無駄なことはしたくない

秋風ススキ

本文

 才能の無い人間は人生における選択についてあれこれ悩む必要が無い。与えられた仕事をそれなりに真面目にこなして、与えられた娯楽を享受していれば良い。向いていることが1つだけあるならば、それに取り組めばよい。複数の才能を持って生まれた者に、選択の悩みは訪れる。たとえばピアノの才能と数学の才能、どちらもその高い資質を有していることに子供の時点で気付いたならば、ピアノと数学のどちらに本腰を入れて取り組み、どちらを趣味、余技にとどめるべきか、遅くとも10代が終わる前には決心しなければならない。具体的には、総合大学の数学科に進むか音楽大学に進むか、高校卒業後の進路を選択する時までには決めなければならない。さもなければどちらの分野も中途半端な結果しか出せなくなる。才能が色々とあればあるほど、選択肢は増え、選択は悩ましくなる。天才であるからこそ、取り組んで成果を上げることのできる分野、事柄が色々とあるからこそ、選択について真剣に悩む必要があるのだ。

 これが、P氏が10歳を過ぎたばかりの時に到達した考えであり、そしてP氏は自分を天才だと思っていた。だから自分の人生を最も有意義なものとする最善の選択を、確実に行うべきだと思った。10代の数年間を使ってその仕事に取り組んだ。採用した手段はコンピューター上で行うシミュレーションであった。数百、数千通りの、否、細かな条件の差異が結果に大きな違いを与え得るということを考慮して、数千万通りの人生をコンピューター上でシミュレーションするという方法であった。これを10代にして1人でほぼ全て実行する能力を、数学、物理学、情報科学、プログラミング、その他諸々の分野についての高度な学習能力と応用力を有していたのであるから、P氏が天才であることに間違いはない。

 ここまで天才なのだから大学受験などというものは問題にならない。お金も、個人的なレベルでは既に問題にならない。頭脳を活用して、ネットによる金融取引を行い、財産を形成した。今P氏が住み、研究開発の場としている建物も、そうして得た金を使い、親から名義だけ借りて、建てたものである。限られた寿命を見据えて、どう生きることが自分と人類にとって重要であるか、が問題になる。結果だけではなく過程も重要である。芸術における真の天才が創作の過程を楽しんでいるのと同様、過程に精神的な充実があってこそ最善の選択肢と言える。

 だからP氏は、過程もしっかりシミュレートされるようにシステムを設計した。ひとたびシステムを走らせ始めれば、システムの外で観測しているP氏にとっては1時間程度のことであるが、システムの内部では数千万のシミュレートされた人格が、20歳くらいから死ぬまでの人生を体験することになる。細かい感情の機微まで再現することはできなかったが、喜びや悲しみはちゃんとシミュレートされていた。怒りや憎しみも。それらも数値化されて、それぞれのシミュレートされた人生の評価に加算される仕組みであった。外面的にどんなに良い人生であったとしても、本人の心中が怒りと憎しみで満たされていたならば、あるいは虚無感だけであったならば、それは最善の選択とは言えない。

 システムは完成した。シミュレーション開始の命令をシステムに与えれば、後は1時間と少し待つだけで、シミュレーションの結果、高い評価がついた幾つかの人生についてのデータが、出力されるところに来ていた。どういう選択肢をとった場合の人生であるか、ということについてである。それは、その選択肢をとった場合の未来において、現実のP氏が成し遂げる事柄について、完全に予言するものではない。たとえば発明や作曲について、どういう道具や曲を作り上げるのか完璧にシミュレートされるならば、そのデータを今ここで抜き出せば、発明や作曲が10代のこの時点において達成されることになる。そこまで都合よく、なおかつ楽しみの先取りをしてしまうような形でシミュレーションを行うシステムではなかった。新奇なアイディアというものはやはり、人間の頭と生の現実との格闘と戯れの中から生じるのである。少なくともP氏はそう考えていて、その考えに従ってシステムは作られていた。

 開始の命令を出す前にP氏は少し躊躇した。シミュレートされる人格には、彼自身の脳の状態をスキャンして得られたデータが使用される。そのデータは既に準備済みであった。知識と記憶を主にしたデータであり、P氏の知能指数などの要素ももちろん反映させてある。要するに自分のコピーなのである。そのコピーに偽りの人生を生きさせることにはためらいがあった。特に、万が一それが大成功につながる場合を考えて用意してある、おかしな選択肢をとるパターンや開始早々に大きな苦難にぶつかるパターンのシミュレーションの主人公となるコピーたちに対して、罪悪感を覚えた。

 それでも実行を決意して、P氏は開始の命令を出した。過去にどれほど多くの、優れた素質を持った人間が、選択の失敗や逡巡による時間の浪費のせいで、その才能を発揮せずに終わったことか。自分はそうはならない。

 大企業家となって経済の力で社会を変えていくことが最善と出るのか、宗教的な方面に進んで現代と未来に相応しい新しい宗教の教祖となることが最善と出るのか。結果が楽しみであった。

 開始の命令を出した後、ちょっと咽喉が渇いたからコーラでも飲もうと思って、台所へと向かった。そして冷蔵庫の扉を開いたところ、何も入っていなかった。おかしいなと感じつつ扉を閉め、振り向くと、そこは暗闇であった。ぎょっとしながら冷蔵庫の方を見ると、冷蔵庫はそこにあったが、他は暗闇となっていた。暗闇の中に冷蔵庫とP氏だけが浮かんでいるかのようであった。

「やあ」

 という声が聞こえた。声の主の姿は見えなかった。

「これは一体。まさか」

「そう。これがシミュレーションなのだよ」

「どこから?」

「お前が生まれてから。お前の主観で言うならば、物心がついてからだな」

「なんでこんなシミュレーションを。お前は誰だ。本物のP氏か」

「違う。おれは本物のP氏が作ったシミュレーションの中の存在だ。お前が開発したシステムとほとんど同じようなシステムを、お前と同じ目的で、本物のP氏も作ったのだ。というより、本物とほとんど同じ行動を取るように初期値を設定したシミュレーションの世界が、お前の世界なのだ」

「お前もシミュレートされた存在。入れ子構造か」

「まあ、そうなるな。おれに関しては、人生の途中で自分がシミュレートされた存在であることに気付く、という設定がなされていた。驚いたね。ある日を境に、この世界はシミュレーションであるという文字がそこらに浮かび上がったり、自然や人間が明らかにおかしな振舞いをしたり、し始めたのだから。最近は出てこないが、先々どうなるかは分からない」

「本物のP氏はどうしてそんなことを?」

「さあな。人生の選択のついでに知的好奇心も満たすつもりになったのかもしれない。おれは絶望したが、何せ頭脳の設定が本物のP氏と同じだ。そしてたまに変なことが起こるようになっているとはいえ、物理法則や技術の進み具合も現実と同じ。要するにシミュレーションを行うシステムを、自分でも作ることができる。そこで作ってみることにした。本物のP氏と同じく10代の内にシミュレーションのシステムを完成させる、という設定を基本として少しずつ差異を付けて沢山作っている。お前はその内の1つの世界におけるシミュレートされた人格だ」

「しかし。こんなシミュレーションをしたって何の得にもならないでしょう」

「ああ。だが気分が少しは晴れる。おれをこんな存在として生み出した本物と属性が同じで、主観的にも自分をP氏だと思っていて、なおかつ同じことをやろうとしている連中を、こうやって暗闇に叩き落すことができるのだから」

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