた。


 巨大な生物はまるで人のような姿をしており二本足で立っている。体躯たいくは東京にそびえる数々の高層ビルをゆうに超え、六百三十四634メートルのスカイツリーが子供の玩具おもちゃに見えるほどだった。


 彼の足と腕は細く、体も細い。しかし、それと相反するように顔面の部分は空を覆う雲を彷彿ほうふつとさせる大きさで、東京に大きな影を落としている。腕は人でいうところの腰の辺りから肩にかけてまで無数に存在し、私にはその数を数えることができない。

 また、その腕たちは生命いのちが宿っているかのようにその一本一本が自在に動き回り、地上で駆け回っている蜘蛛の子たちの命を一つずつ丁寧に摘み取っている。


 そして、何よりも目を惹くのは背中に生えたひと際大きく太い一本の腕。もし、彼がそれを振るうことがあるのなら、私や蜘蛛の子の命は一瞬で消え去ってしまうのだろう。


 先ほどから彼の周りに羽蟻はありが群がってなにか飛ばしたりしているが、彼は微動だにせずやかましい羽蟻の命も一つずつ丁寧に摘み取っていた。


 一匹の羽蟻が高層ビルに激突すると、ふんだんに使われていたガラスを飛散させながら大きな爆発音を立てた。


 あぁ。五月蝿うるさい……この瞬間においてそのような音楽は似合わない。悲鳴も似合わない。絶叫も似合わない。


 彼に似合うのは静寂せいじゃくだ。蜘蛛共の命を静かに刈り取り、羽蟻共の命も静かに刈り取る。我々はそれを運命と受け入れて静かにその時を待つ。


 その間に流れる音楽は無であり、静寂でなければならない。


 なぜ、あの羽蟻共はそんな大事なことが分からないのだろうか。


 わからない。わからない理解できないわからないそぐわないわからない意味不明わからない殺したい


 だが、私がどうするまでもなく、彼は羽蟻共の命のともしびをすべて一身に受け止め、そして消し去った。彼は何事もなかったかのように再び無数の長い腕を伸ばし、蜘蛛たちの命を摘み始めた。

 やがて、そのうちの一つが近くで粗相をしている女学生に伸びてきた。大きな手を開き、五本の指で彼女の胴体を握りしめてゆっくり、ゆっくりと愛しい我が子の首を絞めるように緩やかに握る力を強めて、女学生の体を潰した。


 ああああ、なんと神々こうごうしいのか。


 彼の行動の一つ一つにはたしかに私たちの命に対して最大限の敬意が払われていた。それをあの羽蟻共が台無しにしたというのに――彼は初めと何ら変わらぬ様子で儀式を続けているように見えた。


 一体、彼は何のために私たちの命を摘みとるのだろうか。




 ああああッ、私はなんておこがましい。

 私が彼の行動を推し量るなど――なんて、なんて、おこがましいのか。


 ああああ……こんなにみにくい私では彼に摘み取ってなどもらえないでしょう。せめて服を脱ぎ、素肌を晒すことで彼に対しての贖罪しょくざいとなしましょう。


 ネクタイを外し、眼鏡を外し、ヘアゴムをほどき、靴を脱ぎ、靴下を脱ぎ、下着を脱ぎ、スカートを脱ぎ、下着を外し、シャツを脱ぎましょう。


 羽蟻共は刈り取られ、ビルの崩壊も止まり、蜘蛛の悲鳴も止み、辺りにはようやく静寂が訪れていた。


 そして、彼の腕の一つが私にゆっくりと近づいてきた。伸ばされた腕を受け入れるように私は両腕を大きく広げ、目をつむり、彼の腕に包まれるその時を待っていた。


 ……だが、いつまで経っても私の胴体を包み込んでくれるはずの衝撃は訪れなかった。


 ……ただ待っていた。静寂は次第に大きくなり、彼の足音も近くまで聞こえる。


 ……だというのに、未だに彼の腕は私を掴んでくれなかった。


 ついに耐えかねた私が目を開けると、そこには彼の大きな瞳があった。闇よりくらい黒を湛えたその瞳は真っすぐ、真っすぐに私のことを見据えていた。それはまるで私の浅ましい考えを見透かしているかのように感じられた。


 私の感情はそこで決壊した。流していたはずの涙は枯れきってしまっていたのか、私は瞳から血を流しながら彼に対して懺悔ざんげした。


「ッ! 申し訳ございません! 貴方様のことを一度だけでも疑ってしまいました。それが故に瞑っていた目を開けてしまったこの私をどうかッ! どうかッ! お許しいただけないでしょうか? 貴方様のためならばどんなことでも致してみせます。ですから、どうか私もかの者たちと同じ様に貴方様の手で摘み取ってはいただけないでしょうか?」


 彼の前で両膝を地面につけて、胸の前で手を組み彼に懇願こんがんする。


 ああああ、私はなんて醜いのでしょうか。


 泣きながら喚き、自分で静寂こそが彼に似合うなどとほざいておきながら自分でもそれを守れないのです。きっと彼はそんな醜い私の内面を鋭く見抜いていたのでしょう。


 彼は顔を上げて再び立つと背中に生えた巨大な腕を天高くに掲げ、今まさに振り下ろさんという姿でした。


 ああああ、なんてひどい仕打ちなのでしょう。愛した彼に私が最も嫌っている方法で別れを言い渡されるなんて……こんなことなら私も羽蟻のように飛ぶか、蜘蛛の子のように一目散に逃げるふりをした方がよかったのでしょうか。


 しかし、せっかくの最後です。涙を拭き、自分の足で立ち、静かに最後の時を待つとしましょう。


 彼の無慈悲な拳が東京に振り下ろされたその瞬間――私は死にました。

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