アンジェラ・クーン
秋風ススキ
本文
大学への進学を機に親元を離れ大学の近くで一人暮らしを始めることになった。はじめは学生寮のお世話になっていたが、1年も経たない内にそこをやめ、大学から電車で7駅の距離にある場所のアパートに引っ越した。ちなみに途中で乗り換えがある。
数十年前にニュータウンとして開発された土地であった。アパートを借りる仲介をしてくれた地元の不動産屋さんのおじさんによると、一戸建ての分譲が始まって10年ほどは若い夫婦が大勢いて、子供も次々と生まれていた、賑やかな町だったそうだ。今では静かな町である。最初に家を買った夫婦の孫世代が生まれて、親子3代で暮らしている家族もいるらしいが、子供たちは巣立って別の土地に住んでいて、今や熟年夫婦2人の生活、という家庭の方が多いらしい。
人口も減少傾向にある。そのため不動産価格と賃貸料も下落している。だから特に裕福ではない学生であるぼくが、それなりに大きな部屋を借りることもできた。
元々、山を削り、雑木林を切り開くことによって造成された町である。それが人口減少に伴って、自然が侵食しつつある。元ある場所を取り戻すように。数は多くないが、売りに出されたものの買い手がつかないでいる家の庭には雑草が生い茂る。更地にされた土地は草で覆われる。人が住んでいても、熟年夫婦だけの暮らしなどの場合、庭の手入れも億劫になりがちであり、自然の草花の勢いが強くなる。
ぼくは学校が休みの日など、勉強の合間の気分転換のつもりで町を散歩することが多くなった。覗き見するつもりは無くとも、草の生い茂った更地などは目に入ってしまう。在学中のほんの数年滞在するに過ぎない、いわば一時的な住民のぼくにとっては、野生の草花も綺麗だなという感想がまず出てくる。長く住んでいる人にとっては、もっと深刻な事柄であろう。
「タヌキの群れを見かけるのよ。数年前から。人が少ないということが分かるのでしょうね」
町で弁当屋さんを営んでいる女性から、そう聞いたこともあった。よくその店を利用する内に親しくなったのであった。タヌキか、ちょっと見てみたいな、とその時は思った。
その日、ぼくは雑木林にいた。散歩の足を少し伸ばしたのであった。大学で出来た友人に、菌類の研究者を志している人がいたので、もし何か面白そうなキノコが色々と見つかるようならば、この場所を紹介してあげようという気持ちもあった。その友人というのが女子学生だったもので。
雑木林を歩きながら、こうして気軽に入ったけれど野犬とかがいたら怖いな、と思った。そこで地面に落ちていた太い木の枝を拾った。それを持ってまた歩いていると、獣同士が争っているような音と鳴き声が聞こえて来た。それはぼくの方に近づいてきた。そして数匹の獣がぼくの視界に現れた。
タヌキの喧嘩と最初は思った。よく見ると数匹のタヌキが寄って集ってタヌキとは少し異なる見た目の1匹の獣を襲っていた。
ぼくは持っていた木の枝を振り回して、そのタヌキたちに攻撃した。マイノリティーや弱者が常に正しい訳ではないだろうが、暴力沙汰を止めるのは悪いことではないであろう。見た感じ、タヌキたちがその獣を食べるために、すなわち食物連鎖のリンクの1つとして、襲っているようではなかった。だからその行動を取ったからと言って、ぼくが今後、行動を一貫させるべく、肉食をしてはいけなくなる訳でもない。
タヌキたちはぼくを威嚇したり飛びかかろうとしたりしていたが、やがて退散した。襲われていた獣は傷を負っていた。ぼくは木の枝を投げ捨て、その獣を抱きかかえた。ぼくと傷ついた獣だけがいて、そしてぼくが木の枝を持っている光景を誰かに目撃されたら、誤解されてしまう。
その獣はぐったりとしていて、自然に治癒しそうにはなかった。ぼくは抱きかかえたままアパートに連れ帰った。救急箱を部屋に置いてあったので、それを使って手当てをした。ぼくは医学部にも獣医学部にも通っていないので、素人の手当てであり、応急処置である。しばらく室内で休ませたら少し元気そうになったので、リンゴを食べさせた。獣は前足を器用に用いて、そのリンゴを持って食べた。そのアパートはペット禁止であったし、野生動物を勝手に捕まえたり飼育したりすることには法的、倫理的な問題がある。だからリンゴを食べさせ終えた後で、雑木林までまた連れて行って放した。
これが今年の9月の話である。
10月に入って大学の授業が始まった。ぼくはちょっと保険方面の資格の取得を目指して、それに関連した講義を幾つか受講したり帰宅前に図書館で専門書を調べたり、それなりに真面目に勉強し始めた。
「ちょっとした美人が編入してきたらしいぜ。金髪で、もしかしたら留学生かも。コンパをすることになったら、お前も誘ってやるよ」
という話を学友から聞いた時も、
「いや。今ちょっと勉強で忙しいから」
と応じた。
図書館での勉強後、ぼくが学生食堂で夕食を取っていると、1人の女性が隣に座った。そして話しかけてきた。
「それ、カレー?」
「はい」
「わたしはサラダ」
初めて会う人であった。初対面の人から馴れ馴れしく話しかけられると警戒してしまう。特にそれが美女とあっては。彼女は金髪であった。染めているのではなく自然にその色であるようであった。顔立ちから見て日本人と欧米の人のハーフだろうかと思った。友達がこの前に言っていた学生というのは、もしかして彼女かもしれない、とも思った。
「わたしここの学生だけど、入学してすぐに短期の語学留学に行ったの。こういう見た目だけど日本育ちで、英語の会話は得意ではなかったから。それで今学期からこっちの大学に通い始めたの」
「そうなのですか」
「それでこの学校のみんなと早く仲良くなりたくて。こうして声を」
「なるほど」
その日は学食を出た時点で別れた。数日後、今度は講義室で彼女と出会った。同じ長机の、隣の席に彼女が座って来たのであった。
「それほど多くはないけど、友達に紹介するよ」
と、講義の後で彼女に言うと、彼女は、
「ううん。それより今度デートしよう。ちなみに言い忘れていたけど、わたしの名前はアンジェラ・クーン」
と言った。
ショッピングモールはパンプキンやキャンドルの飾りつけで賑やかであった。
「これってハロウィーンという行事なのだっけ?」
「うん。10月はほとんど1ヶ月間ずっとこういう感じになるね。最近の商業施設や大通りは」
「ちょっと軽薄な気もしない?」
「飾りつけくらいなら良いと思うよ。賑やかだし。店の関係者じゃない人が勝手に置いているとかだったら問題だけど」
「まあね」
ぼくはアンジェラと、大学から電車で10駅の距離にあるショッピングモールに来ていた。デートである。
「一昔前には10月の途中から12月の終盤までずっとクリスマスの飾りつけだったみたいだから、それよりは季節感があるとも言えるよ」
「まだ秋なのに、綿で作った雪の飾りのついたツリーとか、ちょっと雰囲気がおかしいものね」
一緒にクレープを食べたり、服屋さんで彼女が帽子を買うのに付き合ったり、まあ健全なデート。大学生にしては健全過ぎるかもしれない。
そろそろ帰ろうということになって、電車に乗り、何駅か通過した時に、それまでは快活だったアンジェラがもじもじし始めた。そして、
「ねえ。次の駅の側に公園があるの。行かない?」
と、言った。ぼくはOKした。
公園に来た時にはもう夕焼け空であった、ぼくたち以外に人の姿は無かった。
「実はわたし、あなたに噓をついていたの」
「噓を?」
「わたし、同じ大学の学生ではないの。留学というのも噓」
「うん」
「そして人間でもないの」
「へ?」
「あなたがこの前、助けたアライグマなのよ」
「あ、ああ。あれはアライグマだったのか」
そう言えばタヌキの群れの中にアライグマが混じっていることがあるとか、何かで読んだことがあると思い出した。
「アライグマだけど偉いタヌキに弟子入りして、化ける術を学んだの。それで人間にも化けられるようになったのだけど、他のタヌキがわたしを目の仇にして。化ける術を持っているタヌキよりは、自分では術を習得していないタヌキの方が、より攻撃的だった。自分たちだって、化ける術を学びたいなら、学ぶことのできる環境があるのに。わたしはその先生のもとを去ったのだけど、しつこい連中が追いかけて来て。いくら迫害されていると言っても、師匠の同族と戦うことに術を使いたくなかったし」
「そうだったのか」
「疑わないの?」
「他人のストーリーをすぐ疑ってかかったり否定したり、夢の無いことを言ったりはしたくないのさ。まあ、こう言葉にしてしまうと、相手の言葉を本当は真実だと思っていない、真剣に受け取っていない、というニュアンスが生まれてしまうけど」
「嬉しい。でもあなたのその優しさの後ろには、何か悲しみがありそう」
ぼくの家は2世帯住宅で、父方の祖父母と同居していた。食事はよく一緒にとっていた。家族の誰かの誕生日などイベントの日は必ずそうであった。そしてクリスマスも。正確に言うとクリスマスイブの夜に行うパーティー風の夕食である。
そのパーティーの翌朝、つまり25日の朝、ぼくが起きると枕元にプレゼントが置いてあったものだ。手紙も添えられていた。10歳を過ぎても置かれていた。その頃にはぼくにも少し疑う気持ちがあったが、それでも信じているという体であった。
小学校6年生のクリスマスが近づいていた。どうやら両親は、その年で最後にしようと思っていたらしい。順当に行けば、プレゼントと一緒に、今年で最後だよというメッセージの手紙が、クリスマスの朝のぼくの枕元に、置かれていたことであろう。
それがぼくの祖母が、家族観や家庭の食文化について書かれた、当時ちょっと流行していた本を読んでそれに影響されたのか、あるいは祖父の入院や親戚の法事のことで出費が重なる一方で父の冬のボーナスは少なそうであるという家庭の財政状態を祖母なりに心配してのことか、サンタさんなんていないのよ、プレゼントはお父さんのお金でお母さんが買って来ているのよ、ということを突然ぼくに言った。12月の半ばのことであった。
ぼくは泣き、母は祖母に抗議したが、結局その年ぼくの枕元にプレゼントは無かった。
「その婆は今どうしているの? 死んだの?」
「祖母はちょっと体を悪くして、今は施設にいるよ。祖父はもう鬼籍に入っていて、実家の、祖父母が住んでいた場所には今、母の妹夫婦が住んでいる」
「へえ。死を待つばかりなのね」
「そういう言い方は。身体が悪くなる前に、お遍路さんに行って。今は他の入居者の人と仲良くお喋りなんかして過ごしているらしい。時々口癖のように祖父との再会が楽しみだと言っているらしい。死をあまり怖がってはいないみたいだね」
「ふむ」
「どうしたの?」
「なんでもない。今日はありがとう。大学の職員とかに怪しまれても困るから、もうキャンパスには現れないわ」
ぼくらは公園で別れた。
言葉の通りアンジェラは大学に現れなくなった。ぼくは資格の取得を主な目標とした、勉学の日々に戻った。
そして12月になっていた。
その日、ぼくは朝から菌類学者志望の友人と一緒に映画を見に出掛けていた。19世紀の偉大な植物学者を主人公とした伝記映画であった。映画の後で遅めのランチも共にして、それから別れた。彼女はこれからレポートを書き始めるつもりだと言っていた。
映画館に入る前に携帯の電源は切った。彼女と別れてから、ぼくは携帯の電源を入れた。すると母からの電話の着信通知が複数あった。
かけ直したぼくは、祖母の容態が急変したと告げられた。
ぼくは急ぎ実家に戻り、母の運転する車に乗って、祖母のいる施設へ向かった。祖母は今すぐ命が危ないという状態ではないとのことであった。
「病気の悪化ではないみたいなの。何か精神的なショックを受けたみたいな様子で。おかあさん、いつもは朝早くから共用スペースに出てきて、他の入居者の方とおしゃべりしていたのに。その日は個室から出てこないから、施設の方が心配して見に行ってくれたそうなの。そうしたら布団の上で座り込んでいたそうで」
うわごとを言い続けているとのことであった。
ぼくも面会に行った。個室ではなく、病院の入院患者がいる部屋に近い造りの部屋の、ベッドの上に祖母はいた。打ちひしがれた人間のように、俯いて座っていた。何かブツブツ言っていたが、内容を聞き取ることはできなかった。
ぼくが到着してもしばらくは気付かず、5分くらい経ってからぼくの方に目を向けた。ぼくの姿を見てもしばらくの間、ぼくだということを認識できていないようであった。やがて、ぼくの名前を大きく声に出した。恐ろしい人物の名前を口にしているかのような声であった。それからまた俯いてブツブツ言い始めた。
サンタ、という音が聞えた気がした。
祖母がぼくを怖がっているということに、側にいる職員の人や母は気づいていないようであった。ぼくの名前を強い声で呼んだのは、孫の来たことを喜んでのことであると、解釈したようであった。
「今日はよく来てくれたわね。勉強のこともあるでしょうから、ちょっと休憩してから帰りなさい」
そう言われてぼくは、その施設の中庭に行った。自動販売機があったので、そこで缶コーラを買い、ベンチに座って飲み始める。
「それ、コーラ?」
白衣の女性が隣に座った。その施設の女性職員の制服を着た女性であった。
「わたし、オレンジジュース」
缶を見せてくれた彼女は、金髪であった。
「アンジェラ」
「うふふ」
中庭には他にも数名いたが、ぼくたちからは離れた場所にいた。
「あの婆の前に現れたのよ」
「その姿で?」
「初めはそう。それから仏像みたいな姿に化けた」
「仏像」
「それで、お前の夫は極楽にいるが、お前は極楽には行けない、と言った。厳かな声を作って」
「……」
「それからサンタクロースの姿に化けたの。丸々した体型で、白く長い髭があって、真っ赤な服を着て帽子をかぶっている姿。その姿で、サンタクロースを否定した人間は天国にも地獄にも行けると思うな、と言った。サンタクロースが存在しない世界には愛も夢も優しさも存在しない、という議論も援用したわ」
「うん」
「これであとしばらくの命、きっとずっと苦しむわ」
アンジェラは笑顔になった。すごく嬉しそうで誇らしげな笑顔。飼い猫が小鳥やネズミを飼い主のもとへ運んできた際に、もしその猫に人間のような顔があったならば浮かべそうな笑顔。
ぼくは彼女に対してどんな表情を返し、何を言うべきなのだろうか。ぼくはなかなか答えを出すことができなかった。
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