3-12
「……わかってる、わかってるから」
第六訓練場での午後最後の授業が終わり、帰りの最初の一歩を動く前からノヴァが俺の手首を掴んでいた。
「何を?」
「何って、用があるんだろ。逃げやしないから」
俺の答えにノヴァは鼻を鳴らすと、手を離してくれる。
「話なら、場所を変えないか? それとも……」
「違う。あなたとはやらないわ、少なくとも今はもう」
てっきり昨日に続いて対戦を申し込まれるのかとも思ったが、そのつもりはないらしい。
「でも、そうね。場所は変える」
放課後になっても、各訓練場は模擬戦や自主訓練の生徒が多く訪れ、落ち着いて話を出来るような環境とは言い難い。行き先は決めてあるのか、先に行ってしまうノヴァに少し遅れて着いていく。
「随分と歩くな」
「…………」
廊下を渡り、角を曲がって更に進む。手頃な空き教室や談話室にも見向きもせず、俺の呟きに返事をする事もなくノヴァは早足に進んでいく。
「開けて」
「……いや、別にいいんだけども」
やがてノヴァの足を止めた先、そこはおそらくは俺が最も見慣れた扉で。
男子生徒が女子寮に入る事に怪訝な目を向ける者はいても、その逆はあまりいない。それを女性優位だと騒ぎ立てるつもりはないが、だからといって相談もなく堂々と俺の部屋を会話場所に選ばれては少し困る。
「よく俺の部屋なんて知ってたな」
「…………」
他愛無い語りかけも無言で流され、仕方なく自室の鍵を開ける。
「それで、用事は?」
椅子も一つしかないので、ベッドに腰を下ろして本題に入る。
「……座らないのか?」
「そうね」
それでも話を切り出さず、少ない足の踏み場に立ち尽くすノヴァに気まずくなって座るように提案すると、何を思ったか俺のすぐ隣に腰を下ろした。
「ここに座るのか」
「他にどこに座ればいいの?」
「椅子があるだろうに」
「……そうね」
どうやら、俺が言うまで気付いていなかったようで、それでも意地のつもりなのかノヴァは座る場所を移そうとはしない。
「……チャイの事は、もういいわ」
「そうなのか?」
当然、今回ノヴァが俺を呼び出した理由だと思っていたチャイとの件に釘を刺され、少し拍子抜けする。
「本当は良くはないけど、私がどうこう言うのは違うから」
「そうか」
例えそれが善意からのものであっても、人からの慰めを嫌う者はいる。おそらくチャイはそのタイプで、だからノヴァに出来る事は実際のところ何も無い。
「でも、それなら何の用が?」
幾度目かの同じ問いに、ノヴァは微かに目を伏せ、そして視線を上げて俺の目を見た。
「謝って」
「……何を?」
チャイに謝れ、と言っているのでない事は、流石にわかる。だが、それならば俺は何を誰に謝ればいいのか。
「……私に、嘘をついた事」
少しだけ逡巡した後、ノヴァは苦々しい表情でそんな事を口にする。
「嘘? そんな事、あったか?」
俺がノヴァに嘘をついた事がないかと言えば、多分そんな事はないだろう。ただ、最近で、それもわざわざ俺を呼び出すほどノヴァを怒らせる嘘となると、全く覚えはなかった。
「シモンは、従者としての男女は平等だって言った」
「言ったな」
いつの事だかはわからないが、あるいはいつの事だかわからないからこそ、俺がその類の事を口にしたのは間違いない。
「そうね、そういう事」
頷いたノヴァは、更に言葉を続ける。
「私は、男女が平等だとは思わない。身体能力の時点で、男女にはすでに差があって、実際に従者の数も男性に比べて女性は少ない」
ノヴァの言う事も何も間違ってはいない。全体で見れば、従者に適している性別は女性よりも男性だという事実は存在し、つまり男女は平等ではない。
「俺が言ったのは――」
「覚えてる。シモンは、『でも、ノヴァはお前より強い。それだけの話だ』って言ったの」
訂正しようとした言葉は、割り込まれて最後まで終えられない。ただ、ノヴァは俺の言わんとした事はわかっているようで。おそらく一言一句を再現したのだろう、俺自身も覚えていない俺の台詞らしきものは、俺の言う平等という奴をそのまま説明していた。
「『男とか女とかじゃなく、誰が誰より優れてるか、それだけだ』とも言った」
続いた言葉には、朧気ながら覚えがある。入学最初の総合試験、暫定順位を決めるそれでノヴァが当時の俺の一つ上の順位、二位を獲得した時の会話の一部だ。軽く褒めただけの俺にやたらと突っ掛かってきた様子が印象的で、今も記憶の隅に残っている。
「女だからってだけで、従者を目指すのを止めるように言われてきた私にとって、シモンがそうやって『私』を認めてくれたのは嬉しかった。なのに……」
「嘘じゃない」
ノヴァの事情を詳しく聞いた事はないし、必然それを俺は知りもしない。それでもノヴァが何について憤りを感じているかくらいはわかる。
「それなら、なんで私を、チャイを相手に手を抜いたの?」
幾分か冷静さを取り戻したノヴァの言葉は、だが完全に的を外れていた。
「まず、俺はお前相手に手は抜いてない」
「嘘、決められる瞬間は何度も――」
「リスクを取りたくなかっただけだ」
ノヴァとの模擬戦において、決まっていたかもしれない瞬間は幾度かあった。ただ、そのどれもにおいて、俺が負けていた可能性も同時にあったから。
「いや、リスクを取る必要がなかったんだ」
「……っ」
残酷な訂正に、ノヴァが小さく息を呑む。
勝者が敗者に掛ける言葉はない。正確には、敗北に傷付いた敗者には、どのような言葉も慰めどころか傷を抉る事しかできない。
それを理解していないノヴァは、おそらく敗北に慣れておらず、だからそれに慣れている俺はあえてその事を覚えさせてやろうと思った。
「俺はお前に手加減なんてしてない。ただ、格下相手の戦い方をしただけだ」
自分でもつい最近気付いたその事実を、覆い隠さずに突き付ける。
「そして、それはお前が女だからじゃない。ただ、お前が弱いからだ」
「…………そう」
俺の言葉が、ノヴァにどのような影響を与えたかは想像するしかない。
俺は、その事実を明確に言葉にして告げられた事はないから。それでも、そう宣言されるという事は想像するだけで耐え難いものだった。
「……そう、ね」
ノヴァの声からはどのような感情も読み取れず、立ち上がる様子も普段のそれとほとんど変わりない。
そのまま部屋を後にするノヴァを、俺はただ黙って見送った。
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